「女帝」マリア・テレジア 前編

誕生

マリア・テレジアは、1717年5月13日、神聖ローマ皇帝カール6世の娘として生まれました。

産まれたのが女子と聞いて、宮廷の者も、ウィーンの市民も、みんなため息を漏らします。

 

この時、オーストリア=ハプスブルク家には男子直系の継承者が居なかったからです。

ちなみにスペインのハプスブルク家は、数多く行われた近親婚によって、この時代にすでに断絶しています。

だからオーストリアのハプスブルク家は、なんとしてでも跡継ぎの男の子が欲しかったわけですね。

 

ハプスブルク家の家督相続はサリカ法によって、男子にしか継承権が認められてませんでした。

しかし、カール6世の息子は一度産まれはしたものの夭折、その後は女子しか産まれませんでした。

 

これに焦ったのは神聖ローマ皇帝カール6世です。

「このままでは、ハプスブルク家が終わってしまう!」

 

そこで、カール6世は娘でもハプスブルク家の家督になって、相続できるように奔走します。

そして、周りの諸外国にも、「どうぞ息子が産まれなかったら、うちの娘をよろしくお願いします」と、様々な譲歩をしました。

こうした動きは諸外国にも生暖かい目で認められ、一応カール6世の後の、女子しかいないハプスブルク家にも目途が立ちました。

 

しかし家臣のプリンツ・オイゲンなんかは、「こんな紙切れの約束なんかよりも、強い軍隊と財源を残すべきです」と進言していました。

プリンツ・オイゲン

 

マリア・テレジアは、そんな状況の中に産まれたので、男子が産まれない中、ハプスブルク家の最有力家督候補でした。

しかしカール6世はマリア・テレジアに、帝王学を一切教えず、婦女子の習い事しかさせませんでした。カール6世は、最期まで男子が産まれると信じていたからです。

幼いころに帝王教育を受けていなくても、意外にも名君に育ってしまうのが分からないところですね。

 

 

婚約者

さて、マリア・テレジアが結婚適齢期になると、話題になるのは結婚相手です。

このまま男子が産まれなければ、マリア・テレジアが将来のハプスブルク家領袖。

女性は神聖ローマ皇帝となれないので、マリア・テレジアがハプスブルク家を継げば、その夫は皇帝になれます。絶好の逆玉チャンスです。

 

というわけで、様々な結婚相手が候補に挙がりました。この中には将来宿敵となる、プロイセンのフリードリヒ大王も含まれていました。

フリードリヒ大王

 

しかし、あまりに大きな国とくっつかれると、ハプスブルク家が強くなりすぎて他の国が困ります。そしてマリア・テレジアは、ロートリンゲン家のフランツ・シュテファンに、6歳の頃から一目ぼれしてました。

こうして、ヨーロッパの政治力学と、本人の恋愛感情が合致して、二人はめでたく恋愛結婚でゴールインを迎えました。

フランツ1世

 

結婚するにあたって、夫のフランツは、故郷のロレーヌをフランスに割譲しなければなりませんでした。フランスとしては、自身の領土近くにハプスブルク家の領土ができるの嫌ですし。

フランスのブルボン家とオーストリアのハプスブルク家って、200年ぐらい犬猿の仲でしたからね。

というわけでフランツはロレーヌ公国を渡す代わりに、トスカーナ大公国を貰いました。

 

マリア・テレジアとフランツの夫婦仲は、良かったそうです。

そもそも、ハプスブルク家は政略結婚でのし上がった家系ですが、意外と夫婦仲が良い事が多かったそうですね。

まあ夫婦仲悪かったら、政治どころじゃないでしょうし、子供も生まれにくいですしね。

 

しかしマリア・テレジアとフランツの間に産まれる子供は、またしても女の子ばかりでした。

貴族や民衆は、これをフランツのせいにしました。婿殿は辛い。

 

そもそも、「フランツはフランスのスパイだ!」とか民衆から嫌われていて、宮廷でも色々嫌がらせされてたそうです。貴族社会って案外陰湿ですよね。

まあ強大なハプスブルク家にしてみたら、ロートリンゲン家のフランツとか、後ろ盾無いみたいなもんですし、逆玉も辛いですね。

 

父カール6世の死、オーストリア継承戦争

そんなこんながありながら、なんとかやってましたが、ついにオーストリア=ハプスブルク家最後の直系男子カール6世が、毒キノコに当たって崩御。

ハプスブルク家の未来は、政治も軍事も教育を受けなかった、わずか23歳の深窓の令嬢、マリア・テレジアの肩にのしかかったのです。

 

カール6世が、事前にマリア・テレジアがスムーズに当主になれるように諸外国に働きかけてたから、大丈夫。とは行きませんでした。

ハプスブルク家の女子の相続など認めん!と諸外国が続々と、勝手にハプスブルク家の相続に介入してきて、戦争になります。

これがオーストリア継承戦争です。

弱みを見せるとつけこまれるんですね。プリンツ・オイゲンが言ってたように、約束よりも軍隊と財源を残した方がよっぽど良かったのです。

 

さて、この時諸外国は、「ロクに帝王学も学んでない小娘ごとき、いかようにも扱えるわ」とナメてかかってきました。

まずはプロイセンのフリードリヒ大王が、シュレジエンに電撃的に侵攻します。

そして、図々しくも『守ってやるから、この土地と金を寄越せ』と言ってきます。

斜線部分がシュレジエン。青い枠は神聖ローマ帝国、色んな国が寄せ集まって出来ている

 

このフリードリヒ大王、「兵隊王」と呼ばれた父にスパルタ教育を施され、逃げようとしましたが捕まって、父から処刑されそうになったことがあります。

そこをマリアテレジアの父のカール6世に取りなしてもらって助けてもらってたので、まさかこんなことをするとは誰も思ってませんでした。

 

夫のフランツはこれにビビり、「シュレジエンぐらいあげたら良いんじゃないの」と弱腰でした。

しかしマリア・テレジアは、「シュレジエンはオーストリアの宝」と、対決姿勢を貫きます。

こうしてオーストリアとプロイセンでモルヴィッツの戦いが起こりましたが、オーストリア軍は負けてしまいました。

モルヴィッツの戦い

 

プロイセンが有利と見るや、バイエルン、フランス、スペイン、ザクセンが「美味しい獲物を見つけた」とばかりに、敵に回ります。

そして300年間ハプスブルク家が守ってきた、神聖ローマ皇帝の冠も、バイエルン選帝侯に奪われてしまいました。

オーストリアの周りは敵だらけでした。

 

ハンガリー女王として戴冠

しかしマリア・テレジアは諦めませんでした。

彼女は産まれたばかりの乳飲み子を抱き、ハンガリーに赴いて戴冠式を行います。

そして議会で雄弁に弁舌をふるい、数々の特権と引き換えに、ハンガリーから「女王陛下に我らの血と命を捧げる!」との支援を取り付けました。この時、一番つらい時に味方になったハンガリーは、後々様々な面で優遇されることとなります。

ハンガリー女王としての戴冠式

 

こうしてハンガリー軍の支援の下、シュレジエンは取り返すことはできなかったものの、その他の奪われた土地を取り戻し、オーストリアを掌握し、ついに実力でハプスブルク家の家督相続を諸外国に認めさせたのです。

そもそも他国がよそ様のお家の家督を認めるってのも変な話ですが、戦争には大義名分が必要ですからね。

お嬢様育ちのマリア・テレジアが弱そうに見えたから、理由つけて侵攻したら、意外と強かったというわけで退散したということです。

 

そして神聖ローマ皇帝の位も取り返すことが出来、1745年に夫のフランツがフランツ1世として神聖ローマ皇帝として即位しました。

こうして、ハプスブルク家のマリア・テレジアとロートリンゲン家のフランツが合わさり、ハプスブルク=ロートリンゲン家としてのスタートを切ることが出来たのでした。

 

後編 →

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