フランス王妃マリー・アントワネット part4

財政破たん状態のフランス

フランス王国は財政破綻状態でした。

民衆はこれを全て王妃マリー・アントワネットの贅沢による借金だと決めつけ、彼女に「赤字夫人」というあだ名をつけましたが、もともと代々のフランス国王であるルイ14世やルイ15世の対外遠征費などで赤字状態でした。ちなみに夫のルイ16世もアメリカ独立戦争に介入してイギリスに嫌がらせし、赤字を膨らませていました。戦争はお金かかりますからね。

マリー・アントワネット(32歳)と子供たち

国の借金は既に歳入の9倍もあり、さすがにヤバいと悟ったルイ16世は財務総監であるテュルゴーやネッケルを起用し、国家財政を立て直そうとします。

ネッケル

しかし第3身分(平民)は、もう既にカラカラに搾り取られてミイラのようになっており、これ以上課税することは不可能です。

これに比較して第1身分(聖職者)第2身分(貴族)には免税特権があり、平民たちよりも遥かに良い暮らしをしていたのに、税金を払っておりませんでした。こりゃもう、こいつらから搾り取るしか無いでしょう。

三部会

しかし、特権階級が免税特権という金の卵を手放すわけがありません。そこでネッケルは財務長官の就任に際し、ルイ16世にこんな条件をつけました。

約170年ぶりに行われる、三部会の開催です。

これは聖職者、貴族、平民の各身分の代表者たちが一堂に会し、重要な議題について話し合う場でした。ここで話をつけて、特権階級に課税しようと試みたのですね。

1789年の三部会の開催

しかし課税を嫌がる特権階級は、あの手この手を使って免税特権を死守しようとします。そういうわけで三部会は遅々として進みませんでした。

これに業を煮やした第3身分(平民)側は、1789年6月20日、ヴェルサイユ宮殿の球技場に集まり、球技場の誓いを行って、憲法が出来るまで議会の解散を拒否し、独自に国民議会を立てました。

球技場の誓い

財務長官ネッケル罷免

これに怒ったのは、既得権益側代表である王妃マリー・アントワネットです。

ネッケルが財務長官の就任の条件として三部会を要求したのに対し、「しょうがないなあ」と開いてやったのに、こんな失態を犯したのです。

そこで彼女は、「もうネッケルなんて信用ならん」とネッケルを財務長官から解任しました。

 

しかし、改革派のネッケルは民衆から人気が有り、浪費癖のあるマリー・アントワネットは民衆から嫌われていました。

その嫌われ者が、人気者のネッケルを罷免したと聞いて、民衆が激怒して蜂起。

政治犯が収容されているとされていた、圧政の象徴であるバスティーユ牢獄を襲撃。フランス革命が始まってしまいます。

バスティーユ襲撃

革命から逃げ出す貴族たち

いったん革命が始まると、国の一大事よりも自分たちの身が最優先とばかりに、貴族たちは王や王妃を見捨てて、フランスからすたこらサッサと逃げ出しました。

この時、散々マリー・アントワネットから権益を引き出して私腹を肥やした、「お友達」のポリニャック公爵夫人の家族一同もいち早くフランスから逃げ出しているため、フランス革命でギロチンに掛けられることはありませんでした。貴族に大切なのは保身なんだよなあ。

ポリニャック公爵夫人

加速していく革命

パリで革命の灯がつき始めると止まらなくなり、この騒動はフランス全土に波及しました。

この騒動を鎮めるため、憲法制定国民議会では封建制の廃止、続いて「両大陸の英雄」と言われたラファイエットが起草したフランス人権宣言が採択されるなど、一気に社会構造が変化していきます。

ラファイエット

球技場の誓いが6月20日に対し、フランス人権宣言の採択が8月26日、およそ2か月間の出来事です。

それほど怒っていた民衆の鬱憤が、一気に爆発してしまったのですね。恐るべきスピード。

 

でもこの時点では、議員や民衆は未だに国王は尊敬する立場を取っていました。(腹の中はどう思っていたか知らないけど、表面上は)

貴族様よろしくお高くとまっている、王妃マリー・アントワネットはめちゃくちゃ嫌われていましたが、開明的とされる国王ルイ16世は国民に人気が有ったのです。

だからフランス革命の一応の目標は、憲法が有りつつも国王が存在する立憲君主制であり、国王夫妻をギロチンで処刑しようなんて、この時点で思っている人はほとんど居なかったし、できるとも思っていなかったでしょう。

ヴェルサイユ行進

10月5日には、パリでパンが不足し始め、パリ民衆の不満が頂点に達します。

これに怒ったのは、約7000人のパリの主婦たち。

彼女たちは武器を片手に集まり、降りしきる雨の中、「パンを寄越せー!」とシュプレヒコールを叫びながら、パリからヴェルサイユ宮殿まで行進を行いました。(両都市の間は、およそ25kmぐらいなので、十分徒歩で行ける距離)これがヴェルサイユ行進です。

ヴェルサイユ行進

これが男たちの行進ならば、国民衛兵が武力鎮圧できたことでしょう。

しかしこの行進の一団は主婦だったため、ラファイエット率いる国民衛兵も武力を使って手出しすることができず、この主婦たちの行進の後ろを、すごすごと付いて行くことしかできませんでした。

 

主婦の一団はヴェルサイユ宮殿に到着し、代表団を出してルイ16世に直訴。

ルイ16世は「パンのことは任しとけ」と、代表者側をあっさり懐柔して騒ぎはいったん収まりましたが、夜遅いのでヴェルサイユにて宿泊した一団の内に居た暗殺者たちが、夜更けにヴェルサイユ宮殿に侵入して、マリー・アントワネットを暗殺しようとしました。こんな暗殺者が主婦たちの中に居ること自体がおかしいので、これは誰かに仕組まれた陰謀だという説もあります。

王妃マリー・アントワネットは、すんでの所で逃げることが出来ましたが、王妃の部屋を守っていたスイス人近衛兵が殺害され、これにヒートアップした主婦側は宮殿内を略奪した後、槍にそのスイス人近衛兵の首を刺して高く掲げて、国王一家にこう要求しました。

「パリへ来い!」

 

こんな恐ろしい主婦たちに逆らうことも出来ず、国王一家は、ルイ14世がヴェルサイユ宮殿を建造して以来、100年間ものあいだ絶対王政の本拠であったヴェルサイユから連れ出されて、革命の本拠であるパリに身柄を輸送されたのでした。

テュイルリー宮殿で軟禁生活

国王一家は、ヴェルサイユ宮殿が建てられて以降、ボロボロになって使われていなかったパリのテュイルリー宮殿にブチ込まれて、そのまま軟禁生活に入ります。

テュイルリー宮殿

周りには民衆が、王がパリから逃げないようにと監視を24時間体制で行い、もはや自由はありません。

 

しかしそんな軟禁状態に置かれて、ゴージャスな生活などできずに大人しくせざるを得ないのになお、王妃マリー・アントワネットは、大嫌いな「ラファイエットと不倫してる」などと中傷され続けました。

もはやマリー・アントワネットは個人といった垣根を超え、フランスの圧政者の象徴、フランス革命の打倒すべき御旗となっていたのです。

王妃は嫌われていて、国王は(形式上は)尊敬されていたという、ややこしい状態だったのです。

ミラボーとの接近

こんな状況になって、国王夫妻はフランス革命の主導的指導者であるオノーレ・ミラボーと接近しました。

ミラボー

ミラボーは「両大陸の英雄」ラファイエットと同じように、貴族であるにも関わらず自由主義的な思想を持ち、そのため国民にとても人気が有りました。

しかし国王夫妻と接近したミラボーは、国王夫妻から裏で賄賂をもらい、ルイ16世に有利な方へとこっそり議論を誘導していたのです。

 

この試みは上手く行き、ルイ16世は議会と太いパイプを持つことによって、ある程度は革命を自分のコントロール下に置くことに成功しました。

しかし上手く行ったのもつかの間、ここでミラボーが急死してしまいます。

さらに悪い事に、ミラボーがルイ16世と裏で通じていたこともバレます。

そしてヴァレンヌ逃亡事件へ

裏で議会を誘導していた調整役が居なくなり、先鋭化した者たちが主導権を握るようになってフランス革命は暴走を始めました。

革命側には、ミラボーのような優れたバランス感覚と国民の人気を兼ね備える者などおらず、国王夫妻にはもう頼れる人物は居なくなってしまいます。

 

その対応として、国王夫妻は最悪の手を打ってしまうのでした。

ヴァレンヌ逃亡事件です。

ヴァレンヌ逃亡事件

 

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