「女帝」マリア・テレジア 後編

オーストリアの「女帝」

オーストリア継承戦争を無事乗り切ったマリア・テレジア。彼女はいつの間にかうら若い乙女から、偉大な統治者に変わっていました。

オーストリア継承戦争中に息子ヨーゼフが産まれ、後継ぎの心配も一安心。

息子ヨーゼフ2世

 

夫のフランツ・シュテファンがフランツ1世として神聖ローマ皇帝に即位しましたが、ハプスブルク帝国の実権は、マリア・テレジアが握っていました。

夫のフランツも自分の立場を良くわきまえており、出しゃばったことはしませんでした。たまに勘違いして、「俺が皇帝なんだから俺が権力握る」とかでしゃばる系の人いるんですけど、身の程を知っているのも夫婦円満の秘訣かもしれません。

 

というわけで、マリア・テレジアは皇帝ではないにも関わらず、裏で夫の皇帝を意のままに操るので『女帝』と呼ばれていました。

フランツ1世は政治や軍事、外交の才はありませんでしたが、領地経営は上手かったようです。

彼が亡くなった時には、いつの間にかかなりの遺産を残したりして、周りの者をびっくりさせたようですね。

フランツ1世

 

それに家族にも優しくて、次女のマリア・アンナなんかは病気がちで見栄えも悪く、政略結婚の役に立たないから家族全員から嫌われてたのですが、フランツ1世だけは、マリア・アンナに愛情を注いだみたいですね。

フランツ1世もロレーヌから来て宮廷の者から白い目で見られてたので、なんとなく自分と重ねる部分もあったのかもしれませんね。

マリア・アンナ

 

シュレジエン奪還のための改革

さて、こうしてハプスブルク帝国の実権を握ったマリア・テレジア。

彼女の次の目標は、「シュレジエン泥棒」のフリードリヒ大王から、シュレジエンを奪還することでした。

「シュレジエン泥棒」フリードリヒ大王

 

そのためには戦争に勝てるように、オーストリアを強くしなければなりません。

というわけで、マリア・テレジアは様々な改革に着手しました。

 

まずはダウン将軍を用い、陸軍を改革し、士官学校を設立。

ダウン

 

さらに、それまで地方の貴族に任せていた行政を、ハウクヴィッツに官僚制を整えさせ、中央集権的な行政機構を整備しました。

ハウクヴィッツ

 

本当に帝王学を受け無かったの?ってぐらい、帝王学を受けている君主よりも有能に見えますよね。実際こういう改革は、やろうとすると既得権益層からの反発が凄く、簡単そうに見えてかなり難しいのですが、マリア・テレジアはその説得と根回しが上手かったそうです。

フリードリヒ大王は、マリア・テレジアのことを、「今のハプスブルク家は、史上まれにみるような立派な男が統治している。ところがその男というのが女なのだ!」とか嘆いたみたいですね。

 

外交革命

そして、なんといっても改革の目玉は、カウニッツに行わせた外交革命ですね。

カウニッツ

 

前編でも紹介したように、オーストリアのハプスブルク家とフランスのブルボン家は、200年来敵対していました。

しかしマリア・テレジアは、オーストリア最大の敵は新興国のプロイセンだと判断し、カウニッツにフランスと秘密裡に同盟するように命を出したのです。

でも200年も敵対してたら、ハプスブルク側が同盟しようとしても、並大抵ではいきません。

 

そこでカウニッツは、フランス国王ルイ15世の愛人であるポンパドゥール夫人に接近。このポンパドゥール夫人は、政治に関心が薄かったルイ15世の代わりに、フランスを影で差配して牛耳っていた裏ボスでした。

ポンパドゥール夫人

 

この王の愛人であるポンパドゥール夫人が、フランス国王ルイ15世を説得して同盟が成立。

こうしてフランスのブルボン家とオーストリアのハプスブルク家が、200年来の敵対関係を解消し、同盟を結びました。これが外交革命ですね。

 

ちなみにこの両家の歴史的和解が切っ掛けとなって、ハプスブルク=ロートリンゲン家からマリー・アントワネットが、フランス王室に嫁ぐことになります。

後にギロチンで首を斬られることで有名な人ですね。

マリー・アントワネット

 

これにロシアの女帝エリザヴェータが加わり、プロイセン包囲網ができました。

オーストリアの「女帝」マリア・テレジア、フランスの王の愛人ポンパドゥール夫人、ロシアの女帝エリザヴェータ。この女性3人が主導してこのプロイセン包囲網をつくったので、3枚のペチコート作戦とか言われたりもしますね。

プロイセンみたいな新興国に、オーストリア、フランス、ロシアみたいな大国三国が同盟を結んだとか、もうプロイセンも終わりだと、誰もが思いました。

 

七年戦争

こうして同盟関係が新たに組み替えられ、ヨーロッパをめぐる各国の思惑行き交う覇権争いに、植民地での戦争が混ざることになった大戦争が7年戦争です。

この時の北米での戦争は、フレンチ・インディアン戦争と言われています。

 

プロイセンの周りは敵だらけで、しかもその敵が大国揃いでかなりの苦戦を強いられました。

プロイセンにはイギリスという味方が居ましたが、イギリスはヨーロッパでプロイセンがボコられてるスキに、アメリカやインドで他国の植民地を掠め取っていくのに夢中でした。

プロイセンがすぐやられると困るので、資金援助とかは奮発してやってたみたいですが、それでもプロイセンの劣勢は覆せません。

 

あともう一押し、もう少しでプロイセンが滅亡するところまで押しました。

フリードリヒ大王は、一時期「祖国の滅亡をこの目で見たくない」と自殺を考えたほどでしたが、思わぬことで状況が好転します。

 

ロシアの女帝エリザヴェータが亡くなったのです。

この女帝エリザヴェータの後継者のピョートル3世ですが、フリードリヒ大王の大ファンだったのです。

ピョートル3世

 

ロシア皇帝ピョートル3世は、即位後すぐにプロイセンと即時講和。

ロシアが占領した全地域をプロイセンに返還し、さらにプロイセンに援軍を送ってフリードリヒ大王の指揮下に置きました。

 

こんなことをしでかしてしまったため、勝てる戦をふいにしたピョートル3世は、妻のエカチェリーナにクーデターを起こされ、在位6か月で逮捕。その後殺されます。

対外的には、「持病の痔が悪化して亡くなりました」と公表され、ヨーロッパ中の笑いを誘いました。

エカチェリーナ2世

 

大国3国でやってもやっとだったのが、ロシアが抜けて2国で、フリードリヒ大王率いるプロイセンを倒せるわけがありませんよね。

というわけでこの7年戦争は、イギリスとプロイセンが勝ちました。

 

七年戦争の結果

この7年戦争で、フランスは大金をはたいたのにロクに得るものも無く借金が膨らみ、さらに北米での植民地がほとんどなくなり、フランス革命へと向かいます。

プロイセンはシュレジエン領有を確定し、その強さをヨーロッパ中に知らしめ、列強の仲間入りを果たします。

一番得したのはイギリスで、ヨーロッパではほとんど戦わずに、アメリカやインドを荒らしまくって植民地を拡大し、大英帝国の覇権を築きました。

まあでもイギリスもこの7年戦争の時の借金を返そうとして、北米の植民地から金を搾り取ろうとして税金かけまくって、アメリカ独立戦争でアメリカが独立しちゃうんですけどね。

 

さて、マリア・テレジアの悲願である、シュレジエン奪還はならず、結局プロイセンの手に渡ってしまいました。

しかし、この7年戦争のために行った数々の改革や近代化は無駄ではありませんでした。この改革が、傾きかけていたオーストリアの屋台骨を、新たに支えることになります。

 

夫の死、息子との共同統治

ここで7年戦争も終わった頃、1765年に最愛の夫・フランツ1世が崩御します。

マリア・テレジアは夫の死以降、死ぬまで喪服を着続けました。

ちなみにマリー・アントワネットも、夫のルイ16世死んでから喪服着続けています。

喪服のマリア・テレジア

 

夫フランツの死後は、神聖ローマ皇帝に即位した最愛の息子・ヨーゼフ2世と共に共同統治を行いました。

しかし親の心子知らずというのか、このヨーゼフ2世は夫のフランツ1世とは違って、マリア・テレジアの思い通りには動きませんでした。

 

 

このヨーゼフ2世も、マリア・テレジアの天敵フリードリヒ大王のファンで、彼と仲良く一緒にポーランドを分割しようと画策します。

マリア・テレジアは、「そんな火事場泥棒みたいな真似はしたくない」と反対したのですが、息子に押し切られ、結局ロシアとプロイセンとオーストリアで仲良く1回目のポーランド分割が行われます。

ポーランド分割

 

ただ、この息子ヨーゼフ2世はロシアのピョートル3世とは違って、ファンはファンでも国とプライベートとの区切りはつけられていたようで、フリードリヒ大王にも牙をむきます。

この時に起こった戦争は、バイエルンの相続問題に介入した戦争だから、バイエルン継承戦争と呼ばれますね。マリア・テレジアがオーストリア継承した時に、戦争吹っ掛けられたのとおんなじようなことを息子がやったのです。

まあ弱肉強食の世界ですから、よくあることです。でもこの戦争は小競り合いばかり続いて、本格的な戦争になりませんでした。

 

そこで戦争の後始末をつけるために、マリア・テレジアとフリードリヒ大王が、神聖ローマ皇帝であるヨーゼフ2世を差し置いて和平をまとめました。

 

最期

そんな肝っ玉母ちゃんのマリア・テレジアですが、1780年の11月24日に熱を出して倒れ、28日の午後9時頃に家族に見守られて亡くなりました。

マリア・テレジアが産んだ子供は総勢16人。

その子供のほとんどは、フランス王妃マリー・アントワネットを筆頭に、ほぼ全員政略結婚の道具とされました。

マリア・テレジアの家族

 

しかしミミという愛称の、愛娘であるマリア・クリスティーナだけには恋愛結婚を許し、夫婦ともども手元に置いたそうです。

数々の改革を行い、ハプスブルク帝国中興の祖となったマリア・テレジアは、今も夫のフランツと共に、カプツィーナー納骨堂で眠っています。

 

← 前編

 

人物伝 目次

 

関連書籍

タイトルとURLをコピーしました