フランス王妃マリー・アントワネット part6

ヴァレンヌ逃亡事件の影響

ヴァレンヌ逃亡事件

ヴァレンヌ逃亡事件で、軟禁されていたテュイルリー宮殿からの逃亡に失敗し、パリへと連れ戻されたフランス国王一家。

フランス革命当初は、王妃マリー・アントワネットは嫌われていても、国王ルイ16世は人気を保っていました。が、この事件をきっかけに、「祖国を見捨てた」国王の人気は急落します。

ルイ16世

立憲君主派であるフイヤン派は事態を重く見て、「国王は自ら逃げたのではない、ブイエ侯爵に誘拐されたのだ!と苦しい言い訳をして国王を擁護します。ちなみにブイエ侯爵とは、ヴァレンヌ逃亡事件の時に、国王一家の逃亡の手助けをしていた人です。

ブイエ侯爵

誰もブイエ侯爵が国王を誘拐したなんて信じていなかったものの、ブイエ侯爵はロシアに亡命して欠席裁判となっていたので、みんなでブイエの悪口を言いまくって悪者扱いし、その凄まじい中傷の痕跡として、今でもフランス国歌5番にブイエの悪口が残っています。

フランス国歌 ラ・マルセイエーズ 5番

フランス人よ 寛大な戦士として
攻撃を与えるか控えるか判断せよ!
あの哀れなる犠牲者を撃つ事なかれ
心ならずも我らに武器をとった者たち
心ならずも我らに武器をとった者たち
しかしあの血に飢えた暴君どもには
ブイエ将軍の共謀者らには
あの虎狼どもには 慈悲は無用だ
その母の胸を引き裂け!

ラ・マルセイエーズ - Wikipedia

 

こうしてブイエ侯爵に批判が集中した所で、立憲君主制を支持する議員たちは一気に憲法を制定してしまい、フランスは立憲君主制となりました。

さらに先鋭化する革命

フランス革命の当初の目的は、憲法を制定して立憲君主制とすることでしたので、当初の目的を達成した議員たち、いや、誰もがこれで革命は終了だろうと思ったでしょう。

しかしフランス革命はここで終わらなかったのです。なぜならヴァレンヌ逃亡事件で、フランスから逃げ出そうとした国王が、王として民衆に見限られてしまったからです。

 

急進的左派であるジャコバン派は、この王に対する反感を機会に、フランスから君主制自体を取り除いて、共和政に持ち込もうとフランス革命を先鋭化させるべく煽り立てます。

 

国王一家が連れ戻されたパリのテュイルリー宮殿では、今度は二度と逃げられないようにと厳重な警備の下、本当に監禁状態に入りました。もはや国王に対する配慮も存在せず、プライバシーなどもありません。

王妃のマリー・アントワネットなど、「逃亡して捕まった6月11日から6月12日の1夜にして、髪が70歳の老婆のように真っ白に変わっていた」と、首席侍女であるカンパン夫人の回想録に書かれたほどのショックを受けていました。

ヴァレンヌ逃亡事件で逮捕される国王家族

故郷オーストリアに望みをかける国王家族

もはやこうなってしまっては、国王家族が自分からパリを逃げ出すのは不可能です。国王に対する攻撃をしている革命家が、自動的に鎮静化するのを待つのも不可能でしょう。

あと頼れるのは外国、王妃マリー・アントワネットの実家である、オーストリアはハプスブルク家神聖ローマ皇帝レオポルト2世しか居ません。

マリー・アントワネットの兄、神聖ローマ皇帝レオポルト2世

このレオポルト2世は、夫のルイ16世にシモの手術を説得したヨーゼフ2世と同じく、マリー・アントワネットのお兄さんです。ヨーゼフ2世は後継ぎを残すこと無く病死したため、弟のレオポルトが後を継いで神聖ローマ皇帝となっていたのです。

 

神聖ローマ皇帝が、ヨーゼフ2世からレオポルト2世に代わっていたのは、フランスにとっては僥倖でした。前代のヨーゼフ2世は「人民皇帝」と呼ばれるほど啓蒙主義的であり、革命に対しても民衆に同情的だったからです。

ヨーゼフ2世

一方レオポルト2世は現実的な保守派で、バランス感覚の優れた皇帝でした。

そこに妹のマリー・アントワネットから、「助けて、お兄様!」と手紙が来るのです。

ピルニッツ宣言

だから神聖ローマ皇帝レオポルト2世は、プロイセン王と共同でピルニッツ宣言を出しました。これは革命政府に対して、「ルイ16世を解放してやれ、しないと武力行使も辞さない」という風に威嚇するものでした。

ピルニッツ宣言

これはあくまでも威嚇であり、実際にオーストリアが兵隊をフランスに送り込むといったものではありません。

 

しかし乱入者が現れて、ここで計算違いが起きてしまいます。

フランスの亡命貴族(エミグレ)たちが、この神聖ローマ皇帝とプロイセン王の共同発表の権威を笠に着て、安全な亡命先から祖国フランスに対し、「おら!オーストリア様とプロイセン様が、こう言ってるんだから革命やめろや!平民ども!」と調子に乗ってパリの市民たちを挑発してしまったのです。

 

これにパリの革命家たちは激怒します。

「祖国フランスから逃げ出して、他人の権威を笠に着やがって何様のつもりじゃ!そこまで言うならやったるぞ!!」

フランス革命戦争勃発

こうして1792年4月20日、フランス革命政府はマリー・アントワネットの故郷であるオーストリアに宣戦布告フランス革命戦争が勃発しました。

これにとばっちりをくらったのは王妃マリー・アントワネット。彼女はフランスとオーストリアの同盟のために嫁入りしてきたのに、今では敵国出身の王妃です。そのため、マリー・アントワネットは「オーストリア女」と、より一層の憎しみを浴びるようになりました。

ヴェルダンの戦い

こうして起こったフランス革命戦争でしたが、フランス軍は連戦連敗します。

当時のフランス軍の士官は貴族階級が占めていました。しかし貴族たちは、フランス革命が起こってすぐに我先にと祖国から逃げ出していたので、軍隊を統率するものがいません。

 

さらに致命的だったのが、王妃マリー・アントワネットが、敵国であり故郷であるオーストリアへと機密情報を流出していたことです。

マリー・アントワネットとしては、自分たち家族をテュイルリー宮殿に監禁している革命家が率いるフランス軍こそが敵であり、フランスへと向かってくる故郷オーストリアの軍こそが味方だったからです。もはや完全に革命の敵です。

フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」

ジャコバン派の革命家たちは、敵国に情報を漏らす国王夫妻に大して盛んなネガティブキャンペーンを行い、「王と呼ばれる簒奪者を追い出そう!」と、サン・キュロット(下層市民)たちを煽り立てました。

これに応えた各地の民衆たちが、武装してパリに続々と集まってきます。

ちなみにこの時マルセイユの義勇兵が歌いながら行進して来た隊歌が、パリで流行歌となって、今のフランスの国歌ともなっています。これが有名な「ラ・マルセイエーズ」です。

 

日本人からすると、すごい血なまぐさい国歌と思ってしまうんですけど、こういう成り立ちがあるんですね。元々は革命ソングだったわけです。

フランス国歌 ラ・マルセイエーズ 1番

行こう 祖国の子らよ
栄光の日が来た!
我らに向かって 暴君の
血まみれの旗が 掲げられた
血まみれの旗が 掲げられた
聞こえるか 戦場の
残忍な敵兵の咆哮を?
奴らは汝らの元に来て
汝らの子と妻の 喉を搔き切る!

 

(繰り返し)

武器を取れ 市民らよ
隊列を組め
進もう 進もう!
汚れた血が
我らの畑の畝を満たすまで!

ラ・マルセイエーズ - Wikipedia

8月10日事件

こうして1792年8月10日に、パリに集まった武装した民衆たちが、敵国と通じて情報を漏洩させ、祖国を危機に陥れている裏切り者の国王家族の居城であるテュイルリー宮殿に突入。

テュイルリー宮殿を警護していた、民兵である国民衛兵は民衆側に寝返り、王の側についたのはスイス人近衛兵と、貴族の子弟で構成される少数の部隊だけでした。

 

この事件が起こる2か月前の6月10日にも、同じくサン・キュロット(下層市民)がテュイルリー宮殿に乗り込んで示威行動を起こした事件があったので、はじめは武力衝突は起きないかと思われましたが、どちらかが銃を発砲し始め、すぐに交戦状態に入ってしまいます。

6月10日事件で子供たちを守るマリー・アントワネット、以前もテュイルリー宮殿に暴徒が押しかけていた

しかし国王側の主力のスイス人近衛兵900に対し、武装市民20000には多勢に無勢で、すぐに武装市民側が勝利を収めました。

8月10日事件での戦闘

国王一家は武力衝突が起こる前に、テュイルリー宮殿に併設されていた議会に逃げ込んでいましたが、この戦闘によって国王ルイ16世の王権の停止が決定され、テュイルリー宮殿から脱出困難な監獄であるタンプル塔へと幽閉されることとなります。

このタンプル塔は、元々はテンプル騎士団の本拠地であったため守りやすく、国王一家を監禁するのにうってつけの場所だったというわけですね。

タンプル塔

しかし敵国と通じているとされる国王一家をタンプル塔に監禁してもなお、オーストリアとの戦争の戦局は日増しに悪くなっていきます。

こうして国家に危機が訪れると、ストレスが溜まった国民たちによって、立場が弱いものが弾圧の対象となることが歴史上よくあります。

九月虐殺

フランスでも、そこまで敵が迫って来ているというストレスによって、その不満の捌け口としてパリの監獄で囚人たちの虐殺が始まりました。これが九月虐殺です。

名目上は国王シンパの反革命分子を粛正の対象としていましたが、暴走した市民たちは、囚人ならば見境なく虐殺の対象としました。

九月虐殺

ここで、マリー・アントワネットの「お友達」であるランバル公妃も虐殺に巻き込まれています。

ランバル公妃マリー・ルイーズ

ポリニャック公爵夫人の前に、マリー・アントワネットのお気に入りの「お友達」だった人で、ポリニャック公爵夫人みたいに自分に利益誘導をしなかった良い人ですね。

ポリニャック公爵夫人

 

ランバル公妃は一旦イギリスに亡命していましたが、「お友達」だったマリー・アントワネットの危機に際し、再びフランスに戻って国王家族のいるテュイルリー宮殿で、王党派の活動を行っていたのです。

しかしあの武力衝突があった8月10日事件の時に、国王家族と共にタンプル塔に輸送され、その後は監獄送りになって虐殺に巻き込まれてしまったのです。

ランバル公妃の最期

ランバル公妃無惨

暴走した市民は、彼女の遺体を斬り刻み、首を槍の先に刺して高く掲げて晒し者にし、タンプル塔に幽閉されているマリー・アントワネットに対して、「お友達」の末路を見せつけました。

マリー・アントワネットは、幽閉されている部屋の窓からランバル公妃の首を見て、失神しました。マリー・アントワネットの娘のマリー・テレーズによると、「母が幽閉されたタンプル塔の中で失神したのは、この時だけだった」としています。

市民ルイ・カペー

そして1792年8月21日、議会で共和国宣言が発せられ、正式な王政の廃止と共に、国民公会が共和国の統治機関となりました。

ここに来てついに、ルイ16世はただの一市民ルイ・カペーとなり、フランス国王としての権利を全てはく奪されたのでした。

 

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