誕生
後にポンパドゥール夫人となるジャンヌ=アントワネット・ポワソンは、1721年12月29日パリで誕生しました。
法律的な父親はフランソワ・ポワソンですが、本当の父親は別の男性で、徴税請負人や財政家が本当の父親とされています。
その法律上の父親もジャンヌ=アントワネットが3歳の頃、借金で首が回らなくなってしまい、その頃フランスでは借金を返さないのは死刑とされていたため、父親だけが夜逃げしました。
最強の武器、教養を身に着ける
ジャンヌ=アントワネット5歳の頃、修道院に入って学び始めます。
後に彼女の武器となるウィット(機知)は、この頃から始まる教育によって育まれました。
9歳で修道院から家に戻ったジャンヌ=アントワネットは、母親に占い師の元に連れて行かれ、そこで「この子はいつか国王の心を射止めるよ」と予言されます。
これを真に受けたジャンヌ=アントワネットの周りの者は、早速フランス国王であるルイ15世の愛人となれるべく、育てられるようになりました。
ちなみに、この頃のフランスで占い師に見てもらうことは良くあることでした。
王の愛人となるにあたって、必要なのは教養です。
ジャンヌ=アントワネットはブルジョワ階級だったとはいえ、身分は平民。この頃は王の愛人であっても貴族の女性なのが当たり前でした。
そのような家柄という強力な武器が無いジャンヌ=アントワネットが王の愛人となるには、美しさはもちろん、深い教養に根差したウィットが必要なのでした。
ということで母親の恋人であり、ジャンヌ=アントワネットの実の父親かもしれないと言われていた徴税請負人がスポンサーとなり、彼女にダンスや絵画、彫刻や演劇などの家庭教師をつけるように手配します。
こうしてジャンヌ=アントワネットは、貴族の子弟以上の教育を受けることが出来ました。元々の器量の良さも相まり、彼女は周囲の期待に応えてグングンと教養を身につけて育ちました。
結婚
19歳の頃、徴税請負人で金持ちのシャルル=ギヨーム・ル・ノルマン・デティオールと結婚。
この夫は、美しくて教養深い妻にメロメロでしたが、肝心のジャンヌ=アントワネットは徴税請負人である夫にそれほど魅力を感じませんでした。
彼女はあくまでフランス王国のトップ、ルイ15世狙いだったのです。
この夫シャルル=ギヨームとの間には、1男1女が生まれましたが、どちらも若くして亡くなりました。まあこの時代は乳幼児の死亡率が今と比べてとても高いので、珍しい事でもありません。
サロンで頭角を現していく
さて、ジャンヌ=アントワネットは結婚したことによって、パリで頻繁に開かれていたサロンに参加することができるようになりました。
サロンとは、知人を集めて開く小さな社交界のようなものです。
このサロンに参加することにより、ジャンヌ=アントワネットは広い人脈を獲得することが出来ました。
教育を受けていて教養が見に付いており、ウィットに富んだ会話ができるジャンヌ=アントワネットは社交界でも有名となり、彼女自身のサロンを開いて、モンテスキューやヴォルテールなどの一流の文化人を集めることにも成功しました。
こうしてジャンヌ=アントワネットはブルジョワ社交界の間でも有名な存在となり、フランス国王ルイ15世の耳にも、彼女の名前が届くようになっていました。
しかし名前を知っているからといって、そのままでは何も起きません。
知名度を得たら、次は行動あるのみ。
そこでジャンヌ=アントワネットは、国王の趣味である狩猟に目をつけました。
国王ルイ15世に熱烈アピール
ジャンヌ=アントワネットは、国王が狩猟する森の近くに不動産を持っていたため、王室の狩猟に同行することが許されていました。
そこで王の気を引きたい彼女は、王の行く手の前に現れて遮り、自分自身をアピールしたのです。
社交界で有名な才女にこんなアピールをされて、男の方としても悪い気はしません。
フランス国王ルイ15世は彼女に興味を持ちましたが、この頃のルイ15世にはすでに王の愛人であるシャトールー公爵夫人がいました。
シャトールー公爵夫人は自身の座を狙うジャンヌ=アントワネットを危険視し、牽制したために、この時には王の愛人である公妾となることはできませんでした。
しかし運の良い事に、シャトールー公爵夫人はこの後すぐ1744年12月に死亡。
ジャンヌ=アントワネットが狙う、公妾の座は空席となります。
ルイ15世は、最愛王とも呼ばれたほど女性に目が無かった男性。口うるさいシャトールー公爵夫人が居なくなって、ジャンヌ=アントワネットを放っておく王ではありません。
1745年2月24日、ジャンヌ=アントワネットはヴェルサイユ宮殿で行われる仮面舞踏会に招待されました。
ジャンヌ=アントワネットはそこで、国王ルイ15世との出会いを王に思い出してもらえるよう、狩人の女神ディアナ(アルテミス)に扮して仮面舞踏会に出席。
ルイ15世は、そこで正式にジャンヌ=アントワネットを公妾として、宮廷の者たちに紹介しました。
唯一の弱点、身分の低さ
公妾となったジャンヌ=アントワネットは、すぐにヴェルサイユ宮殿に居を構えます。
しかし、順風満帆に見える彼女にも問題が1つ残っていました。
彼女の身分が低すぎたことです。
いくら王の愛人とは言え、公妾は今まで貴族の女性がなっていました。
ジャンヌ=アントワネットがブルジョワ(金持ち)出身だとしても、所詮は平民。
それに彼女の本名であるジャンヌ=アントワネット・「ポワソン」のポワソンは、「魚」という意味でもありました。
ここを突かれて、「魚とか言う下賤な名前の者が宮廷に居ましてよ!」と言う小学生レベルのイビりを貴族たちから受けます。これはジャンヌ=アントワネットが死ぬまで言われ続けます。
そこで国王ルイ15世は、彼女にポンパドゥール侯爵夫人という称号と紋章を与え、貴族にしました。
ここから彼女はジャンヌ=アントワネットから、ポンパドゥール夫人と呼ばれるようになります。
これで身分上は王の愛人として釣り合いが取れるようになりましたが、庶民の出自ゆえの上記のようなイビりはずっと続くこととなります。
敵が多いなら、味方をつくれば良いじゃない
こんな風に貴族からは蔑まれたので、周りは敵だらけです。
というわけでポンパドゥール夫人は地盤を固めるため、王様の家族と良い関係を保つように努めました、特に王妃と。
「え、それって普通じゃない?」と思われるかもしれませんが、当時王の愛人ともなれば絶大な権力を持っており、公妾であっても王妃に無礼な態度を取ったりしてました。王妃側からしても、愛人に大きな顔されたら不快ですよね。
でも歴代の公妾のように貴族生まれでは無いポンパドゥール夫人がそんな無礼な態度を王妃に取れるわけがありませんし、王妃も敵に回したりしたら余計自分の公妾としての立場が危うくなります。
というわけでポンパドゥール夫人は、ルイ15世の妃であるマリー・レクザンスカを丁重にもてなし、忠誠を誓いました。
いままで公妾ごときから散々冷遇されてきた王妃は、平民出ではあるものの、この身分をわきまえた新しい公妾であるポンパドゥール夫人の謙虚さに感動。王妃を味方につけることができました。
また、元々頭が良かったポンパドゥール夫人は、ルイ15世の手引きもあって、ヴェルサイユ宮殿での独特の礼儀作法もすぐに身に着けることができました。
こうしてすぐに周りに順応するコミュニケーション能力、周りを立てる謙虚さ、深い教養からのウィットに富んだポンパドゥール夫人は、王からのさらなる寵愛を獲得し、すぐに侯爵夫人から公爵夫人へと昇格します。
そして平民出身にも関わらず、女性では最も宮廷内の身分が高い、王妃付き女官となったのです。
政治への関与
ポンパドゥール夫人はルイ15世からの寵愛と信頼を獲得し、その教養の深さから、段々と政治嫌いの国王から相談すら受けるようになり、フランス王国の宰相のような存在になっていきました。
こうしてポンパドゥール夫人に政治権力が集中していくこととなります。
外交革命
彼女の関わったことで最も有名なのは、250年来敵対していたハプスブルク家のオーストリアと同盟を結んだ外交革命です。
当時フランス王家であるブルボン家と代々神聖ローマ皇帝を輩出するハプスブルク家は犬猿の仲だったのですが、ポンパドゥール夫人が仲介役となって同盟を結び、さらにこれにロシアの女帝エリザヴェータが同盟に加入。
オーストリアの女帝マリア・テレジア、ロシアの女帝エリザヴェータ、フランスのポンパドゥール夫人の女性3人が主導して同盟を組み、プロイセン王国のフリードリヒ2世を囲い込んだことから、3枚のペチコート作戦ともいわれました。
ちなみにこの時行われた外交革命により、フランスのブルボン家とハプスブルク家の同盟強化のため、ハプスブルク家から嫁に来たマリア・テレジアの娘が、あの有名なマリー・アントワネットです。
外交上は勝利したが、肝心の戦争(七年戦争)には負けてしまう
このようにプロイセンを囲い込むような同盟を組んで、戦略上は絶対勝てるような外交環境を整えたのですが、プロイセンの国王であるフリードリヒ2世は優れた戦争指揮官であり、またそこに色々な幸運が重なって、同盟を組んだ周囲の列強3国を負かせてしまいます。
つまりフランスは戦争(七年戦争)に負けてしまったわけです。
ロスバッハの戦いでフランス軍が大敗した報告が、フランス本国に到着した時なんかは、嘆き悲しむルイ15世を慰めるため、ポンパドゥール夫人は「我が亡きあとに、洪水よ来たれ」と声をかけた程です。
この言葉は、「後は野となれ山となれ」と同じような意味です。こんな慰め方で良いのだろうか?
フランスはこの7年戦争に負け、プロイセンと同盟を結んでいたイギリスに、アメリカの植民地を奪われてしまいました。
この戦争の戦費がかさんだことと、植民地を奪われたことにより、フランスは財政破たん状態になってしまいました。これが後にフランス革命にもつながったります。
こうなってしまった敗戦の責任はポンパドゥール夫人にかぶせられました。
外交上は絶対に勝てるような状況であったため、ポンパドゥール夫人の責任では無く、現場の軍指揮官の責任だったり、同盟国が頼りにならなかったりしたのが原因なんですけどね。
ポンパドゥール夫人の功績
その他、ポンパドゥール夫人は啓蒙思想にも肯定的で、百科全書派を保護していたりします。
彼女のサロンには高名な啓蒙思想家が多く出入りしていたことから、フランス革命の影の後援者とも言われたりすることもあります。無駄遣いを批判されて、国民からの人気は全くありませんでしたが。
また有能な人物をたくさん登用していたりします。
例えば教科書にも載るような重農主義者ケネーは、元々ポンパドゥール夫人の侍医だったり。
芸術のパトロンにもなり、今のトップモデルのように彼女の趣味が流行(モード)となったりしました。
そのためフランスのエレガントなロココ様式に、非常に大きな影響を与えたとも言われていますね。
ただし、その下賤な出自ゆえの宮廷の貴族たちからの差別、誹謗中傷は根強いものでした。
鹿の園
でも彼女はそんな差別にも負けず、その深いウィットを使ってルイ15世を飽きさせず、常に楽しませることによって王の寵愛を受け、権力を維持しました。
公妾と言えば、年を取ってくるとその美貌に翳りが出て、王からの寵愛を失いそうなものですが、彼女がルイ15世と夜の関係を持っていたのは5年ほどです。
身体が弱いポンパドゥール夫人は、獰猛なルイ15世の性欲に耐えられなかったのです。
彼女がルイ15世と夜の関係を断った後、ヴェルサイユ宮殿の森には「鹿の園」という娼館がつくられ、そこに美しい娘が連れてこられて王のシモの相手をしていました。
よくここがハーレムのように言われていますが、王の相手をしていたのは、その時その時で娘1人が多かったそうです。
世間の噂では、「これは王の相手に疲れたポンパドゥール夫人が自分で建て、娼婦たちを王にあてがうことにより、王の寵愛を維持していたのだ」と言われていましたが、実際のところポンパドゥール夫人がこの鹿の園の運営に関与していたのかどうかは謎です。
ただ、国民からはそう信じられていて、ポンパドゥール夫人は売春あっせん業者と呼ばれていました。
こうして「王の相手を他の美しい娘に任せてしまえば、王の寵愛が他に移ってしまうのではないか」と普通の公妾ならヤキモキする所でしょうが、ポンパドゥール夫人は全然そんな心配をしませんでした。むしろ王の夜の相手をしなくてホッとしたことでしょう。
それは彼女が受ける王からの大きな寵愛は、自身の美貌や性だけによって来るものでは無く、彼女の深い教養によるウィット(機知)から来るものだったと自身で確信していたからです。
最期
そうしてフランス国王ルイ15世に愛されたポンパドゥール夫人でしたが、1764年に42歳で亡くなります。
死因は結核でしたが、王は病気が移ることも厭わず、自らポンパドゥール夫人を看病していました。
彼女の棺がヴェルサイユから出発する日、雨が降っているのを見たルイ15世は、「夫人の旅路には、あまり良い天気ではないな」と寂しげに呟いたと言われています。