【キケロ】共和政ローマ末期の賢人

キケロ

出生

マルクス・トゥッリウス・キケロは紀元前106年1月3日、首都ローマ南東100キロにある都市アルピヌムで生まれました。

生家はエクィテス(騎士階級)

キケロという名は「ひよこ豆」という意味で、後に政界入りした時に、「そんなみっともない名前は改名したら?」と勧められましたが、キケロは「私はこの名前を偉大なものにする」と自分の家門の名に誇りを持っていました。

政界入りを目指す

若い頃から学問に優れ、頭角を現したキケロは、当時の最高の官職である執政官(コンスル)になるまでのキャリアコースである、クルスス・ホノルム(名誉のキャリア)に従って政治家になりたいと考えていました。

ちなみにストラボやスッラの下で同盟市戦争に参加したりもしていましたが、軍隊での生活はそれほど魅力的には思えなかったようです。

スッラの側近に対する裁判

弁護士業を始めたキケロは、紀元前80年に当時ローマの政治を独裁していたスッラのお気に入りの部下であるクリュソゴノスの相手方の弁護をしたりしています。

ローマの政治権力を独裁していたスッラからすれば、当時無名の弁護士キケロなど簡単に暗殺できましたが、それにも関わらずキケロは雄弁に弁護をし、みごと勝訴を勝ち取ります。

スッラ

この裁判で弁護士としての名声を上げたキケロでしたが、さすがにスッラに怒りを買うのを恐れてか、紀元前79年にはローマを離れてギリシア、小アジア、ロードス島に遊学(という名の避難)をしています。

キケロはそこで、哲学や弁論法などを学びました。

紀元前に生きたキケロが、19世紀ヨーロッパにまで与え続けたとされる文学的、弁論的影響は、この時に学んだ深い知識に寄るものでもあります。

結婚

紀元前79年、27歳でテレンティアという裕福な家系の娘と結婚。

彼女は40万セステルスという莫大な持参金と共に、キケロの元に嫁いできました。

この40万セステルスという額は、ちょうど元老院議員の議員資格要件に必要な財産と同額だったため、この結婚によってキケロは政治キャリアをスタートすることができるようになりました。

しかしそのせいか、妻のテレンティアには尻に敷かれっぱなしだったそうです。

 

鬼嫁に耐え切れなくなったのか、この妻テレンティアとは紀元前51年頃、結婚約30年で離婚しています。

その後紀元前45~46年にプブリアという、キケロが後見人をしていた若い娘と再婚しました。

クルスス・ホノルムを順調に登るキケロ

さて、政治キャリアをスタートさせたキケロは、紀元前75年にシキリア属州の会計検査官(クァエストル)に就任。

その時の縁で、シキリア総督ガイウス・ウェッレスを汚職で訴追。

シキリア総督ガイウス・ウェッレスは当時ローマで最高の弁護士とされていた、ホルテンシウスを雇って裁判に臨みましたが、キケロはこれを敵に回して勝訴。名声を得ました。

 

その後キケロは順調にクルスス・ホノルム(キャリアコース)を登り、37歳で造営官(アエディリス)、40歳で法務官(プラエトル)、43歳で執政官(コンスル)と、当時の出世コースをほぼ最短年齢で上がっていきます。

カティリナの陰謀

さて、この執政官(コンスル)選挙で、キケロと同時期に出馬していたカティリナという人物が居ました。

彼は執政官(コンスル)の選挙に失敗し、莫大な借金だけが残ってしまったので、一発逆転を狙って国家転覆を計画し、恨まれたキケロも命を狙われています。

キケロは独自の情報網で、このカティリナの陰謀を察知。

カティリナを厳しく弾劾してローマから追い出し、共和制ローマをクーデターから救いました。

カティリナ(右下)を弾劾するキケロ(左)

キケロのカティリナ弾劾演説は以下のようなものです。

「いつまで乱用するつもりか、カティリーナ、我々の忍耐を。

いつまでしらをきるつもりか、お前の無謀な行為を。

次はどの手に訴えるつもりか、お前の限りない欲望を実現するために。」

『ローマ人の物語4 ユリウス・カエサル ルビコン以前』塩野七生

 

その後、カティリナの陰謀に加わっていたけどローマに留まっていた、5人の共謀者が明らかとなります。

キケロはこの5人についても厳しく弾劾、死刑にしました。

この功績によって、キケロは元老院から「国家の父」という称号を与えられます。

 

しかし、いくら国家転覆を図った者たちだとしても、キケロのこの弾劾は、「ローマ市民は、裁判を受けなければ死刑にならない」という法律を超えたものでした。

だからこのキケロの越権は後で問題になります。

カエサルから三頭政治にも誘われる

紀元前60年、カエサルポンペイウスクラッススと共に、後に三頭政治と呼ばれる寡頭政治体制を整えますが、この時キケロはカエサルに4人目のメンバーとして招待されています。

キケロがもしこの招待に応じていれば、四頭政治と呼ばれていたかもしれませんが、共和制を尊重する立場を取っていたキケロは、この寡頭政治体制を嫌って断りました。

カエサル

しかし紀元前58年、4年前のカティリナの陰謀の時に、「ローマ市民は、裁判を受けなければ死刑にならない」という法律を越権したことを追及され、ローマから追放されました。

追放先でキケロは鬱々として暮らしますが、1年後の紀元前57年にはローマ本国に帰国が許され、歓迎されて迎えられました。

ローマ内戦

さて、ローマの政治は三頭政治によって動かされていましたが、その一角のクラッススがパルティア遠征に失敗して戦死してしまい、三頭政治体制にヒビが入ります。

クラッスス

そこで元老院派は、ガリア遠征でカエサルがローマを離れている隙に、ポンペイウスを元老院派に引き入れました。

こうして三頭政治体制は完全に崩壊し、カエサル vs ポンペイウス含む元老院派という対立の構図ができました。ローマ内戦の始まりです。

ポンペイウス

 

カエサルが軍を引き連れてルビコン川を渡り、首都ローマに進軍して来たとき、共和制を信奉する元老院議員たちは、ポンペイウスと一緒にギリシアへと渡りました。

キケロは当初日和見を決め込み、ポンペイウスにはついて行きませんでしたが、ヒスパニアで苦戦しているカエサルを見てからポンペイウスの居るギリシアに渡ります。

 

でも後から行ったために、小カトからは「ローマに留まっておけば、まだ役に立ったのに」とかブツブツ文句を言われ、厄介者扱いされてしまいました。

コウモリ外交は嫌われるということですね。

 

でもカエサルと元老院派のポンペイウスの決戦である、ファルサルスの戦いでカエサルが勝利すると、キケロはポンペイウスから離反し、カエサルに許されて政治的なキャリアを保つことが出来ました。

カエサルは寛大であり、キケロに限らず敵方に回っていた元老院議員たちを多数許していたので、これはラッキーでした。

 

元老院議員としての席は守りましたが、独裁色を強めるカエサルを批判し、伝統的な元老院主導による共和制に戻そうと論陣を張ります。

ですがあくまでお得意の口による口撃(こうげき)だったわけで、カエサルを暗殺する計画には一切関与していませんでした。

カエサル暗殺

カエサルの暗殺

カエサルがブルトゥスやカッシウスたちに暗殺されると、カエサルの副官で執政官(コンスル)をしていたアントニウスと、カエサルの暗殺に関与していなかったキケロローマの2大指導者となりました。

カエサルの暗殺をした者たちが指導者層となっていないのは、英雄カエサルを暗殺したために民衆の反感を買ってしまったからです。

カエサルの後継者争い

カエサルは遺言として、当時無名のオクタウィアヌスを後継者として指名していました。

アウグストゥス(オクタウィアヌス)

しかしオクタウィアヌスは当時18歳、「こんな青二才よりもカエサルの副官だった自分の方が、カエサルの後継者として相応しい」と考えたアントニウスは、カエサルの遺言を無視して自分が後継者になろうとしていました。

マルクス・アントニウス

 

キケロは、若くて謙虚なオクタウィアヌスなら老練な自分が御せるだろうが、あの欲の皮の突っ張ったアントニウスと協調は無理だと考え、カエサルに遺言で後継者として指名されたオクタウィアヌスを擁護、アントニウスを攻撃して国家の敵認定しようとします。

しかしアントニウスを失脚させようとするキケロの弾劾は失敗し、逆に擁護していたオクタウィアヌスがアントニウスと手を結び、これにレピドゥスが入って第二回三頭政治が成立しました。

「国家の敵」となったキケロ

自身の政治権力が盤石なものとなったアントニウスは、今まで自分を執拗に攻撃してきたキケロを、プロスクリプティオ(追放若しくは死刑の宣告)に載せようとします。

三頭政治の一角であったオクタウィアヌスは、今まで自分を擁護してきてくれたキケロをかばおうとしましたが、キケロに対してすさまじい恨みを持っていたアントニウスの前に最終的に諦め、キケロがプロスクリプティオ(追放若しくは死刑の宣告)に載るのを黙認しました。

 

こうして国家の敵認定されてしまったキケロは、紀元前43年12月7日に、カエサルを暗殺したブルトゥスらの勢力圏であるマケドニア属州に逃れるため、フォルミアの別荘から海岸沿いへ行く道で捕まり、処刑されました。

キケロの最期

アントニウスの刺客たちは、キケロの遺体から頭と手を切り離し、キケロの首をローマのフォルム(公共広場)で晒しものにしました。

これはマリウスとスッラの時代からの伝統でしたが、今回のプロスクリプティオ(追放若しくは死刑の宣告)で晒しものとなったのはキケロだけです。どれだけアントニウスがキケロを恨んでいたのか分かりますね。

 

そのアントニウスがクレオパトラに誑(たぶら)かされ、アクティウムの海戦に敗れて自害した時、執政官(コンスル)となっていたキケロの息子が父の仇を取り、アントニウスの一切の名誉を取り消したといいます。

アクティウムの海戦

 

キケロが弾劾したカティリナ

【カティリナ】キケロに負け、カエサルのようにはなれなかった男

 

人物伝 目次

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