【ピョートル3世】半年で失脚したロシアの皇帝

ピョートル3世

誕生

ペーター

後にロシア皇帝となるペーターは1728年2月21日、父ホルシュタイン=ゴットルプ公カール・フリードリヒと、母アンナ・ペトロヴナの間に生まれました。

母のアンナはロシアの偉大なピョートル大帝の娘でしたが、ペーターを産んで数日後に産褥で死亡。そのためペーターは母の愛を知らずに育ちます。

ピョートル大帝

さらに父のカール・フリードリヒもペーターが11歳の時に死亡し、この時に父の跡を継いでホルシュタイン=ゴットルプ公爵(デンマーク寄りのドイツ)となります。

ロシア帝国の後継者となる

ロシアで母アンナの妹であるエリザヴェータが女帝となった時、彼女は未婚で子供がいませんでした。

エリザヴェータ

帝室の安定に必要なのは後継者です。

というわけで女帝エリザヴェータは、姉の息子である14歳のペーターをロシアまで連れて来て、ロシア帝国の後継者として指名します。

 

ちなみにペーターは血統的にかなり良く、スウェーデン王位継承者にも指名されていましたが、このロシアの帝位継承者になるために辞退しています。

ただ後世の評価的には、ペーターは血統は良くても、能力的には無能とされていて、特に後述するようにロシア皇帝となった時に七年戦争で不可解な行動を取ったのと、妻にクーデターを起こされたことで馬鹿殿扱いされています。

でも最近では日本での今川義元のように、ピョートル3世再評価説みたいなのも上がってきているみたいですね。

 

さて、帝位継承者であるピョートルは、ロシアの宗教である東方正教へと改宗して、名前をペーターからピョートルと改めました。しかしこれは帝位継承者となるための表面上のもので、実際には元からの宗教であるルター派を信仰し続けていたみたいです。

嫁のエカチェリーナ(後のエカチェリーナ2世)

こうして甥のピョートルを帝位継承者とした女帝エリザヴェータでしたが、次に必要なのはさらにロシア帝国の時代を継ぐ後継者です。後継ぎをつくってロシア帝国を盤石にするためには、ピョートルの子供が必要です。

というわけでピョートルの嫁を探してきて、ドイツのアンハルト=ツェルプスト侯の娘であるゾフィーをロシアに連れてきました。

エカチェリーナ(ゾフィー)

このゾフィーも、宗派をプロテスタントの一派であるルター派からロシア正教へと改宗し、名前をエカチェリーナと改めました。このピョートルの嫁が、のちにクーデターを起こして旦那を蹴落とし、大帝とも呼ばれるようになるエカチェリーナ2世です。

 

彼女は夫のピョートルと違って、体面上宗派を変えただけではなく、本当にロシア正教の熱心な信者になりました。(あるいは周りにそう思われるようにアピールしました)

しかもドイツ語しか喋れず、ロシア語を学ぼうとしない夫のピョートルとは違って、エカチェリーナはロシア語を熱心に学びます。

ロシア語を学び、ロシア正教を信仰する嫁エカチェリーナと、それとは真反対にドイツ人気質が抜けきらずに、ロシア語を学ぼうともしない帝位継承者のピョートル。どちらがロシア貴族から人気が出るのかは・・・一目瞭然ですよね。

嫁との冷めきった夫婦仲

ピョートルとエカチェリーナ夫妻

このピョートルとエカチェリーナの夫婦仲ですが、冷めきっていました。

エカチェリーナは後に回想録で夫ピョートルのことを、ホルシュタインの酔っ払いとかクソの役にも立たないとか馬鹿とかメチャクチャに書いてます。よっぽど嫌いだったんでしょうね。

夫婦ともにこんななので、どっちも愛人を囲ってました。

 

「女帝エリザヴェータはロシア帝国の後継者を欲しがってたのに、帝位継承者の嫁エカチェリーナが帝位継承者のピョートル以外の愛人をつくってるのを見逃したのか?」と思う人も居るかもしれません。

しかし女帝エリザヴェータはピョートルの子供が欲しかったわけでは無く、ピョートル大帝(同じ名前だが、こっちはロシアを近代化した英雄)の血脈が保てれば良いと思っていたのです。だから、エカチェリーナの愛人セルゲイ・サルトゥイコフ伯爵はロマノフ家の血を引いており、この愛人をあてがったのは女帝エリザヴェータだったという話もあるぐらいです。なんでも有りだなロシア宮廷。

エカチェリーナの愛人セルゲイ・サルトゥイコフ

そもそもピョートルには性機能障害があったという噂もあり、帝室の血脈が切れるぐらいならロマノフ家の愛人を当てがってやろうという所でしょう。

息子パーヴェルの誕生

こうして結婚から8年目で、エカチェリーナは息子パーヴェル(後のパーヴェル1世)を産みます。女帝エリザヴェータは大喜びでこのパーヴェルを嫁の手から取り上げ、自ら直々に帝王教育を施します。

パーヴェル

ちなみにこのパーヴェル、エカチェリーナは後にピョートルの子供では無く、愛人セルゲイ・サルトゥイコフの子供だと明言していますが、真相は定かではありません。

ロシア皇帝に即位

政治

エリザヴェータが死ぬと、ピョートルが後を継ぎ1762年にロシア皇帝ピョートル3世となりました。

ピョートル3世

彼は信仰の自由を容認したり、農奴の待遇の改善、やりたい放題やってた秘密警察の廃止や、重商主義政策の推進をしたりと、今では「馬鹿」と呼ばれている割には悪い政治は行っていませんでした。ここら辺がピョートル3世再評価説が上がって来てる理由でしょう。

まあ後に嫁のエカチェリーナにクーデターを起こされるので、そのクーデターを正当化するために、大々的に「馬鹿だった」だの「アホだった」だのネガティブキャンペーンをやられちゃったのが大きかった面もあるのかもしれません。

軍事訓練が趣味

でもピョートル自身はロシア人が嫌いで、同郷のホルシュタイン(ドイツ)の兵士たちを雇い、崇拝するフリードリヒ大王が治めるプロイセンの制服を着せて軍事訓練に明け暮れ、閲兵を趣味としていました。

こんな風にロシア語も喋れず、プロイセンびいきのドイツ気質が抜けきらない皇帝は、極端に人気がありませんでした。

決定的な失敗:軍部を敵に回す

特に決定的だったのは、七年戦争でもうすぐ勝てそうだった戦争を、敵が敬愛するフリードリヒ大王だったからという理由だけで手を引いたことでしょう。

ピョートルが敬愛するフリードリヒ大王

この頃ロシアは七年戦争でプロイセンと戦っていて、もう少しで戦争に勝てるところでした。もちろん戦争やってましたから、今までロシア軍に大量の犠牲者が出ています。

それなのに「ロシア皇帝となるよりも、プロイセンの将軍になりたい」とまで言っていたピョートルは、フリードリヒ大王が好きすぎて、これまで占領した地域を全てプロイセンに返還、賠償金も取らずに、あまつさえロシア軍の制服や制度を全てプロイセン式にしました。

 

さらにプロイセンと新たに同盟を結び、この前まで同盟して味方だったオーストリアと戦い始めたのです。

周りはこう思ったことでしょう、「駄目だこいつ・・・早く何とかしないと・・・」

このロシアの意味不明な行動によって、七年戦争はプロイセンの勝利に終わりましたが、ロシアは何にも得しませんでした。

もちろんロシア軍部は無駄骨を折らされた上に、何の国益にもならなかったのでマジ切れです。

デンマーク侵攻計画

一方で父の代にデンマークに奪われていた、シュレスヴィヒ(ドイツ)を取り返そうとロシア軍をデンマークに向けて送り込もうとしていました。ピョートル3世はロシア皇帝であると同時に、ドイツのシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公でもあったからです。

「でもこんなのにロシア軍を動かすのは、皇帝の私利私欲のためであって、ロシアの国益に反してない?」と批判が噴出します。

尊敬するプロイセンのフリードリヒ大王にすら、「ロシアに何の得にもならないから、止めておいたら?」と助言されるほどでした。

まあでも、この計画は嫁にクーデターを起こされて未遂で終わります。

教会も敵に回す

こうしてピョートルは軍部を敵に回していただけでは無く、教会領の国有地化を目論んだり、ロシア正教に自分が元々信仰していたルター派の宗教儀礼を押し付け、教会も敵に回してしまいました。

妻も敵に回す

さらにピョートルは、嫁のエカチェリーナまで敵に回してしまいます。

元々仲が冷めきっていたエカチェリーナは修道院送りにして、愛人のエリザヴェータ・ヴォロンツォヴァと結婚しようとしたのです。ちなみにこの愛人は、もの凄く不細工で不潔だったらしいです。

ピョートルの愛人エリザヴェータ・ヴォロンツォヴァ

でも思い出してみてください、ロシア皇帝のピョートルよりも、嫁のエカチェリーナの方がロシア貴族に人気があったことを。さらにエカチェリーナは敬虔なロシア正教徒です(体面上は)。

嫁エカチェリーナのクーデター

というわけで、ついに夫にブチ切れしたエカチェリーナは、将校たちを扇動してクーデターを決行。

ピョートル3世のロシア皇帝としての在位は、わずか半年で終わってしまいました。

暗殺

その後ピョートルはロプシャ宮にて監禁されていましたが、監視役のアレクセイ・オルロフに殺されています。

アレクセイ・オルロフ

これが新しい女帝エカチェリーナの指示によるものか、監視役がピョートルにイラついて殺してしまったのかは定かではありません。

しかし公式には「ピョートル3世は持病の痔で死にました」と発表されることとなりました。もちろんクーデター後にすぐに痔で死ぬわけないのでウソです。

エカチェリーナ2世の統治

こうしてピョートルの嫁だったエカチェリーナが、ロシアの女帝エカチェリーナ2世としてロシアを統治することとなります。

エカチェリーナ2世

しかし元々ドイツ人で、一滴もロシア人の血が入っていないエカチェリーナには権力的な後ろ盾など無く、既得権益層であるロシア貴族に譲歩しながらの政治を行うことを余儀なくされました。

ですからロシアの酷い農奴制は残ったままで、中央集権化は遅れ、西ヨーロッパのような近代的改革は、偉大なエカチェリーナ大帝にも行うことが出来ませんでした。

 

エカチェリーナはそんな農民に苛烈な貴族寄りの政治を行っていたため、農民としては「ピョートルの政治の方がまだマシだった!」と思い、「実は俺は嫁の魔の手から逃れていたんだ!」と偽ピョートルがたくさん出てきました。

有名な例では、プガチョフの乱の首謀者であるプガチョフが、自分を生き残ったピョートルと僭称しています。

プガチョフの乱

息子のパーヴェル1世

そのエカチェリーナ2世が死ぬと、息子のパーヴェルがロシア皇帝パーヴェル1世となります。

パーヴェル

このパーヴェルは母エカチェリーナが、自分よりも孫アレクサンドルがお気に入りで、次の皇帝も息子のパーヴェルを飛ばして孫のアレクサンドルにしようとしていたことを恨んでいました。

だからパーヴェルは、無冠のままアレクサンドル・ネフスキー大修道院に葬られていた父(とされる)ピョートル3世の棺を、父を嫌っていた母エカチェリーナ2世の棺の横に安置しました。

「現世では夫婦仲が悪かったけど、あの世では仲良くやってね」という息子の粋な計らいですね、なんて親孝行なんだろう

 

ちなみに、何の因果かこのパーヴェル1世も、クーデターによって父ピョートル3世と同じように暗殺されることとなります

パーヴェルの暗殺

 

嫁のエカチェリーナ

エカチェリーナ2世(大帝)目次

叔母のエリザヴェータ

【女帝エリザヴェータ】ロシアの豪奢な宮廷文化を花開かせた苦労人

 

人物伝 目次

 

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