伍子胥 part2

同病相憐れむ

呉に入って、孫子の兵法を著した孫武を傘下に加え、楚への復讐の準備を着々と進める伍子胥でしたが、彼が仲間に加えたのは孫武だけではありませんでした。

伍子胥の旧友であり、同じく一族を讒言によって失った伯ヒが、楚から呉に亡命して仕官を願い出たのです。

 

伍子胥が伯ヒを推挙すると、呉王闔閭は、「こいつは信用できるのか?」と聞きました。

すると、伍子胥は、「同じ病を持つ者は、お互いに憐れみ合うし、同じ悩みを持つ者は、助け合うものです。伯ヒも私と同じく、楚に恨みを持つ身、どうして信頼できないことがあるでしょうか」と闔閭を説得しました。

これが、『同病相憐れむ』の由来です。

 

主君への説得の言葉が、今でも使われてるなんて、伍子胥はすごいですね。まあ、この伯ヒは、後で伍子胥を裏切るんですけれど。

 

孫武の作戦

さて、孫武と伯ヒという心強い味方を携えて、すぐに楚を攻め滅ぼしたかというと、そうではありません。

この頃、楚は大国で、容易に攻め滅ぼせるような国ではありませんでした。

だから、たまにちょっかいをかけて、大勝して欲が出た闔閭がもっと楚の国の深くまで進もうとすると、孫武が、「今はまだ早いです。」とか言って諫めてたりもしました。

 

孫武は、楚の国力を削るために、寡兵を持って、楚の国のあちこちにちょっかいをかけました。

その度に楚の国は軍を出動させるのですが、到着してみると、既に呉の兵はそこにいません。

そして帰ろうとすると、また別の場所に呉の兵があらわれます。

 

このため、楚の軍は、あっちに行ったりこっちに行ったりで、6年も国境に縛り付けられ、大軍を維持するために大変国力が落ちました。

一方、呉では6年間、じっくりと楚を攻めるために内政・軍備に専念することができました。

 

紀元前506年、呉王闔閭は、伍子胥と孫武に、「以前そなたらが時期尚早だと申していたが、今はどうか?」と尋ねました。

すると伍子胥と孫武の二人は頷き、決戦を了承しました。

ついに復讐の時です。

 

楚へ侵攻

闔閭は呉の兵を集めて、楚へ進軍。

 

しかし、いかに楚の国力を削ったとは言え、さすがに楚は大国。

呉の軍勢が3万なのに対し、楚の防衛軍は20万でした。

 

楚の防衛側は、はじめ、呉の軍勢と正面から当たり、引き付けて置いてから、背後から別部隊で攻撃をかけ、挟み撃ちにする気でした。

しかし、正面から当たる部隊の将が、部下から、「これ成功したら、背後から襲った部隊の方が手柄立てたことになるんじゃないですか?」と言われて、作戦を勝手に変えました。

そのため、孫武が指揮する呉軍に各個撃破され、連戦連敗。

 

これを受けて楚の昭王は都から逃げ出します。

王が都から逃げ出したと聞いて、楚軍の士気は完全に崩壊。

呉はあっさりと楚の都である郢を占領しました。

 

死人に鞭打つ

さて、楚の都は落としましたが、王である昭王は逃げています。こいつを殺さないと、また再起をかけられます。

しかし、まず伍子胥には果たさなければならない仇がありました。

父・伍奢と兄・伍尚の仇です。でも仇である平王は既にもう死んでいました。

 

そこで伍子胥は平王の墓を暴き、白骨化した平王の骸を持って来ました。

そして平王の骸に、300回、鞭打ちました。

これが今なお使われている、『死人に鞭打つ』の由来となります。

 

さすがに死人に復讐するのには当時の人たちもドン引きしたようで、元親友の申包胥なども使者を送って「やりすぎだぞ」って諫めたりしたようです。

申包胥は秦に行って、秦王に援軍に来てくれるように頼んでいました。

しかし、秦王はメリットが無いので、「いや、無理」と救援を送りたがりません。

 

申包胥の泣き落とし

でも申包胥は断られても諦めませんでした。

彼は秦の王宮の前で、7日7晩哭き続けました。

すると、秦の哀公は、「楚は無道だが、こんな忠臣がいるのなら、助けないわけにはいかんな」と言って、戦車500乗を楚に派遣しました。

ちなみに現代の鉄の戦車(タンク)じゃなくて、チャリオットみたいなやつです。

 

このチャリ、騎兵が登場するまでは古代中国の最強兵科でした。大体1乗のチャリに75~150人の歩兵が随伴しています。だから戦闘力的には現代の戦車と差し支えないと思っても良いんじゃないでしょうか。

だからそんなチャリを、500乗も哭いて秦から持ってきた申包胥は、大勲功ものです。

 

さらに呉の留守中に越が攻めてきます。

しかも闔閭の弟、夫概が勝手に呉に帰って呉王と自称し、国を乗っ取ろうとします。

 

そのため、昭王を殺しきれずに、楚は滅亡を免れ、呉軍は呉へと帰還します。

ですが、春秋の雄である楚を滅亡の淵まで追いやったということで、周りの国も呉に一目置くこととなります。

呉も覇権を争う国の一角となったのです。

 

越の軍師、范蠡

しかし、楚や中原に出て覇権を取るには、ちょうど背後に存在する越が邪魔です。軍を出して留守にしたら、すぐ攻め込まれる位置にありますからね。

まずこの越を滅ぼさなければ、後顧の憂いは断てません。

今回の侵攻でも越に邪魔されたわけですしね。

 

というわけで、越王の允常が亡くなったのに乗じて、呉は越に攻め入りました

しかしそうはいきません。越にはチートクラスの軍師・范蠡がいました。

范蠡

 

呉の軍が越に入ると、越の軍隊がこっちにやって来て、いきなり首を斬って全員自殺します。

越軍の第二陣がやってくると、また全員首を斬って自殺します。

第三陣がやってくると、また全員自殺します。

第四陣がやって来て、「こいつらやべえわ・・・」ってなってる所で、総攻撃をかけられました。

 

意味不明な行動を取って呆気に取られていた呉軍は、これで壊滅的な打撃を受け、退却します。

実は自殺した越の兵士は元々死ぬ予定だった死刑囚で、自殺したら残った家族の面倒を見てもらう代わりに自殺していたのです。

そしてこの奇策を思い付いたのが、軍師・范蠡だったのです。

 

呉王・闔閭はこの時に負った矢傷が元になって、破傷風にかかってしまいます。

闔閭の容態は悪くなるばかり。ここで問題になるのは、後継者問題です。

 

呉の後継者

ここで闔閭の子である夫差が、熱心に伍子胥に「私を後継者に推薦してください」と働きかけ、後継者キャンペーンを繰り広げます。

伍子胥も相続争いして国が乱れるのは嫌だったので後継者は夫差で良いかな、と思い、闔閭に夫差を推します。

 

すると闔閭は、「夫差はボンクラで情が無いやつだが、君主の器として相応しくないのではないか?」と尋ねます。

これに伍子胥は、「足りなければ、周りの者が補えばいいのです。早く決めないと、後継者争いが起きますよ」と答え、闔閭も夫差を後継者にすることを認めます。

 

病に伏せる闔閭は、夫差を呼び出し、「父の命を奪ったのは越王の句践だ。決して忘れるでないぞ。」と念を押します。フラグ立ちました。

これに夫差は、「3年以内に、必ず父の仇を取ります」と約束しました。

 

闔閭が亡くなると、夫差は呉王として即位し、薪の上で寝て、父の屈辱を忘れないようにしました。

これが「臥薪嘗胆」の臥薪の由来です。確かに漢字は、薪の上に臥せる、となってますよね。

 

 

こうして、呉の越に対するリベンジが始まったのでした。

 

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