フランス王妃マリー・アントワネット part2

フランス王妃へ

1774年5月10日、ルイ15世が崩御。

これによって夫のルイ・オーギュストがフランス国王となって、ルイ16世となりました。

ルイ16世

もちろん妻のマリー・アントワネットは、いまやフランス王妃です。

プチ・トリアノン宮殿

マリー・アントワネットは夫のルイ16世から、ヴェルサイユ宮殿の離宮であるプチ・トリアノン宮殿を貰います。

プチ・トリアノン宮殿

実はこの離宮は、ルイ15世のお気に入りの公妾だったポンパドゥール夫人のためにつくられていたのですが、建物はそんな早く建たないので、建設途中でポンパドゥール夫人は死んでしまったのです。

ポンパドゥール夫人

そこでポンパドゥール夫人の次の公妾、マリー・アントワネットとドロドロの宮廷劇を演じたデュ・バリー夫人が一時的にここを使っていましたが、デュ・バリー夫人がヴェルサイユから追放された後、ルイ16世となった夫がマリー・アントワネットに与えたというわけです。

 

マリー・アントワネットはこのプチ・トリアノン宮殿をいたく気に入り、ヴェルサイユ宮殿よりも、こちらの小さくて住み心地の良い(といっても我々庶民から見れば十分大きいが)プチ・トリアノンにずっと居るようになります。

これに良い顔をしなかったのが宮廷貴族たち、フランス王妃たるもの、ヴェルサイユに君臨してこそ王妃なのです。それをこんな、みみっちい宮殿に引きこもるとは何事か。

ヴェルサイユ宮殿

ここで夫のルイ16世が愛人でもつくって、公妾をつくっていれば、そちらに目が行ってマリー・アントワネットの行動は目立たなかったでしょう。

 

しかし何の因果か、夫のルイ16世はクソ真面目であり(そういうことに興味が無かったのかも?)、愛人もつくらずにマリー・アントワネット一筋という、これまで数々の愛人をつくってきたフランス国王の血が本当に流れているのか?と思うほど一途な人間なのでした。

これが妻のマリー・アントワネットに災いし、いつもは公妾がスキャンダルを起こし、王妃はその陰で平穏に暮らせる、と言ったフランス王家の伝統が崩れ、マリー・アントワネットが民衆や貴族の不満の矢面に立ってしまう原因ともなってしまったのです。

噴出し始める批判

フランスの民衆はこの頃、食うや食わずの生活を送っていました。

ルイ16世がアメリカ独立戦争に首を突っ込んで、イギリスへの嫌がらせに成功したものの、戦費の調達で莫大な借金がフランス王国の財政にのしかかってきます。

民衆はひもじい生活を送る自分たちとは違い、優雅な生活を送る、外国から来た王妃のマリー・アントワネットを批判しはじめました。

 

このことを素早く察知したマリー・アントワネットの母、女帝マリア・テレジアは、遠く離れたオーストリアから娘に対し、「ほどほどにしとけよ」と手紙を送りましたが、フランス王妃となって有頂天のマリー・アントワネットに、母親の心配が伝わることが無かったのでした。母ちゃんの言う事は聞いとけ。

母マリア・テレジア

兄である神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世の訪問

こんな風に母親からハラハラしながら見守られていましたが、なんとマリー・アントワネットの兄で神聖ローマ皇帝となっていたヨーゼフ2世も、お忍びでフランスに訪れました。

兄の神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世

マリー・アントワネットのお父さんの神聖ローマ皇帝フランツ1世が死んだから、お兄ちゃんのヨーゼフ2世が神聖ローマ皇帝の位を継いでいたんですね。

 

このヨーゼフ2世がなぜフランスに訪れたかと言うと、フランス国王夫妻に中々子供が生まれなかったから、助言しに来たのです。

オーストリアの方としても、マリー・アントワネットが子供を産んでもらわないと、いつまで経ってもフランスとの同盟関係が盤石になりません。

だから神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世は、7年間も子供が出来なかった妹夫妻を訪問したのですね。

 

このヨーゼフ2世の訪問後、すぐにマリー・アントワネットは子供を妊娠しています。

これは子供の作り方を知らなかった国王夫妻に、ヨーゼフ2世がヤり方を教えたと言われることもありますが、そりゃないでしょう。今までシモの方の外科手術を躊躇っていたルイ16世の背中を押し、手術させた結果、畑に種を仕込むことが出来るようになったのです。

第1子マリー・テレーズ出産

こうしてマリー・アントワネットは、第1子である娘マリー・テレーズを産みます。

当時フランスでは赤子の取り換えを防ぐため、公開出産です。さすがに下々の者は出産室には入れませんが、貴族や王族が、王妃の股の間から赤子がひねり出されるのを目撃するのですね。今では考えられません。

しかしこうすることによって、れっきとした王妃が産んだ子供ということが証明できるのです。

 

でもこのマリー・テレーズは、7年間もの間の不妊の末に生まれてきた子供であったため、周りからは「本当に国王夫妻の子供なの?」と疑われてしまうことになりました。つまり、「どっか他の男ひっかけて産んだんじゃねーの?」ってことです。

種の証明なんて、DNA鑑定が無い当時じゃできないですからね。

待望の男子誕生

1回産まれると立て続けに産まれるようで、次は1781年10月22日に、待望の男子ルイ=ジョゼフ・ド・フランスを産みます。

娘マリー・テレーズ(左)とマリー・アントワネット(真ん中)と息子ルイ=ジョゼフ・ド・フランス(右)

このフランスの後継者の誕生は大いに宮廷を沸かせましたが、後に7歳の若さで夭折しています。昔は医療が発達していなかったため、子供が生まれても無事に成人になるまで育つ子供は、今よりも少なかったのです。

 

さて、この辺りでオーストリアに居ながらも、何かと手紙でマリー・アントワネットを制御していた母、マリア・テレジアが亡くなっています。

こうなったらもう大国フランス王国の王妃、マリー・アントワネットを止められる者など、誰も居ません。

マリー・アントワネット(28歳)

夫のルイ16世は押しに弱く、マリー・アントワネットが頼めばなんでも願いをかなえてくれます。基本的に夫婦というのはカカア天下が多いですが、ルイ16世は元々そんなに気が強い方ではなかったのです。

ランバル公妃とポリニャック公爵夫人

ランバル公妃マリー・ルイーズ

そんなマリー・アントワネットは、プチ・トリアノン宮殿お気に入りの貴族たちを呼んで贅沢三昧。

彼女の最初のお気に入りは、ランバル公妃マリー・ルイーズでした。

ランバル公妃マリー・ルイーズ

このランバル公妃はマリー・アントワネットのお気に入りとなっても、自分や自分の家門に極端な利益誘導などはせずに、本当の「お友達」と言った感じで一緒にマリー・アントワネットと遊んでいました。

ポリニャック公爵夫人

しかしマリー・アントワネットの寵愛は、ランバル公妃から、悪名高いポリニャック伯爵夫人に移ってしまいます。

ポリニャック公爵夫人

このポリニャック伯爵夫人は、王と王妃の信頼を得るやいなや、マリー・アントワネットに対する口利きをするために賄賂をせしめたり、ポリニャック伯爵夫人の関係者で官職を独占したり、やりたい放題しました。

 

このポリニャック伯爵夫人は、伯爵夫人とは言っても名前だけで、元々ドのつく貧乏でした。

しかしマリー・アントワネットのお気に入りとなってからは、周りを省みない利益誘導を盛んに行い、さらに位も公爵夫人として格上げ。我が世の春を謳歌することとなりました。

 

でもこんな依怙贔屓をしていて、マリー・アントワネットに気に入られていない貴族が良い顔をするわけがありません。

というわけでプチ・トリアノン宮殿に呼ばれる貴族としては、マリー・アントワネットは良い食い物であり、その他の貴族にとって、マリー・アントワネットは「敵」となってしまったのです。

 

このお気に入りのポリニャック公爵夫人のせいで、それまではまだマシだったマリー・アントワネットの風評は、一気に下がってしまいました。友達は選ぼうね。

マリー・アントワネットに対する中傷

こうしたこともあって、どこからともなくマリー・アントワネットを中傷するビラが各地にばら撒かれるようになりました。

庶民はビラなんてつくる金があるわけがないので、敵対する貴族から撒かれたりしていたのでしょう。依怙贔屓するマリー・アントワネットを敵視する貴族はたくさん居ました。

 

特に盛んに中傷されたのが、「マリー・アントワネットとポリニャック公爵夫人は、そういう関係にある」といったものです。

当時のキリスト教社会では、同性愛は社会的に許されませんでした。特にフランスはカトリックの信仰篤き国ですから、余計に。

しかもカトリックの模範たるべき王妃が、「性的倒錯者」と根も葉もない噂を流されてしまったわけです。これはポリニャック公爵夫人の専横を許すマリー・アントワネットに対する批判を、ゴシップ記事にして中傷する目的がありました。

 

上記の中傷に限らず、マリー・アントワネットは根も葉もない噂を、中傷ビラで撒かれたりするようになります。

その最たる例は、今でも伝わるような「パンが無いなら、ケーキを食べればいいじゃない」みたいなやつですね。マリー・アントワネットが、そういうことを実際に言った証拠は残っていません。むしろ今のセレブよろしく、チャリティをやってたりしました。根は悪い女性では無いのです、階級意識はガチガチの保守派でしたが。

中傷に負けず我が道を行く・・・はずが

しかしマリー・アントワネットは批判もなんのその、プチ・トリアノン宮殿の近くにミニチュアの農村をつくったりしました。

ミニチュアと言っても庶民の模型とは違います。実際に農夫などを雇ったりして、本物の農村をつくったのです。

プチ・トリアノン近くのミニチュア農村

ここでマリー・アントワネットは宮廷生活を送りながらも、牧歌的な「自然派」農民生活を送ると言う、楽しみを見出しました。

しかし意図せずして農民を愚弄するようなこの行為は、フランス国民たちの怒りを買い、さらに「国家財政が危ない状況になっている時に、とんでもない無駄遣いをしたものだ」とマリー・アントワネットに対する批判はピークに達していくのでした。

ノルマンディー公ルイ(後のルイ17世)誕生

1785年3月27日、王妃マリー・アントワネットはノルマンディー公ルイを産みます。このノルマンディー公ルイが、のちにルイ17世と呼ばれる少年となりますが、その後半生は革命家に監禁され、虐待されて過ごすこととなり、王とも認められずに悲惨なものとなります。

ルイ17世

がしかし、今の所は先に生まれた兄に次ぐ2人目のフランス王国の後継者だと、周りの者に祝福されて誕生しました。

 

それでも「国王夫婦の子供では無い」、という根強い風評は消えませんでした。

特にマリー・アントワネットの愛人と噂されていた、スウェーデン貴族のフェルセンが帰国した途端に懐妊したため、「あの息子はフェルセンとの間の子供なのだ」と、またもや根も葉もない噂を流されました。

ハンス・アクセル・フォン・フェルセン、マリー・アントワネットの愛人と噂された

実際には、このノルマンディー公ルイを懐妊した時期に、ルイ16世とマリー・アントワネットがベッドを共にしたという記録がありました。

国王の血統を保つのは王国の最優先事項ですから、いつやっていたかという記録も正確に残されるのですね。不義密通でできた子供を、王位につけるわけにはいきませんから。

 

しかしそんなことはお構いなしに、マリー・アントワネットと敵対する貴族たちは彼女を盛んに、「ポリニャック公爵夫人と愛人関係にある性的倒錯者」だの、「フェルセンと不倫してる」だの、筋の通らないゴシップを立ててマリー・アントワネット中傷し、民衆は自分の貧しい生活を忘れて、豪勢な生活をしている外国から来た王妃のゴシップを存分に楽しむこととなるのです。

そして首飾り事件へ

この程度なら、まだ色々ウワサされているだけで、直接的に攻撃される段階にまで来ていませんでした。

しかし、ここで一発KOのノックアウト級スキャンダルが起きてしまうのでした。

 

王妃マリー・アントワネットはなんら関与していないのに、彼女が主犯のような扱いをされ、さらに貴族や民衆を敵に回し、王妃の権威を地に墜とすこととなるスキャンダル、それが「首飾り事件」です。

 

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