エパメイノンダスの斜線陣【レウクトラの戦い】

背景

ペロポネソス戦争で、アテナイ率いるデロス同盟に勝利した、ペロポネソス同盟を率いるスパルタ。

覇権を握ったスパルタは他のギリシア諸ポリス(都市国家)に対して、スパルタの駐留部隊の武力を背景として、寡頭制による傀儡政権を導入し、ギリシアを支配していました。

 

もちろんギリシアのポリスの1つであるテーバイも例外ではなく、スパルタに併合されていましたが、市民たちが決起して独立。

しかしギリシア中部の支配が不安定になったと見たスパルタは、テーバイに戦争を仕掛けます。

 

テーバイの指揮官たちは、ギリシア最強とされていたスパルタ軍に恐れをなし、「テーバイの街に籠城してスパルタに抵抗しよう」と総司令官であるエパメイノンダス将軍に提案しました。

テーバイの将軍エパメイノンダス

しかしエパメイノンダスは最強のスパルタ軍に対して、野戦での決戦を挑むことを決意。

ヘビの頭を切って落とし、「ヘビの頭(スパルタ)を潰せば、ヘビ全体が死ぬ」と周りの者らにパフォーマンスを行い、納得させました。

 

こうして紀元前371年7月6日にテスピアイのレウクトラ村近郊で行われた戦いが、レウクトラの戦いです。

戦力

ボイオティア同盟軍(テーバイ側) 重装歩兵6000~7000 騎兵1500

ペロポネソス同盟軍(スパルタ側) 重装歩兵10000~11000(うちスパルタ重装歩兵700) 騎兵1000

戦闘

スパルタの軽装歩兵の襲撃

戦闘は、スパルタ側のペルタスト(軽装歩兵)がスリングや投げ槍で、ボイオティア同盟軍の野営地を散発的に襲ったことで始まりました。

ペルタスト(軽装歩兵)

当初はスパルタに恐れをなして、ボイオティア同盟軍の中には戦わずに逃げようとしていた者も居ましたが、この散兵の攻撃により逃亡しようとしていた者たちはボイオティア同盟軍に戻り、ペロポネソス同盟軍と戦わざるを得なくなって、逆にスパルタの首を絞めます

騎兵戦

青:ボイオティア同盟軍(テーバイ) 赤:ペロポネソス同盟軍(スパルタ)

さて、戦列が整えられて本格的な戦闘が起きると、最初に騎兵戦が始まりました。

この騎兵同士での戦闘は、数に勝るボイオティア同盟軍の方に軍配が上がり、ペロポネソス同盟軍騎兵は敗走しました。

 

この時、戦列を伸ばしてボイオティア同盟軍の左翼側を包囲しようとしていたスパルタ軍は、この敗走してくる自軍騎兵によって戦列を乱されてしまいます。

そしてその隙をついてボイオティア同盟軍左翼の先頭に配置されていた、テーバイ最強の部隊「神聖隊」が混乱する敵右翼のスパルタ軍を打ち破ります。

神聖隊

この神聖隊は全員男性で構成されており、150組300人の同性愛者の部隊でした。「恋人と一緒なら無様な姿を見せずに勇敢に戦うだろう」というコンセプトの元つくられた部隊でしたが、実際とても強かったそうです。

まあこの時代では珍しく、市民兵ではなく国費で平時も訓練に明け暮れていた常備軍のようなものだったので、そのお陰でもあるでしょう。

神聖隊

エパメイノンダスの斜線陣

さて、戦況図を見たら分かる通り、ボイオティア同盟軍の左翼側がすごい厚いのに気づいていましたよね。

スパルタ側であるペロポネソス同盟軍は、従来のファランクス(密集陣形)通り12列の深さで陣形を組んでいました。この深さ12列ぐらいが、当時ファランクスを組むのに陣形としての厚さと横の長さがちょうど良いとされていたのです。

ファランクス(密集歩兵陣形)

 

ファランクスでは、兵士たちは右手で槍を持ち、左手で盾を持ちます。密集状態で陣形を組むため、その左手で持った盾は自分を守るのではなく、左隣の仲間の身を守るのです。

ということは陣形の一番右に居る人は、盾の恩恵に与れずに防御がガラ空きの状態ですよね。だからファランクスでは一番右側に、一番の精鋭部隊を置いていたし、右側に配置されることは名誉とされていました。

もちろん今回の戦闘でも、ペロポネソス同盟軍の最右翼に最精鋭である最強スパルタ軍が配置されていましたし、指揮官であるスパルタ王も居ました。

 

一方ボイオティア同盟軍の指揮官エパメイノンダスは、従来のその配置とは逆に、自軍左翼側に最精鋭である神聖隊を配置しました。

それだけではなく、従来の12列の深さのファランクスの代わりに、50列ものとんでもない深さのファランクスを組んだのです。

これは「スパルタが強いんだったら、数で押せば勝てるだろう」作戦です。

スパルタ側としては、敵を倒しても倒しても、後ろから新しく兵が出てくるわけですね。

 

でもこんなことをすると、中央や右翼側の兵士の数が足りなくなって戦列が薄くなり、中央や右翼が突破されてすぐに負けてしまいます。

いくら左翼でゴリ押しできたとしても、中央・右翼が崩壊してしまっては元も子もありません。

 

そこでエパメイノンダスは考えました。

「ならば進軍に時間差をつけて、敵右翼を突き破る時間を稼げばよいのだ」

 

戦況図のように自軍の行軍に時間差をつけて、階段状に行軍することにより、1番強くて厚くなっている左翼戦列が真っ先に戦闘に参加し、薄くなっている中央や右翼は敵と接敵することはありません。

そして自軍左翼が敵右翼を破った頃に、自軍中央部が敵中央と接敵し、目の前の敵を破った自軍左翼が敵軍の側面や背後に回り込んで翼包囲状態で戦えるという寸法です。超頭良いですね。

この陣形のことを斜線陣と言います。

 

もちろん敵も黙って見ていたわけでもなく、うすい中央や右翼を突破しようとしましたが、ボイオティア同盟軍の散兵や騎兵に阻まれていたので行軍ができませんでした。

こうしてまんまとエパメイノンダスの斜線陣にハマったペロポネソス同盟軍右翼のスパルタ軍は破られ、最強スパルタ軍が負けたのを見た他のペロポネソス同盟軍は逃げ出し、ボイオティア同盟の勝利に終わるのでした。

損害

ボイオティア同盟軍(テーバイ側) 300

ペロポネソス同盟軍(スパルタ側) 4000

その後

このレウクトラの戦いと、続くマンティネイアの戦いでの敗戦により、スパルタが主導していたペロポネソス同盟は崩壊し、スパルタはギリシアの覇権国から2流国へと転落しました。

もちろんペロポネソス戦争でアテナイに勝利して得た、ギリシア全土に対する影響力は霧散します。

 

一方テーバイは一躍ギリシアの覇権国へと躍り出ましたが、マンティネイアの戦いにて優れた指揮官であるエパメイノンダスは戦死してしまい、テーバイには後を継ぐ優秀な指揮官も現れなかったため、続くマケドニア王国のフィリッポス2世の台頭を許してしまいます。

エパメイノンダスの死

 

マケドニア王国の王子だったフィリッポス2世は、テーバイに人質として送られていましたが、この戦いを通して彼の戦術に大きな影響を与えました。ていうか人質時代にエパメイノンダスから直々に軍事、外交教育を受けています。

やっぱり師匠が頭良いと弟子も頭良くなる傾向にありますよね、フィリッポス2世の息子であるアレクサンドロス大王の先生も、西洋最大の哲学者アレストテレスでしたし。

フィリッポス2世

こうしてマケドニアは、フィリッポス2世の治世下でギリシアの覇権国となって、その後フィリッポス2世の息子で軍事の天才であるアレクサンドロス大王が後を継ぎ、アジアの超大国であるペルシア帝国まで滅ぼしてしまうようになったわけです。

アレクサンドロス大王

 

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