誕生
ヘレーネは1834年4月4日、バイエルン王家であるヴィッテルスバッハ家の傍系の家の長女として生まれました。
妹には、後に美しさで有名となるエリーザベトが居ます。
オーストリア皇帝との縁談
1853年、オーストリア帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフの嫁探しを、皇帝フランツ・ヨーゼフの母ゾフィー大公妃がしていました。
最初はプロイセン王国からお姫様を貰おうという話もありましたが、ドイツを統一するという野心を持ったプロイセン側から蹴られています。
さて嫁探しですが、宗教がオーストリア帝国のハプスブルク家と同じカトリックで、王族で適齢期の娘と言ったら、ヨーロッパ中を探してもそんなに居ません。
そこで目をつけたのは、ゾフィー大公妃の実家でもあるバイエルン王国の王家であるヴィッテルスバッハ家。ゾフィー大公妃の妹であるルドヴィカには、20歳と婚姻適齢期の娘ヘレーネが居たのです。
さっそくその娘であるヘレーネを調べさせると、家柄・皇妃としての適性ともに問題なく、ヘレーネの父親も事前に結婚に同意していました。
姉妹の息子と娘同士の結婚なので、いとこ同士の結婚になりますけど、そんなの王族では良くある話です。というわけで善は急げと、早速バート・イシュルにて2人のお見合いがセッティングされました。
このお見合い会場に到着したヴィッテルスバッハ家のメンバーは母のルドヴィカ、お見合いの主役であるヘレーネ、それとヘレーネの妹のエリーザベトでした。
あれ、なんでお見合いに関係無い妹まで来ているのでしょう?
これはエリーザベトが15歳と若く、社交界デビューにピッタリだろうと母のルドヴィカが判断して連れて来たんです。
これが歴史を変えてしまうとも知らずに・・・。
運命のお見合い
さて、お見合い会場に到着してさっそくお見合いが始まったのですが、なんと皇帝のフランツ・ヨーゼフはお見合い相手のヘレーネではなく、その妹のエリーザベトに一目ぼれしてしまいます。
当初予定されていた20歳のヘレーネではなく、美しい15歳の妹のエリーザベトにメロメロになった皇帝に、一同はビックリ仰天。
母親であるゾフィー大公妃が、必死に息子のフランツ・ヨーゼフにヘレーネを結婚相手として勧めますが、当の皇帝フランツ・ヨーゼフは「エリーザベトとで無ければ結婚しない!」と言うことを聞きません。
この頃、ゾフィー大公妃はオーストリア宮廷の権力者であり、息子で皇帝のフランツ・ヨーゼフもゾフィー大公妃に頭が上がらなかったのですが、なぜかこの件だけに関してはフランツ・ヨーゼフは反発をします。それだけエリーザベトが美しかったのでしょう。
ヘレーネは信仰に篤く、列車や予定をすっぽかしてしまう悪癖以外は、輝かしいハプスブルク家に相応しい嫁と事前の調査で分かっていたので、ゾフィー大公妃は悩みます。
しかし「まあ、息子がこんなにも頑なにエリーザベトを嫁にしたいと言うのならば、そうしてやろうか」と妥協しました。
政略結婚的には姉ヘレーネと結婚しようが、妹エリーザベトと結婚しようが対して変わらないですしね。
というわけでオーストリア皇帝のフランツ・ヨーゼフは妹のエリーザベトと結婚しましたが、エリーザベトは皇后となれるような器ではなく、ゾフィー大公妃の懸念通り結婚生活は後に破たんします。
気になる方は、エリーザベトの人物伝をご覧ください。
結婚相手を妹に取られてうつに・・・
さて、妹に結婚相手の皇帝を取られて面目が丸つぶれなのは姉のヘレーネです。
もちろん他にも結婚相手を探しますが、当時の列強であるオーストリア帝国の皇帝の代わりになるような相手なんて、そうそう出てくるわけがありません。
そうして2年が経ち、当時の王族としては「行き遅れ」とされる22歳になってしまいました。
結婚相手が見つけられず、妹に恥をかかされたヘレーネは深いうつ状態に陥ります。
この状態を見て焦ったのは母親のルドヴィカです。
娘が世を儚んで修道院にでも入ったら大変。というわけで必死に縁談を探しました。
そしてようやく良さそうな縁談を纏めてきました。
新しい縁談、お見合い
そのお相手はトゥルン・ウント・タクシス侯世子マクシミリアン・アントン。
トゥルン・ウント・タクシス侯爵家は郵便事業などをやっていって、ヨーロッパで1、2を争うほどの大金持ちの家です。オーストリア皇帝ほどじゃないけれど、すごく良い縁談を持って来ました。
ヘレーネの家族はさっそくトゥルン・ウント・タクシス侯爵家の家族を、ポッセンホーフェン城の狩猟パーティに招待します。
そこでのディナーの席で、ヘレーネとマクシミリアン・アントンが顔を合わせました。
今度のお見合いは・・・無事に成功!
二人とも相手を気に入り、結婚に向けて準備が進められました。
新たな障害、身分差
しかしここで待ったをかけたのが、バイエルン王家であるヴィッテルスバッハ家の家長であるマクシミリアン2世です。当時は家長が承認しないと、その家の者は結婚できませんでした。
でもどうして大金持ちのトゥルン・ウント・タクシス侯爵家との結婚がダメなのでしょう?
それはトゥルン・ウント・タクシス侯爵家が君主、つまり王族では無いからです。
トゥルン・ウント・タクシス侯爵家は昔は領邦君主だったんですけど、今は君主じゃなかったんですね。ただの大金持ちの貴族です(それでもスゴイ)。
というわけでバイエルン王家とトゥルン・ウント・タクシス侯爵家では貴賤結婚になり、両家のつり合いが取れてないのです。この頃は王族は王族と、貴族は貴族と結婚するのが当たり前だから、これはしょうがない。
でもここで諦めたら、ヘレーネはもう結婚できないかもしれない・・・。
妹夫妻のサポート
ここで手を差し伸べてくれたのが、妹でオーストリア皇后となっていたエリーザベトと、その夫のオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフです。多分どちらも「ヘレーネには可哀そうなことしちゃったな」と思ってたんでしょうね。
二人はバイエルン王マクシミリアン2世を説得して、ヘレーネの結婚がようやく認められました。
こうしてヘレーネはめでたくトゥルン・ウント・タクシス侯世子マクシミリアン・アントンと結婚。
初期にオーストリア皇帝との結婚に失敗して大恥をかいたヘレーネでしたが、ヴィッテルバッハ家5姉妹のうち、1番幸せな結婚生活を送ることとなります。やはり金が全てか。
夫との夫婦仲も悪くなく、嫁姑問題で深いうつ状態に陥っていた妹のエリーザベトを、コルフ島まで見舞いに行ってたりもします。
トゥルン・ウント・タクシス侯爵家の嫁として
でも1867年、結婚9年目で夫のマクシミリアン・アントンが腎臓病で36歳で亡くなります。
夫婦生活が上手く行ってただけにヘレーネはショックを受けますが、慈善活動などをたくさん行って夫の死を考えないようにして乗り切りました。
夫が死んだら再婚とかもできるんですけど、ヘレーネは再婚とかもする様子を見せなかったため、嫁入り先の義父がヘレーネにトゥルン・ウント・タクシス家の事業に参画させるようになります。
この義父が亡くなると、長男が育って家長となるまで、トゥルン・ウント・タクシス家の家長として家を差配しました。
でも次女エリーザベトが1881年に20歳で死ぬと、ヘレーネは気落ちして公務からは引退し、段々と家から出ることも少なくなっていきました。
そんな折、長男マクシミリアン・マリアも22歳で肺血栓塞栓症でこの世を去ってっしまいます。
こうしてヘレーネは、再び次男アルベルトが育つまで、ピンチヒッターとして数年間トゥルン・ウント・タクシス家の家長を務めました。
最期、妹との和解
次男に家督を譲ってからは、信仰に身を捧げる平穏な生活を送ります。
そして1890年、胃がんになって危篤状態になったヘレーネの元に、妹のエリーザベトが駆け付けました。
若いころは色々あった2人ですが、死を前に話をしてわだかまりを消すことが出来、ヘレーネは5月16日にこの世を去りました。
姉エリーザベトの人生