フランス王妃マリー・アントワネット part7

ヴァルミーの戦い

フランス革命戦争は最初、フランス側の負け続きでした。

しかしヴァルミーの戦いでフランス革命軍が勝利を収めてからは、流れが革命軍に乗って来たのか、勝利を手にし始めます。

ヴァルミーの戦い

これは腐った君主制の下にある軍隊に対する、革命的精神の勝利として喧伝され、かの著名なゲーテがこのように言ったほどでした。

ここから、そしてこの日から、世界史の新たな時代が始まる

ーヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ

“The Oxford History of the French Revolution”,p.193(William Doyle,2002,Oxford University Press

 

国王が居なくても勝てるならば、もはやフランスには王すら要りません。

このヴァルミーの戦いの勝利の後の、ほんの2日間で王政の廃止、フランス共和国の樹立を宣言しました。

タンプル塔での最期の団欒

こうしてルイ16世は、ただの市民ルイ・カペーとなり、さらに敵国との密通などの国家反逆罪によって革命裁判にかけられることとなりました。

ルイ16世の革命裁判

それまでは幽閉されていたタンプル塔でも、家族一緒に過ごすことが出来ていました。

ルイ・カペーはここで息子に勉強などを教えて、最期の家族団欒を過ごしていたのですが、裁判にかけられてからは家族からも引き放され、一人孤独に過ごすこととなります。

息子と引き放されるルイ16世

ルイ16世の処刑

議会で投票された元国王ルイ・カペーの裁判の結果は、もちろん死刑判決。結果有りきの裁判でした。元国王が生きている限り、共和政の土台が揺らぐのですから。

こうしてルイ・カペーは1793年1月21日、ギロチンにかけられて処刑されました。

ルイ16世の処刑

1789年6月20日に球技場の誓いが行われてから、ルイ・カペーが処刑されるまで、わずか3年半フランス革命による民衆の勢いは、恐るべきスピードで、敬愛される絶対君主制の国王を死刑囚へと変貌させたのです。

ギロチン

人道的な処刑器具

ちなみにこの時使用されたギロチンは、今日では物騒なイメージが付いていますが、当時はとても「人道的」な処刑方法とされていました。

人道的な処刑器具「ギロチン」

というのも、18世紀は拷問が裁判の過程に入っていたり、八つ裂きの刑みたいな残酷な処刑法が当たり前に存在した時代です。

それが苦しむことなく一瞬で首を斬り落とされて、痛みを感じることなくあの世へ旅立てるのですから、実際当時としてはとても人道的な処刑器具でした。フランスでは伝統に従って、1939年までギロチンで公開処刑やってたぐらいです。

 

しかも、この人道的なギロチンの開発に、ルイ16世も関わっているのです。

当時の処刑法

当時、貴族は名誉ある斬首刑、民衆は不名誉な絞首刑とされていました。

しかし斬首を執行する死刑執行人は、正義の剣を振って罪人である貴族の首を斬り落とさなければならず、経験が足りない死刑執行人は斬首に失敗し、無駄に死刑囚である貴族を苦しませることが多々起こりました。

ちなみに貴族の処刑も公開処刑であり、死刑執行人がうまく首を斬り落とすと、見物客が「お~!」と盛り上がったそうです。

 

こんな感じなので、死刑にされる方の貴族としても、下手くそな死刑執行人には当たりたくありません。でも、上手い死刑執行人でも失敗する時はするし、怖すぎでしょう。死ぬ時ぐらい楽に死にたいですよね。

ギロチン開発に関わるルイ16世

というわけで人道的な処刑器具であるギロチンが開発されることになり、貴族も民衆も苦しむことなくあの世に行けると、これを使って処刑されるようになったのです。

この開発の際に、死刑執行人設計者、ルイ16世で会議が行われたのですが、刃の形状が三日月になっていた設計図を見たルイ16世は、「刃の形状は斜めの方が斬りやすいのではないか?」と設計図に斜めに線を入れたところ、実際にそちらの方が切れ味が良かったそうです。

こうしてギロチンの誕生に関わったルイ16世は、自身が考案したその切れ味鋭い刃によって首を斬り落とされ、天国へと旅立つことになったわけです。

ルイ17世即位

ルイ・カペーが死んだ今、タンプル塔に幽閉されているマリー・アントワネットを筆頭とする元国王家族は、ルイ・カペーの息子であるルイ=シャルルを「ルイ17世」に即位したとみなしました。

ルイ17世

事実、国内の王党派外国に亡命していた貴族たちも、このルイ=シャルルをルイ17世だとみなし、革命家が称する共和政に対抗する存在だとみなしていました。

マリー・アントワネットは、この息子を唯一の希望とし、いつかこのルイ17世が絶対王政に戻ったフランス王国を支配すると信じていました。

マリー・アントワネット(37歳)

タンプル塔から家族を見捨て、一人逃亡を促された時、マリー・アントワネットはこんな風に答えたと言われています。

私たちは美しい夢を見ていたのです、ただそれだけ。

私が唯一持つ道しるべは息子への関心だけであり、この場所から自由になって得られるどんな幸福でも、息子と離れることに同意することはできません。

私が子供たちを見捨てたりすれば、私はこの世界での幸福を得られなかったでしょう。

私は後悔していません。

Marie Antoinette: The Journey (2001) by Antonia Fraser

ルイ17世の処遇に困る議会

しかし民衆の支持を得て力を持っているのは、議会による共和政です。

この元国王の息子で王党派の希望である、わずか8歳のルイ17世が存在してもらっては困るのです。

でも8歳の子供を、問答無用で処刑するわけにはいきません。この子供には生まれてから今まで、なんらの罪も犯しては居ないからです。ではどうすればいいか?

ルイ17世の再教育

彼らは泣き叫びながら必死に息子を守るマリー・アントワネットの手からルイ17世を強奪し、革命主義者である靴屋のシモンの元で育て、革命家として「再教育」することにしました。

ルイ17世は、ここで靴屋のシモンの召使いのように扱われ、さらに暴力などは日常茶飯事で虐待され、自分の両親を侮辱するように育てられました。

靴屋のシモンとルイ17世

靴屋のシモンとルイ17世は、元国王家族が監禁されているのと同じタンプル塔に住まわせられていたため、塔の中庭で遊ぶ息子を一目でも見ようと、マリー・アントワネットは一日中部屋の窓際に立って過ごすようになりました。

しかし、そんなマリー・アントワネットの身にすら危険が及んで来ます。

マリー・アントワネットの革命裁判

今度はマリー・アントワネットの処遇が、議会で問題となったのです。

国民公会としては、マリー・アントワネットをフランスの人質として、敵国に捕まった捕虜や身代金との交換での解放を考えたり、「自由の国」アメリカへの追放も考えられていました。

 

議会での沙汰が下るまで、マリー・アントワネットはタンプル塔から、一人だけコンシェルジュリ牢獄送りとなりました。

この牢獄は「ギロチン控えの間」と呼ばれ、ここに入れば最後、絶対に処刑されてしまうと言われた場所でした。

マリー・アントワネットはここで最期の時を過ごしますが、その独房ですら、暗い上に常に後ろに兵士が控えており、プライバシーなんてあったもんじゃありません。

裁判開始

マリー・アントワネットの革命裁判が始まると、様々な罪状が上がってきます。

ヴェルサイユ宮殿での酒池肉林、オーストリアに国庫金を送金していた、敵国に情報を漏らしてフランスの兵士を虐殺しようとした。

敵国に情報を漏らしたりはしましたが、根も葉もない噂レベルの中傷も罪状として含まれていました。これぐらい言われることは、マリー・アントワネットとしても予想していたので動じずに反論もできます。

マリー・アントワネットの革命裁判

しかし一番驚いたのは、実の息子であるルイ17世に性的虐待を行ったという告発も行われたことでした。

これにはルイ17世の自筆の告発文書も証拠として提出されていました。これは本当にルイ17世によって書かれたものです。もちろん脅迫して書かせたのでしょう。

 

このあまりに自分の尊厳そのものを侮辱するような告発に、マリー・アントワネットはショックを受け、思わず裁判の傍聴席にいた母親たちに無実を訴えました。

 

さて、裁判の結果はもちろん死刑でした。最初からどうあがいても結果は決まっていたのです。

マリー・アントワネットの弁護を熱心にした弁護士が逮捕されるなどという、念の入れようでした。

元フランス王妃マリー・アントワネットの処刑

死刑執行の日、マリー・アントワネットは髪を切られ、後ろ手に縄をくくられました。

コンシェルジュリ牢獄から処刑場に輸送されるマリー・アントワネット

そしてコンシェルジュリ牢獄から死刑執行場である革命広場(今のコンコルド広場)へと、家畜用の荷車見世物のようにゆっくりと市内を引き回されれて、市民たちの嘲笑と罵声を浴びることとなります。

これは死刑執行場にも馬車で送られた夫のルイ・カペーとは全く違う扱いです。

 

ギロチン台に登る前、聖職者に「勇気を、マダム!今が勇気を示す時ですぞ!」と言われたマリー・アントワネットは、こう答えました。

「勇気ですって!私は何年もそれを示してきました。私の苦しみが終わる時に、勇気を失うとお思い?」

Women of Beauty and Heroism (1859) by Frank B. Goodrich

もはやマリー・アントワネットにとっては生きることそれ自体が苦痛であり、ギロチンにかけられることが救いとなっていたのです。

マリー・アントワネットの処刑

そしてギロチン台へ処刑されに向かうとき、死刑執行人であるサンソンの足を踏んでしまい、こう謝罪しました。

「あらごめんなさい、ムッシュー。わざとではありませんのよ」

これが彼女の最期の言葉となりました。

その後

ルイ16世の遺体も、マリー・アントワネットの遺体も、元国王夫妻であるにも関わらず、どちらも集団墓地であるマドレーヌ墓地に葬られました。

そして時代は移り変わり、新たに台頭して皇帝となったナポレオンがエルバ島に島流しにされた後、ルイ16世の弟であるルイ18世が、長い亡命生活からフランスに戻ってきて国王として即位し、兄夫婦であるルイ16世、マリー・アントワネットの遺体を墓地から掘り起こして、歴代のフランス国王が眠るサン=ドニ大聖堂に葬りました。

 

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