ジョゼフ・フーシェ:政治力だけでフランス革命期を生き抜いた男 前編

ジョゼフ・フーシェ

ナポレオンすら恐れ、フランス革命の動乱期を生き抜き、船乗りの息子から位人臣を極め、警察大臣、元老院議員、オトラント公爵へと上り詰めた政治家。

「政界のカメレオン」「サン=クルーの風見鶏」「リヨンの霰弾乱殺者」「革命のユダ」などの様々な二つ名があり、近代警察・諜報機関の父と呼ばれた。

日本警察の父である川路利良も、フーシェの流れをくむフランスの警察制度を参考とし、日本の警察制度を組織し、日本の警察機構にも影響を与えた。

 

その名も、ジョセフ・フーシェ

 

生まれ

フーシェはナントという港町近くの、ル・ペルランで生まれました。

父親は船乗りで、息子であるフーシェも船乗りにしようと思ったのですが、体が弱く、すぐに船酔いするため、息子を船乗りにするのは諦めました。

 

そこでフーシェは、オラトリオ教団というカトリック系の寄宿修道会に入れられ、勉学に励むこととなります。

彼はそこで才能を見出され、20歳から教団所属の学校で、数学や物理を教える教師となりました。

給料は少なかったものの、彼はここで10年間教師として過ごします。

 

しかし、彼は教団の教師であるのに、僧侶にはなりませんでした。

僧侶になってしまうと、もちろん僧侶としての道を歩まなければならないからです。

 

しかしこの後の人生からも分かるように、彼はいつも逃げ道は確保しておくタイプなのです。だから僧侶にはなりませんでした。

というわけで半聖半俗のまま、冴えない教師として10年間勤めました。

 

フランス革命

バスティーユ襲撃

ここでフランス革命が起こります。

するとフーシェは「待ってました」と言わんばかりに、即座に修道服を脱ぎ去り、フランス革命に参加します。

僧侶になっていたら、こんなに素早い転身はできなかったでしょう。

 

彼はジャコバンクラブの支部で演説を行い、次第に頭角を現していきます。

そして選挙でナントの議員として出馬し当選。国民公会の議員としてパリに移ります。

 

フーシェは最初、穏健共和派であるジロンド派として活動をしていました。

彼の思想信条は、「とにかく多数派につくこと」。自分の所属する党派が少数派になると、容赦なく見限って裏切り、多数派につきました。

 

国民公会という、今までなかった議会での自分の発言で政治が動かせる興奮の渦に、どの議員も飲み込まれていましたが、フーシェは冷静さを保ち沈黙を保ちました。

それは、後で自分の言ったことで揚げ足を取られることを恐れてのことです。

フーシェが発言する時は、大勢が決して、なおかつ自分がその多数派になったと確信が持てた時だけでした。それまでは表では沈黙を守り、裏工作に徹するのです。

 

政界のカメレオン

しかし、そんなフーシェもハッキリと立場を表明しなければならない時が来ました。

それは元フランス国王・ルイ16世の処刑についての投票の時です。

ルイ16世の裁判

 

彼の所属する穏健共和派であるジロンド派の思想的に、彼は国王無罪に投票すると思われていました。

しかしフーシェは投票日にいきなり急進的左派である山岳派に鞍替えし、ルイ16世の処刑賛成に投票したのです!

これには周りの者もびっくり仰天!

 

ちなみに今でも政治的に右翼左翼と呼ばれていますが、この言葉はフランス革命期の議会が由来です。

議長席から見て、右側に座ったのが保守派だから右翼、左側に座ったのが急伸派だから左翼ということですね。

 

さて、ジロンド派から山岳派に鞍替えしたから、山岳派の中でも穏健的な立場なのかというと、そうではありませんでした。

むしろフーシェは山岳派の中でも極端な革命左派となり、強烈な革命戦士として周りの者を震え上がらせました。

 

地方で恐怖政治を行う

フーシェはその鋭い嗅覚で、周りの議員が内ゲバで粛清されていく不穏な空気を感じ取り、国民公会の派遣議員としてパリから離れ、地方で恐怖政治することとしました。

彼はそこで、金持ちであることが恥ずかしくなるような政治を行います。

 

18世紀の後半にして、共産主義的な思想を支配地域に植え込み、金持ちから金を搾り取り、若者を徴発して兵士としてパリへと送り出しました。

そして、元教団教師にも関わらず、教会にある金目の物を略奪し、パリへと送ります。

 

こうしてフーシェの担当地域からは、教会や金持ちから搾り取った巨万の富と兵士たちが流れ込んできます。

この時点で急進的な革命派が主流となっていたパリの国民公会はこれに感動し、「フーシェこそフランスが誇る、立派な革命戦士だ!」と太鼓判を押されるようにまでなりました。

 

そして、この素晴らしい革命戦士に、うってつけの仕事が舞い込んできます。

それは革命に対し反乱を起こした、リヨンという都市に対する報復でした。

 

リヨンの霰弾乱殺者

この頃リヨンはフランス第2の工業都市でしたが、愚かにも崇高なる革命に反旗を翻し、鎮圧されたのです。

これに怒った国民公会は、リヨンの街を完全に廃墟と化すように、ロベスピエールの側近だったクートンという議員を派遣しました。

クートン

クートンは出発前、「リヨンを焼け野原にしてやるぜ!」などと勇ましい事を言っていました。

しかし実際にリヨンに到着した彼は、反乱の首謀者数人を処刑したり、体裁を整えるためにハンマーで建物を少し叩いたり、屋根を剥がしたりにとどめました。

 

これに国民公会は激怒します。

「クートンは、リヨンに罪を贖わせるという気概が全く無いのだ!」

「我々の革命に歯向かった都市を、こんな軽い刑罰で済まして良いのか?」

「否! 断じて否! リヨンは見せしめに血祭りにあげなければならない!」

「革命的制裁だ!」

 

こうして国民公会は、真の革命戦士たるフーシェと、リヨンで俳優をやっていた時、観客から野次られてリヨンに恨みを持っていたコローを、クートンの代わりに派遣しました。

コロー

 

フーシェとコローがリヨンに到着した時、誰もがギロチンで血の雨が流れるだろうと思いました。

 

しかし、彼らの革命的懲罰は予想をはるかに超えていました。

 

「ギロチンで一人ずつ処刑していくなど、まだるっこしい。反乱分子は街の外の平野に立たせ、革命的に大砲を打ち込んでやればいいのだ!

こうしてフーシェとコローは、毎日反乱に関わった者たちを平野に立たせ、ブドウ弾をぶち込んだり、自分らの墓穴を掘らせて銃殺したりしました。

 

処刑されたリヨン市民は、3か月で1684人。毎日処刑を行ったとして一日20人ペースです。

このことから、フーシェ「リヨンの霰弾乱殺者」と呼ばれるようになります。

 

ロベスピエールとの死闘

しかし、どうやら風向きがキナ臭くなってきました。

ロベスピエールに「こいつらやりすぎだな」って目をつけられてしまったのです。

ロベスピエール

 

ロベスピエールはこの頃、議会を事実上牛耳っていたボスで、恐怖政治を行ってギロチンで粛清しまくっていた怖い人です。

 

そこでフーシェは大砲で処刑するのは止めて、控えめにギロチンで処刑し始めましたが時すでに遅し。ロベスピエールは、派遣したフーシェとコローを呼び戻します。

彼に粛清されてしまうのも時間の問題でした。

 

しかし、ここで負けないのがフーシェです。

ロベスピエールにジャコバン派から除名されそうになりますが、バラスのコネを使ってこれを回避。

バラス

この時代、ジャコバン派からの除名は死を意味しました。

 

フーシェは同じく派遣された地域で悪行を行い、自分同様ロベスピエールに目をつけられて粛清されかかっていた議員たちを集めて、こう扇動しました。

「ロベスピエールに殺される前に、ロベスピエールを殺そう!」

 

フーシェは水面下で動き、悪行を行った議員や、ロベスピエールに反感を持っていた穏健派議員たちを説得して回ります。

この時、「お前もロベスピエールの粛清リストに入っているぞ! 殺られる前に殺るしかない!」という脅しが文句がとても効いたらしいです。

 

そして1794年7月27日、テルミドールのクーデターが起こり、ロベスピエールをギロチン台へと消し去ることが出来たのです。

テルミドールのクーデター

 

責任を同僚に擦り付ける

しかし、ロベスピエールを消し去ってもなお、フーシェがリヨンで行った大量殺人を問題視する声が上がってきました。

しかしフーシェは全ての責任を、同じくリヨンに派遣されていたコローに押し付け、これを鮮やかに回避!

同士コローはギアナへ流罪となり、熱病に罹って死にました。

 

こうしてフーシェは粛清の危機から、首の皮一枚で抜け出すことに成功したのでした。

そして、ここからフーシェの壮絶な成り上がり人生が始まります。

最終的には、船乗りのせがれから、あのフランス皇帝ナポレオンでさえも恐れるような大人物にまで成り上がるのでした。

 

後編へ →