リヨンで大量殺人をし、ロベスピエールに目をつけられてしまった『リヨンの霰弾乱殺者』フーシェ。
彼は自分を処刑しようとするロベスピエールを逆にクーデターで謀殺し、リヨンでの大量虐殺の責任を同僚のコローに擦り付けて難を逃れました。
極貧生活と天職
しかし、それでもフーシェの嫌疑が完全に晴れたわけではありません。
『リヨンの霰弾乱殺者』という風評は凄まじく、総裁政府下でマトモな職にもつけず、極貧生活を送っていました。
そんなフーシェを哀れに思った総裁のバラスが、たまに私立探偵のような仕事を、彼に細々と与えます。
これがフーシェの人生を変えました。
スパイは彼の天職だったのです。
フーシェは情報を得ると、その情報を使って金を稼ぎ、その金で情報を集め、またその情報で金を生みました。
そして、水面下でなんやかんやあって、いきなり総裁政府の警察大臣として表に出ることとなります。
おそらくは誰かの弱みを握ったり、金で買収したりしたのでしょう。
民衆はこれに戦々恐々します。だってリヨンで大量虐殺を行った極左活動家がいきなり警察大臣になったのですから、無理もありません。
しかしフーシェはここでも天性のカメレオンぶりを発揮。フーシェが警察大臣として着任してから、むしろ今までよりも緩い取り締まりとなりました。
極左活動家という面すら、彼の化けの皮の一つにしか過ぎなかったのです。
フーシェは、表面上の治安が整っているなら、裏で何をしようと見て見ぬふりをしました。そして、水面下で美味い話があれば、取り締まらない代わりに自分も一枚噛んで大儲けしました。
しかし、自分の地位を脅かしそうな者は、その警察大臣の権力を使って、容赦なく徹底的に叩きのめします。
こうしてフーシェの財産は、極貧時代とは打って変わって、天文学的に膨らんでいきました。
しかし取り締まられる側の民衆も、「今の警察はうるさいこと言わないし良いな」と、フーシェの極左活動家のイメージも段々薄れてきました。
ナポレオンとの共闘
フーシェは情報から得た莫大な金を使って、スパイ網を全国に張り巡らせました。地方の娼婦から貴族までが彼のスパイでした。
ナポレオンの妻のジョゼフィーヌも彼のスパイの1人です。彼女は散財が激しかったので、フーシェから多額の支援金を貰い、フーシェに情報を流していました。
もちろんナポレオンがクーデターを画策していることは、フーシェの耳にも届いています。
しかし、フーシェは政府にこのクーデター計画を報告するわけでもなく、これをスルー。見て見ぬふりを決め込みました。
それどころか、逆にナポレオンに政府の情報を極秘裏に流出させました。
ナポレオンがクーデターに成功したら、引き続き警察大臣にしてもらう。
クーデターに失敗したら、今の政府の警察大臣の地位を保つ。
どっちに転んでもフーシェには損がありません。
そしてブリュメールのクーデターが起き、統領政府が樹立しました。新しい統領政府下での警察大臣は・・・。
もちろんフーシェでした。
フーシェの情報網は凄まじいもので、全国各地にスパイが入り込んでおり、あらゆる立場の者の情報がフーシェの手の中に入って来ました。
もちろん上司であるナポレオンにもスパイがついており、ナポレオンの秘書や妻もスパイでした。
ナポレオンもフーシェに力がありすぎると思い、ついに警察大臣を罷免させます。
しかしタダでは罷免させることができず、元老院議員の地位と、今までフーシェの情報網で膨れ上がった警察の資金の半分である100万フランを、フーシェに渡すことが条件となりました。
ちなみに1フランを1000円と仮定すると、現在の価値で退職金が10億円となります。
しかも警察の資金だけではなく、直接自分の懐に入れていた金や、自分自身のスパイ網なども残っていたので、フーシェはこの頃にはフランスでも有数の金持ちになっていました。
本当に、金持ちであることが恥ずかしくなるような恐怖政治を行っていた人物と同じ人なのでしょうか?
フーシェは警察大臣の地位から身を引いてもなお情報収集を怠らず、自費で全国にスパイを雇っていました。
そしてその情報を基に、フランス中の土地を買い漁ってフランス随一の地主となり、株を買いまくって様々な会社の大株主となります。
再び警察大臣へ
そんな彼でしたが、ナポレオンが皇帝となった時に、再び警察大臣として返り咲きました。
これはおそらく、フーシェに議会でナポレオンを皇帝に推挙するように頼んだ見返りと、皇帝に即位した後の世論操作をフーシェに裏からしてもらうためでしょう。
いくらナポレオンが英雄だからと言って、「専制君主が嫌だからフランス革命して共和制にしたのに、次は帝政になったら意味無いじゃん」って言われてもおかしくないですからね。世論操作など、裏工作が得意なフーシェならお手の物です。
ちなみにこの頃ベートーヴェンが、ナポレオンのために「ボナパルト」という曲をつくっていましたが、ナポレオンが皇帝になったと聞いたら「やつも俗物に過ぎなかったか」と言って表紙を破り捨て、曲の名前を「英雄(エロイカ)」に変えました。
しかし、味方になっている時のフーシェは有能で心強いです。
1809年にナポレオンがオーストリアに出兵していてフランスを留守にしている時、イギリス軍がナポレオンの不在を狙ってベルギーに近づいてきました。
陸軍大臣が「陛下(ナポレオン)に許可を取らなければ」とモタモタしていると見るや、フーシェは警察大臣にも関わらず独断専行で越権し軍隊を即座に編成。
そしてベルナドットにその兵を率いさせ、イギリス軍を見事撃退したのです。
陸軍大臣はこのフーシェの越権行為について、ナポレオンに文句を言いましたが、逆にナポレオンに「仕事してから文句言えや」と叱られました。
そして数々の功績を立てたフーシェは、ついに位人臣を極め、平民である船乗りの息子からオトラント公爵にまで上り詰めたのです。
ナポレオンとの不和
しかし、ここからフーシェはナポレオンを見限り始めます。
ナポレオンは戦争をやりすぎだったのです。
彼はヨーロッパを支配しようと、あちこちに戦争を吹っ掛けていました。
今でこそ私たちはクラウゼヴィッツの有名な言葉通り、戦争は政治の延長であり、手段だと知っていますが、この頃のナポレオンは戦争それ自体が目的化してバーサーカー状態になっていました。
確かに戦争には勝ちまくりで表面上は問題が出なかったものの、フーシェはその鋭い嗅覚によって、民衆の厭戦気分を感じ取り、これ以上の戦争には反対だったのです。
そこでフーシェはタレーランと組んでナポレオンを失脚させようと画策しますが、失敗。
さらにナポレオンに無断で、イギリスと和平を結ぼうとしていたのをナポレオンにバレ、激怒されて罷免されます。
しかしフーシェが引退して、これ以上ナポレオンの逆鱗に触れないようにひっそりと暮らしていたら、ナポレオンがロシア遠征に失敗して帰ってきました。
ナポレオンは、「自身が弱っている今、すぐに裏切る風見鶏のこいつを手元に置いておいたら、いつ寝首をかかれるか溜まったもんじゃない」と、フーシェをフランスから遠く離れたイリュリア総督に任命して飛ばします。
そしてフーシェが遠くの地方に飛ばされている間にパリが陥落。ブルボン朝のルイ18世に王政復古しました。
フーシェはパリに戻り、コネを使って官職に就こうとしましたが、パリでは既に官職の席は埋まっており、また同じ王朝で、前の国王であるルイ16世の死刑に賛成したフーシェに官職を与えることなど、あり得ませんでした。
ナポレオンとの共闘2
しかし、そんなフーシェにも転機が訪れます。
ナポレオンが追放されたエルバ島から戻って来たのです!
ルイ18世はナポレオン討伐を軍に命令しましたが、ナポレオンは軍に非常に人気があったため、討伐軍がナポレオンに丸ごと寝返りました。
こうしてルイ18世はパリから逃げ出し、ナポレオンは再びパリに戻って帝位に就いたのです。
この時に、フーシェはちゃっかり警察大臣に就任しています。
ナポレオンとの不和2
しかしナポレオンがワーテルローの戦いで同盟軍に負けると、フーシェは再びナポレオンを見限ります。
ナポレオンは「まだだ・・・まだ終わらんよ」とさらに軍を徴兵しようとしましたが、議会を裏で牛耳っていたフーシェがこれを拒否。
それどころか議会をけしかけ、ナポレオンを皇帝の座から退位へと追い込みます。
こうしてナポレオンの百日天下は終わり、今度はフランスに絶対に戻ってこられないよう、ナポレオンは南大西洋の絶海の孤島セントヘレナ島に島流しにされました。
臨時政府首班、そして再び警察大臣へ
ナポレオンが退位した後、フーシェはカルノーらと共に、フランスの臨時政府を運営します。
フーシェは逃亡していたルイ18世と裏取引をし、自分が警察大臣に就くことを条件に、再びルイ18世を王位につける約束をしました。
そして対仏大同盟軍に無条件降伏を行い、フランスはフーシェの根回し通り、ルイ18世の下、再びブルボン朝の王制に戻ります。
フーシェは、百日天下でナポレオンに味方した反逆者リストをルイ18世に手渡しましたが、そのリストの中には、一緒に臨時政府を運営していたカルノーの名前が書いてありました。
もちろん反逆者リストの中に、フーシェ自身の名前は入っていませんでした。
リストに入っていた者たちは追放されましたが、この時カルノーは「これから私はどこへ行ったら良いというのだ、裏切り者よ?」とフーシェに問いました。
するとフーシェは答えました。
「どこへでも行くがいいさ、間抜け!」
失脚
というわけでルイ18世の治世下、ちゃっかり警察大臣に就任したフーシェですが、ここで超王党派連中が不満の声を上げ始めます。
「どうしてルイ18世の兄である、ルイ16世の死刑に賛成した極左共和主義者が、王政下で警察大臣をしているのだ?!」
特に処刑されたルイ16世とマリー・アントワネットの娘である、マリー・テレーズはフーシェのことを徹底的に嫌い抜いたそうです。
まあそれも仕方ありません。彼女はフランス革命によって両親をギロチン台に送られ、弟は虐待死させられたのですから。
こうしてフーシェはすぐに警察大臣の地位から引きずりおろされ、ザクセン王国の駐在大使として飛ばされ、フランスから離れさせられます。
そしてフーシェがフランスに居ない間に、「ルイ16世の死刑に賛成し、かつナポレオンの百日天下に加担した者を、フランスから永久追放する」というフーシェを狙い撃ちした法律が可決。
哀れフーシェは外国の地にて永久追放を言い渡され、故郷フランスに戻れなくなったのです。
余生
フランスを永久追放されたフーシェは、ザクセン王国からも厄介払いされ、どこの国もこんなややこしい男を引き取りたがりませんでしたが、なんとか知人のメッテルニヒの伝手でオーストリアのプラハに住むことを許されました。
しかしプラハでは、フランスを追放された平民からの成り上がり者である「リヨンの霰弾乱殺者」オトラント侯爵フーシェは、オーストリアの社交界の古参貴族たちの好奇の目に晒されます。
そんな陰湿な上流階級の社交界に嫌気がさしたフーシェ一家は、プラハから田舎のリンツへと逃げるように引っ越しました。
そこで余生を静かに過ごしたフーシェは病気にかかった後、療養として天候の良いトリエステに引っ越し、1820年12月25日、そこで息を引き取りました。
彼の残した遺産は1400万フラン。1フラン1000円と仮定すると、およそ140億円にもなります。
病にかかった晩年の彼は、一度(?)裏切ったキリスト教の熱心な信者となっていたそうです。
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