誕生
後にフランス王妃となるマリー・アントワネットは、1755年11月2日、ハプスブルク=ロートリンゲン家が治める、オーストリアの首都ウィーンにあるホーフブルク宮殿で生まれました。
母親は有名な女帝であるマリア・テレジア、父親は入り婿で肩身の狭かった神聖ローマ皇帝フランツ1世でした。
(マリア・テレジアは女性にも関わらずハプスブルク=ロートリンゲン家の家督を相続したが、神聖ローマ皇帝は男しかなれないため、体面上はムコ殿である夫のフランツが皇帝となっているが、実権はマリア・テレジアが握っていた。これが女帝と呼ばれる所以)
私たちが馴染みのある呼び名である「マリー・アントワネット」とはフランス風の呼び方で、オーストリアで話されていたドイツ語では「マリア・アントーニア」という風に呼ばれていました。というわけで本文でも、マリー・アントワネットが結婚するまではマリア・アントーニアという呼称で統一します。
マリア・アントーニアには3歳年上の姉であるマリア・カロリーナと共に育てられ、彼女とは生涯を通して仲が良かったそうです。
モーツァルトとの逸話
マリア・アントーニアと言えば、モーツァルトとの逸話が有名ですね。
彼女が7歳の頃、女帝マリア・テレジアの御前で、神童と呼ばれたモーツァルトが転んでしまいます。
その時、マリア・アントーニアがモーツァルトに優しく手を差し伸べると、モーツァルトが彼女に淡い恋心を抱き、「大きくなったら、僕のお嫁さんにしてあげる」と言った、心温まるエピソードです。
もちろん実際には、音楽家風情が皇室の娘であるマリア・アントーニアと結婚することなどできません。
当時は王族は王族としか結婚することができず(貴族とですら貴賤結婚と言われて結婚できない)、母親の女帝マリア・テレジアとしても、大切な政略結婚の道具である娘をそんな「無駄遣い」しないですから。
勉強は全然できなかった
このようにマリア・アントーニアは心優しい娘でしたが、勉強の方はてんでダメで、家庭教師とは雑談をしたり、授業をすっぽかしたりしていました。
というわけで言語が堪能な者が多かったハプスブルク家の皇女としては異例に、当時の各国宮廷で使われていた公用言語であるフランス語や、イタリア語などが全然できませんでした。
これは皇族の子女として、他所の王家に政略結婚に行く娘の教育としては致命的です。母国語しゃべれないやつが嫁に来ても困りますからね。
事実マリア・アントーニアは、後のルイ16世に嫁いだ時点で、フランス語が喋れなくて大変な思いをしています。だから勉強はちゃんとしようね。
外交革命
さて、このマリア・アントーニアが後のルイ16世に嫁ぐことは有名ですが、この頃のハプスブルク家は、フランスの王家であるブルボン家と超仲が悪かったのです。ざっと250年ぐらい仲が悪かったと言うから、もう筋金入りです。
ではなぜそんなブルボン家に、ハプスブルク家のマリア・アントーニアが嫁いでいったかと言うと、ハプスブルク家には近くに新しい敵ができてしまったからです。
それがプロイセン王国。マリア・テレジアという女子がハプスブルク家の相続をしたことで揉めた時に、オーストリアの豊かな地域であるシュレジエン地方を掠め取って行ったため、女帝マリア・テレジアが激怒して、宿敵だったフランス王家のブルボン家と歴史的な和解を行ったのです。これは外交革命とも呼ばれます。
こうしてハプスブルク家のオーストリアとブルボン家のフランスがタッグを組み、これにロシアの女帝エリザヴェータが加わって包囲網を敷き、プロイセンに対して戦争を仕掛けました。これが七年戦争です。
この戦争には負けてしまいましたが、女帝マリア・テレジアは、このフランス王室であるブルボン家との和解を確固たるものとするべく、自身の娘たちを次々とブルボン家の男子たちの嫁に出していきました。ただしみなさんご存知のように、このあとフランスではフランス革命が起こるために、このマリア・テレジアの政略結婚の采配は失敗に終わっています。
フランス王太子ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)
マリア・アントーニアもその政略結婚の一環として、フランス国王ルイ15世の孫であるフランス王太子(ドーファン)ルイ・オーギュストと結婚したのです。彼が後にフランス国王ルイ16世となります。
しかしマリア・アントーニアは当初、ルイ・オーギュストと結婚する予定は無かったのです。
実はフランス王太子ルイ・オーギュストと結婚する予定だったのは、初めはマリア・アントーニアではなく、仲の良い姉のマリア・カロリーナでした。
しかし、これまたブルボン家である、ナポリ・シチリア王子フェルディナントに嫁ぐ予定だった彼女達の姉のマリア・ヨーゼファが天然痘によって急死してしまったため、代わりにマリア・カロリーナが嫁いでいったのです。
ということはマリア・カロリーナが嫁ぐ予定だった、フランス王太子ルイ・オーギュストは手持ち無沙汰になってしまいますね。
そこで姉の代わりに、こちらも繰り上がってマリア・アントーニアが、フランス王太子ルイ・オーギュストの所に嫁いでいったのです。
こういう風に、家族同士の中でポンポンと簡単に配置転換しているのを見ると、「やっぱり政略結婚なんだな」って感じしますよね。
フランス王太子妃マリー・アントワネット
というわけでマリア・アントーニアは、フランス王国に嫁いでいきました。
マリア・アントーニアはフランス風にマリー・アントワネットと名を改め、1770年5月16日に、ヴェルサイユ宮殿にて王太子ルイ・オーギュストと結婚。
マリー・アントワネット14歳、ルイ・オーギュスト15歳の時でした。
王族に嫁いだ娘の一番の仕事と言えば、子供をつくって王家の子孫を残すことです。男子であれば後継者候補として、女子であれば他所の王家に送り出して、政略結婚の道具にできました。
実際マリー・アントワネットのお母さんである、女帝マリア・テレジアは、オーストリアを統治しながら16人も子供を産んでいます。すごいな。
マリー・アントワネットは身長154cm、ウェスト58cm、バスト109cmというワガママボディ。
顔はそれほど美形だったというわけではありませんが、若いころは愛嬌がもの凄くあったらしいです。
こんなの今の世の中では中学3年生ぐらいの夫が、放っておくわけがありません。そう思いますよね?
しかし夫婦には7年間子供が生まれなかったのです。
それはヤることヤって無かったという理由もありますが、最大の理由は夫ルイ・オーギュストに性機能障害があったからと言われています。
それも簡単に外科手術したら簡単に治るようなやつです。ただしルイ・オーギュストとしては手術を怖がり、できるだけ他の治療法を模索していたようですね。これが夫婦の長い不妊の原因となっていました。
ハプスブルク家とブルボン家に残るしこり
さて、フランス王太子妃となったマリー・アントワネットでしたが、フランス宮廷での迎えられ方は、大歓迎といったものではなく微妙なものでした。
なぜなら、彼女は元々250年も敵対している仇敵ハプスブルク家の皇女なのです。いくら最近仲直りして同盟関係を結んだ、と言っても古来よりの憎しみは、そうそう消えるものではありません。
特にオーストリアとの同盟に反対していた貴族たちにとっては、目に見える形の「敵」となるわけです。
ですから若干14歳で敵地フランス王国に単身乗り込んだマリー・アントワネットは、難しい立ち位置に置かれていたのです。
オーストリアにとっても、同じ列強フランスとの同盟関係は重要な政治外交問題でもあったため、マリー・アントワネットの母親である女帝マリア・テレジアとも、マメに手紙をやり取りしていました。
享楽を覚える
しかしそんな母親の心配もお構いなしなのは、今で言えば女子中学生や女子高生と呼ばれる年代のマリー・アントワネット。
今でも反抗期という言葉がありますが、こんな歳で他所の家に嫁いで、しかも周りの取り巻きからは「王太子妃様」とチヤホヤされた日にゃ、勘違いしてしまっても無理はありません。
だから取り巻き達に悪い遊びを教え込まれ、仮面舞踏会や賭博などに興じて遊び惚けてしまいます。ヴェルサイユ宮殿から夜な夜な馬車でパリに繰り出しては、遊び歩いて朝帰り。
宮廷では、当時流行の最先端だったヴェルサイユ宮殿のファッションリーダーとして振舞い、その王太子妃の振る舞い恰好を周りの者らが追随して真似し始めて、様々な流行を生みます。
こんな快楽に、未だ思春期の女子が抗えるでしょうか?しかも元々は教育ママだった女帝マリア・テレジアの元から、急にこんな享楽的なフランス宮廷に入れられて?無理でしょ。
だからマリー・アントワネットが遊び惚けてしまったのも無理ない話なのです。
デュ・バリー夫人との対立
こうして母親の心配をよそに、段々と増長していったマリー・アントワネット。
ここで彼女はとんでもない人物を敵に回してしまいます。
それが夫ルイ・オーギュストの祖父、フランス国王ルイ15世の愛人であるデュ・バリー夫人でした。
マリー・アントワネットは娼婦のような経歴を持ち、平民出身の汚らわしいデュ・バリー夫人を嫌ったのです。
しかし、何も無い所から、いきなり嫌いになったわけではありません。
国王の愛人たるデュ・バリー夫人としては、王太子妃であるマリー・アントワネットを敵に回しても得がありませんし、王太子妃よりも12歳年上で、好き嫌いを我慢して宮廷での振る舞い方を慎むぐらいの分別はあります。
ではなぜ、デュ・バリー夫人は、マリー・アントワネットに嫌われてしまったのでしょうか?
黒幕
それは、父親が愛人に操られるのを嫌がった、ルイ15世の娘である王女アデライード、ヴィクトワール、ソフィーの三姉妹の小姑が、王太子妃という王妃を除いては女子で一番身分が高いマリー・アントワネットをデュ・バリー夫人と対立するようにけしかけたからです。
この王女らはマリー・アントワネットよりも20歳以上年上で、当時の王族として完全に行き遅れていました。王女アデライードなんかは、若いころはめちゃくちゃ可愛くて評判だったようですが、相手をえり好みしているうちに結婚適齢期を過ぎてしまいました。
この三姉妹にデュ・バリー夫人の悪口を、あること無い事吹き込まれたのです。
現代風に例えると、嫁に行ったら未婚の小姑たちに、当主である夫の祖父の愛人の悪口を吹き込まれた、と言った感じですね。
思春期で多感な時期の女子は、内心では嫌と思っていても表面上上手く付き合う、なんて腹芸はしにくいでしょうし、それにマリー・アントワネットの母のマリア・テレジアは潔癖な女性だったこともあって、余計にデュ・バリー夫人が汚らわしく思えました。
公妾であるデュ・バリー夫人を無視
というわけで、マリー・アントワネットは王の愛人、公妾であるデュ・バリー夫人を無視し始めます。
これは大問題です。
フランス宮廷のしきたりでは、マリー・アントワネットから声をかけられない限り、デュ・バリー夫人はマリー・アントワネットに話しかけることが出来なかったのですから。
だからマリー・アントワネットがデュ・バリー夫人を無視し続ける限り、デュ・バリー夫人の方から話しかけることが出来ないのです。
このルイ15世の愛人である公妾デュ・バリー夫人をないがしろにするようなマリー・アントワネットの暴挙は、駐仏大使メルシを通じてすぐに母親の女帝マリア・テレジアに伝わりました。
女帝マリア・テレジアはこれにびっくり。公妾と言えば、かのポンパドゥール夫人もしていた通り、王にベッドで進言を行い、フランスの政治に直接口を出せるような重要人物でもあります。
そんな人物を、娘が何の得にもならないのに、生理的嫌悪感から敵に回すとは!
和解の試み
このことはもちろん外交問題にも発展し、両者の和解のため、1771年の7月にマリー・アントワネットがデュ・バリー夫人に挨拶をする場所がセッティングされました。
マリー・アントワネットはデュ・バリー夫人になんか話しかけもしたくありませんでしたが、母親のマリア・テレジアがうるさいので、しょうがなく声でもかけてやるか、という気持ちで居ました。
しかしマリー・アントワネットがデュ・バリー夫人に挨拶しようとしたその時、マリー・アントワネットとデュ・バリー夫人のが和解してもらっては困るアデライード王女が、マリー・アントワネットの手を取ってそのまま去ってしまったのです。
これにデュ・バリー夫人は屈辱を与えられました。平民出身で娼婦だったからと言って、こんな仕打ちを受けて良いものだろうか?
しかし彼女は所詮愛人。王妃が居ない今、女子で宮廷一の身分である王太子妃に文句など言えません。
ですが、デュ・バリー夫人を軽蔑するということは、その愛人たるフランス国王ルイ15世をも侮辱するということです。
オーストリアから来た嫁が、自分の愛人を散々コケにしてくれて、さすがの温和なルイ15世も黙っていられなくなりました。
それにマリー・アントワネットの母親である、オーストリアにいる女帝マリア・テレジアもカンカンです。
だから1772年に行われた新年の集まりにて、再び王太子妃マリー・アントワネットが、デュ・バリー夫人に挨拶する場が設けられました。
前回は挨拶に失敗しているので、もう後がありません。
母親からも手紙で強く叱られた16歳の王太子妃マリー・アントワネットは、ついにデュ・バリー夫人に対してこう挨拶しました。
「ああ、今日のヴェルサイユは大変な人込みですこと」
・・・。
独り言か挨拶か微妙なラインですが、「娼婦」に対する王太子妃としてのプライドを譲れる限度が、この挨拶でした。
こうして王太子妃マリー・アントワネットは、公妾デュ・バリー夫人に社交界で負けてしまったのでした。
その後のデュ・バリー夫人
でもこの後ルイ15世が崩御し、夫のルイ・オーギュストがフランス国王ルイ16世として即位すると、デュ・バリー夫人を宮廷から追い出してポン・トー・ダム修道院送りにしています。
ルイ16世としても、嫁と叔母たちと敵対しているデュ・バリー夫人を宮廷に置いておくことはできませんし、ルイ15世が死んだ後は元平民であるデュ・バリー夫人の後ろ盾になってくれる人なんて居ませんでしたから。
でもデュ・バリー夫人は、これまた有力な愛人をつくって、修道院に入ってから2年半後に、ルーヴシエンヌにあった自分の宮殿(シャトー)に戻ることが出来ました。
よほど男転がしが上手い女性だったのでしょう。
しかしそんなデュ・バリー夫人でも、今やフランス王妃となったマリー・アントワネットが牛耳る、恐ろしい貴族たちが跋扈するヴェルサイユ宮殿に戻ることは二度とできなかったのです。