リヴォニア戦争での戦局の悪化と息子との対立
リヴォニア戦争では、ポーランド・リトアニア軍に押し返されるどころか、逆にロシア国内に攻め込まれるほどに悪化していました。
と言いますのも、この時のポーランド・リトアニア共和国では、世にも珍しい選挙で王様を決めるという選挙王制になっており。、この時に選ばれた王が、優れた君主であるステファン・バートリで、ロシアに向けて親征を行ったからです。
ロシアでは圧政と戦争により、土地は荒廃して、指揮官は粛清されていたためマトモな者がおらず。プスコフが包囲されるという事態になります。佯狂者ニコライが居た都市ですね。
息子のイヴァンは父雷帝の戦略を非難し、「私に軍の指揮権を与えてください。プスコフの包囲を解いてみせます」と意気込みました。
しかし雷帝はこれを拒否。
そんなこんなで、今まで仲良く一緒に拷問を見学していた親子の仲にも、亀裂が走っていました。
息子の死
ちょうどそんな時、子供を身ごもっていた息子の嫁エレナが、妊婦は数枚重ね着しなければならない所を、部屋着一枚しか羽織ってなかった所を見て激高します。
「軍の指揮権をよこせというのに、嫁一人躾けられないのか!!」
この頃、ロシアではかなり酷い家父長制になっており、子供は生意気になる前に徹底的に殴って躾ける、嫁は殴った後優しくする。みたいな躾けが美徳とされていました。
なので雷帝としては、「少し息子の嫁を躾けてやるか」という感じで、手に持った鉄の王笏でエレナのボディーを殴りました。
すると、嫁のエレナの悲鳴を聞いた息子イヴァンが飛んで駆け付けて来て、嫁のエレナを庇いました。
雷帝はこの時点でムカムカッと来ました。家父長制の下では息子は父に絶対服従だからです。
しかも、あろうことか息子は、「父上は私の一人目の妻を何の理由も無しに修道院に送り、二人目の妻もそうされた。今度はお腹の中に居る子供を殺すおつもりですか!!」と口答えしました。
ここから親子喧嘩が始まり、話題はプスコフ包囲の話へ。
雷帝は、「お前は軍を得て、貴族たちと反乱を起こすつもりなのだろう!お前までワシを裏切るのか!!」と激怒しました。
息子イヴァンは、反乱を起こす気は無いと否定しましたが、プスコフを解囲することを主張し続けました。
これに雷帝はプッツン切れました。
ロシアでは家庭内では父の言う事は絶対。そしてツァーリは国家の父でもあり、二重の意味の父でもあるのです。
「その父に、こんなにも優しく諭しているのに逆らうとは!なんたる不遜!!」
雷帝は我を忘れ、手に持っていた鉄の王笏で、息子を何度も何度も叩きつけました。
現場にいたボリス・ゴドゥノフが止めに入りましたが、突き飛ばし、何度も何度も息子を叩きつけました。
「これは躾けなのだ!」
しかし、雷帝が冷静さを取り戻し、我に返ると、息子イヴァンが頭から血を流し、ぐったりとしています。
「なんてこった!息子を殺しちまった!息子を殺しちまったあ!」
雷帝は力の抜けた身体を抱き寄せ、息子の血が流れる額を癒やそうと、何度も何度もキスをしました。
それからイヴァンは神に祈りました。
「息子を治すためなら何でもします。だから息子の命だけは助けてください!」
しかしイヴァンの祈りも空しく、息子イヴァンは四日後に死亡しました。
さらに息子の嫁のエレナも、雷帝の殴打によって流産。
雷帝の残った息子は、教会の鐘をつくぐらいしか能がない、愚鈍なフョードルだけでした。
しかしそれではダメなのです。この厳しいロシアを統治するのは、拷問ぐらいは軽くこなせる人物ではないと、統治できないのです。
後に出てくるピョートル大帝やスターリンと言い、ロシアにはカリスマと残忍性を持った強烈な指導者が出てくる土地柄なのも分かりますね。
さすがの雷帝も、息子イヴァンの死は応えました。
葬儀の時には、泣き叫びながら息子の棺の後を追い。さらに色んな修道院に、息子イヴァンの冥福を祈るように、多額の寄付を行いました。
しかし、それでは彼のポッカリと空いた心の穴を満たすことはできず、息子の名を呟きながら、恐ろしい形相で深夜の宮殿を彷徨うようになります。
この後、7番目の妻との間にドミートリーが生まれますが、教会から認められた結婚で生まれた嫡子ではないので、王位を継承するのは余程のことがない限り難しいと見られました。
基本的にキリスト教圏では、教会が祝福した婚姻関係の間に産まれた嫡出子でないと、王位継承は認められませんからね。
血が繋がってさえすれば側室の子とかでもチャンスが多いアジアの君主層とは、支配権の継承が結構違います。
そもそもキリスト教圏では離婚するのも一苦労ですから。
リヴォニア戦争の終結
しかし、こんな悲しい事が起こっても、(雷帝にとって)悪魔ステファン・バートリは、ロシアへの侵攻を止めませんでした。
悲しいけど、これ戦争なのよね。
雷帝が下手に出て「休戦しよう」と譲歩しても、ステファンは「何言ってんだお前。有利なのに戦争止めるわけないだろ」と、雷帝の心を逆立てます。
そこで雷帝は、ローマ教皇に仲を取り持ってもらうことにしました。
この頃、ローマ教皇は十字軍がやりたくてウズウズしてたので、「キリスト教同士での争いは止めて、異教徒のトルコを成敗しましょう!」と提案したのです
教皇もこの話に乗って、ステファンも教皇の頼みを断れず、1582年にヤム・ザポルスキの和約が結ばれました。
これで、ロシアはリヴォニア戦争で手に入れた占領地を全て返還、あれだけ兵士や(拷問によって)貴族や、(雷帝の手自ら)息子という多大な犠牲を払って長い間行った戦争なのに、何の成果も得られませんでした。
その後、教皇からウキウキで「十字軍やろうぜ!」と誘いが来ましたが、もう用は済んだので適当に断りました。
イングランド王家の嫁を所望
さて、休戦となっても、ロシアの周りは敵だらけです。
「そうだ!イングランドのエリザベス女王と結婚して、味方につけたらいいのだ!」
「いや、ちょっと待て。エリザベス女王は同い年ぐらいだし、50過ぎか・・・。結婚するなら若い方が良いな。」
というわけで、イヴァン雷帝は7番目の妻マリヤと結婚中にも関わらず、イングランド王家の若くて美人な嫁を寄越してくれ、と要請をしました。
しかしこの頃には、遠く離れたイングランドにも雷帝の悪名は伝わっており。
さらに、敵だらけのロシアに、イングランド王家の嫁を送るわけがありません。
そもそもこの時代のロシアはヨーロッパの仲間として認められているかも疑問ですし、雷帝がマトモだったとしてもイングランド王家から嫁なんてくるかどうか・・・。
しかし白海を通じてロシアとの貿易は、結構な利益を出していましたので、無下に断るわけにもいきません。
というわけで適当に理由をつけて、答えを出すのを先延ばしにしておきました。
イヴァン雷帝は、「イングランドからの嫁。まだかな、まだかな」と待っていて、側近とチェスをしている最中、失神。
1584年3月18日に、そのまま亡くなりました。
後継者
イヴァン雷帝の後は、「鐘を突くしか能がない」フョードルが継ぎ、政治は摂政団に全て任されました。
もちろんフョードルにロシアを統べる力など無く、後継ぎの居ないまま亡くなって、リューリク朝は断絶。
その後、ツァーリの位を巡って血で血を洗う動乱時代に突入し。
最終的に、イヴァン雷帝の1番目の妻アナスタシアの一族である、ミハイル・ロマノフによって、300年もの間ロシア帝国を統べるロマノフ朝が生まれたのでした。