誕生
フランツ・フェルディナントは1863年12月18日、オーストリア皇帝フランツツ・ヨーゼフ1世の弟であるカール・ルートヴィヒ大公の長男として、オーストリアのグラーツで生まれました。
実母はフランツ・フェルディナントが8歳の時に死亡し、、その後8歳年上の継母であるマリア・テレジアに育てられます。(有名で同名の女帝マリア・テレジアとは別人)
1875年、フランツ・フェルディナント11歳の時、従兄弟のモデナ公フランチェスコ5世が後継ぎも無く死亡したため、大公としてオーストリア・エステ家の莫大な財産を相続し、ヨーロッパでも有数のお金持ちになります。
1889年、これまた従兄弟でオーストリアの皇太子であったルドルフが、マイヤーリンクで愛人と共に心中を行いました。オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフには他に息子も居なかったため、皇帝の弟であるフランツ・フェルディナントの父カール・ルートヴィヒが皇位継承者となります。
その父は1896年に腸チフスで亡くなったため、カール・ルートヴィヒの長男であるフランツ・フェルディナントが、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者と目されるようになります。
さて、皇室であるハプスブルク家の男子は、軍隊に入るのが通例でした。
フランツ・フェルディナントも12歳の頃から軍に入り、14歳で中尉、22歳で大尉、27歳で大佐、31歳で少将と皇族として順風満帆に出世していきます。
1913年には、皇帝に代わってオーストリア=ハンガリー帝国の全軍の軍権を掌握していたりします。
伯爵令嬢ゾフィーとの身分差の恋
そんなフランツ・フェルディナントは、1894年に運命の人と出会います。
相手はテシェン公フリードリヒの妃イザベラの女官をしていた、伯爵令嬢のゾフィー・ホテクです。
この2人はすぐに良い関係となり、フランツ・フェルディナントはゾフィーと会うために、テシェン公の屋敷を頻繁に訪れるようになります。
しかしフランツ・フェルディナントはハプスブルク家の皇族。ハプスブルク家の結婚相手は王族ではないといけません。
伯爵令嬢なんてただの貴族です。この頃は王族は王族、貴族は貴族、平民は平民と結婚するのが普通でした。身分をわきまえろということですね。
ですがフランツ・フェルディナントはゾフィーに本気で恋をしていたので、2人の関係は秘密にして、こっそりとテシェン公の屋敷を訪れていたのです。
テシェン公イザベラの勘違い
しかしこれを勘違いしたのは、ゾフィーの勤め先のテシェン公妃イザベラ。
イザベラは何度も自分の屋敷を訪れるフランツ・フェルディナントを見て、「うちの娘に気があるに違いない!未来の皇帝候補が!」と有頂天になります。
ある日、フランツ・フェルディナントはテシェン公の屋敷に腕時計を忘れて行きました。
当時、腕時計の裏には意中の女性の肖像画を入れていました。
イザベラはこれ幸いと、フランツ・フェルディナントの忘れものの腕時計の裏を見てみました。
するとそこには、自分の娘の誰でも無く、自分の女官の肖像画が描かれているではありませんか!
期待を裏切られたイザベラは激怒。
自分の女官を勤めていたゾフィーをクビにし、そしてオーストリア=ハンガリー帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフにこのことをチクりました。
埋められない身分差
これを聞いた皇帝は激怒します。
ハプスブルク家の皇族は、王族と結婚しなければならないのです。
しかもフランツ・フェルディナントは帝国の後継者候補、それが伯爵令嬢ふぜいと結婚するだと?ありえん!
皇帝はフランツ・フェルディナントを呼び出し、ゾフィーと別れるように命じましたが、フランツ・フェルディナントは言う事を聞きませんでした。
皇帝だけではなく、教皇レオ13世をはじめとする各国の君主が、この身分差の恋がヨーロッパの君主制の安定を損なうとフランツ・フェルディナントに説得を行いますが、ゾフィーへの愛が固い彼は「彼女とでは無いと結婚しない!」と聞く耳を持ちません。
皇帝は業を煮やし、「ならば結婚か帝位かどちらか選べ!」とフランツ・フェルディナントに問います。
すると彼は、「私はどちらも取ります」と答えました。
継母マリア・テレジアの仲介
この騒ぎを収めたのが、フランツ・フェルディナントの継母のマリア・テレジアです。
彼女は8歳年下で義理の息子のフランツ・フェルディナントとも、皇帝のフランツ・ヨーゼフとも仲が良かった・・・というかハプスブルク家の中でもメチャクチャ好かれていました。
彼女が皇帝を説得してくれたのもあって、ついに皇帝の方が折れ、ゾフィー・ホテクとの貴賤結婚が認められました。
ただし、これには条件がありました。
結婚したとしてもゾフィーは皇族としての特権を何も受けられず、ゾフィーとの間に産まれてくる子供も皇族となれないというものでした。
これを守ることを条件に、皇帝は結婚を許可したのです。
当時王族の結婚は、家門の長が取り仕切ります。
ハプスブルク家の家長は皇帝のフランツ・ヨーゼフなのですから、これに完全に逆らっていてはいつまで経っても結婚ができません。
というわけでフランツ・フェルディナントとゾフィーは、この条件をしぶしぶ飲みました。
寂しい結婚式
2人の結婚式は1900年7月1日、ボヘミアのライヒシュタットで行われました。
オーストリア=ハンガリー帝国の後継者であるフランツ・フェルディナントの結婚式であるというのに、皇帝フランツ・ヨーゼフはおろか、皇族・貴族一同ほとんど出席せず、王族の結婚式としてはなんとも寂しい結婚式になります。
皇族で式に出席したのは、フランツ・フェルディナントの継母マリア・テレジアとその2人の娘だけ。
でも新婚夫婦は、ようやく結婚ができたというだけで幸せでした。
ただ先にも述べた条件のため、ゾフィーは皇族として扱われずに大公妃という称号を名乗ることを許されず、ホーエンベルク公爵夫人という称号を名乗らなければなりませんでした。
フランツ・フェルディナントの政治思想
フランツ・フェルディナントは政治的にドイツとの同盟を保ちながら、険悪になっていたロシアとの関係の改善を模索していました。
彼は「ハプスブルク帝国(オーストリア=ハンガリー帝国)とロマノフ帝国(ロシア帝国)が争えば、共倒れするだろう」と言ってました。実際に両家とも第1次世界大戦の後、共倒れします。
しかし皇帝フランツ・ヨーゼフは、フランツ・フェルディナントの言う事なんて聞きません。というわけで元々結婚のことでゴタゴタしていたのもあって、皇帝と帝位継承者の2人の仲は最悪です。
ちなみに身分差の結婚なんてしたら人気が出そうなものですが、フランツ・フェルディナントの民衆からの人気は良くありませんでした。妻ゾフィーは元々は伯爵という貴族だったということもあって、平民からしてみれば、無粋にも皇族に食い込んでいく成り上がり者というイメージが強かったのかもしれません。
結婚後も続く差別
そんなゾフィーですが、結婚してもハプスブルク家の人間とは認められず、公共の場で夫の横に立つことすら許されませんでした。
皇族の集まりなんかでは幼児の席よりも末席に座らされ、夫の席からは遠く離されました。
しかし1914年6月28日に行われるサラエボの視察では、フランツ・フェルディナント夫婦の結婚記念日であったために、普段は禁じられていた夫婦同伴での公式行事での参加が認められ、さらに車に同乗することまで認められました。
でも当時のバルカン半島と言えば、「ヨーロッパの火薬庫」と言われるほど政治的に危ない場所です。
それに民族主義団体である「黒手組」がテロを行う、という事前情報もありました。
それでもなお、今まで差別され続けてきた妻ゾフィーと共に公式行事に出れるというのは魅力です。
というわけで2人はサラエボの視察に出かけました。
サラエボ事件
第1の襲撃
視察当日の1914年6月28日、午前10時を少し過ぎたころ、フランツ・フェルディナント夫婦が乗る車の近くに手榴弾が投げ込まれます。
しかし手榴弾は夫婦が乗った車の後ろで爆発。後続の関係者の車に乗っていた者と観衆が負傷しました。
このテロを受けて、夫婦が乗った車はスピードを上げて市庁舎に逃げ込みます。
ここでフランツ・フェルディナントは「爆弾を投げつけることが君たちの歓迎の仕方なのか?!」と激怒します。
第2の襲撃
しばらくして10時45分、一行は予定を変更し、病院に運ばれた負傷者を見舞いに行くことにしました。
しかし運転手にはその情報が伝わっておらず、夫婦の乗った車は道を間違えて路地に入ります。
道を間違えたことに気づいた運転手は、元の道に戻ろうと車をトロトロと戻そうとしました。
しかしその路地のカフェでは、黒手組の暗殺者が偶然サンドイッチを食べていたのです。(ウソだろ・・・)
彼はフランツ・フェルディナント夫婦の車が目の前に居るのに気づき、車に駆け寄ってピストルを取り出し、はじめに妊娠中のゾフィーの腹部に、次にフランツ・フェルディナントの首に向けて発砲。夫婦を射殺しました。
これを見た者たちが助けに駆け寄ると、フランツ・フェルディナントはまだ息があり、「ゾフィー、ゾフィー!死んではいけない。子供たちのために生きるのだ!」と呟いて絶命しました。
皇帝フランツ・ヨーゼフの反応
一方、11時30分にオーストリアの首都ウィーンにて、この事件の知らせを電報を受け取った皇帝フランツ・ヨーゼフは落ち着いてこう言いました。
「恐ろしいことだ。全能の神に逆らって報いなしには済まない。余が不幸にも支えられなかった古い秩序を、より高い力が立て直して下さった。」
スティーヴン・ベラー 『フランツ・ヨーゼフとハプスブルク帝国』 坂井榮八郎監訳、川瀬美保訳、刀水書房
これはつまり、神より地上の統治を任せられた神聖なる君主の義務に反し、伯爵令嬢なんぞと貴賤結婚したから神様の罰が当たったのだと言っているのですね。いくらフランツ・フェルディナントと仲が悪いと言っても、ちょっと酷いですね。
夫婦の葬儀、残された子供たち
さらにオーストリア=ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフと、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、フランツ・フェルディナント夫婦の葬儀の席にも出席しませんでした。
また、ゾフィーの遺体はその賎しい身分ゆえに、ハプスブルク家の墓所に入れられることを許されませんでした。
それならばとフランツ・フェルディナントの継母であるマリア・テレジアが、夫婦ともに埋葬してやりたいと申し出て、二人の居城であったアルトシュテッテン城の納骨堂に夫婦ともに埋葬されます。
そして両親を失った夫婦の幼い子供たちは、継母マリア・テレジアが庇護しました。マリア・テレジア良い人過ぎない?
事件が切っ掛けで第1次世界大戦勃発
上記のオーストリア=ハンガリー帝国の後継者が暗殺された事件はサラエボ事件と呼ばれ、帝位継承者を暗殺されたオーストリア=ハンガリー帝国は、1か月後にセルビア王国に対して宣戦布告。
これに反応した各国が連鎖反応的に宣戦布告を行い、ヨーロッパの火薬庫が爆発し、第1次世界大戦が起こってしまうのでした。
しかしフランツ・フェルディナントの懸念通り、第1次世界大戦を通してハプスブルク家が治めるオーストリア=ハンガリー帝国は支配下の各民族が独立して崩壊、ロマノフ家が治めていたロシア帝国でも革命が起きてしまいソ連が誕生するのでした。
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