誕生
後に雷帝と呼ばれることになるイヴァンは、1530年8月25日、クレムリンのテレムノイ宮殿で産まれました。
父はモスクワ大公のヴァシーリー3世で、51歳の時の子供です。
15ぐらいで結婚して子づくりに励む時代としては、かなり年を取ってからの子供ですね。
これは、ヴァシーリー3世の前妻ソロモニヤ・サプーロヴァとの間に、20年もの間子供が出来なかったことに由来します。
だからヴァシーリー3世は彼女と離婚して、若いエレナ・グリンスカヤと再婚し、イヴァンをもうけたのです。
ここでキリスト教って離婚できるの? と思われる人がいるかもしれません。
確かに、ローマ・カトリックでは離婚ができません。(という体裁だけど、王侯貴族はカトリックでも難癖つけて離婚したりします)
しかしモスクワ大公国では、同じキリスト教でも正教会が進行されていて、カトリックと違って3回までの結婚が許されたのですね。
ロシアが正教会の理由
ちなみにルーシが正教会を受け入れたのは、キエフ公国のウラジーミル1世の頃です。
彼は国家をまとめるのに宗教の柱が必要だと考え、周りの国の宗教を調べました。
国境の候補に挙がったのは、周りの国が進行していた、ユダヤ教、イスラム教、正教会の3つです。
この中でイスラム教は、教義上酒が飲めず、「ルーシは酒を飲むことが楽しみなのだ。酒が飲めないなら生きている価値は無い」と言って却下。
ユダヤ教は、「自分の国を追い出されているような宗教、信用できん」と却下。
こうして残った正教会が選ばれ、ルーシで正教会が広がったのです。
でも3回の結婚が許されている正教会でも、やはり離婚は喜ばれるものではありません。
そのため、子供をもうけるために前妻を追い出すヴァシーリー3世に対して、「産まれてくる子は邪悪だろう」という予言がなされていました。
まあイヴァン雷帝は7回結婚するんですけどね。
不遇な子供時代
こうしてイヴァンが生まれましたが、3歳の時に父ヴァシーリー3世が死亡。
イヴァンは父の後を継ぎ、イヴァン4世としてモスクワ大公に即位しました。
しかし3歳の子供が政治など行えるわけがなく、大貴族たちが摂政となります。
そして徐々に母であるエレナと、母の生家であるグリンスキー家が権力を掌握。
逆らう貴族たちを、次々と処刑していきました。
母のエレナは我が物顔でロシアの政治を差配しましたが、その母も毒殺され、グリンスキー家も失脚。
今度は大貴族のジュイフスキー家とベルスキー家が権力を争い、モスクワ大公であるイヴァン4世を差し置き、血みどろの抗争を仕掛けます。
そんな状況の中、モスクワ大公とはいえ幼い子供であるイヴァン4世には、何の実験もありませんでした。
何も力のない名目上のお飾りにすぎず、ぼろきれを纏い、食べ物もロクに出されず、さらにその食べ物に毒が入っているかもしれないという恐怖の中で育ちます。
それに、大貴族たちの権力争いに巻き込まれ、いつ自分が暗殺されるかも分かりませでした。
彼が唯一心を休める時、それは小動物を虐める時だけ。
イヴァン4世はナイフで小動物を斬り刻んだり、塔の上から突き落としたりして鬱憤を晴らしました。
何の力も無い自分が、生命の生殺与奪剣を持つとき、彼の心は満たされました。
少し大きくなると、彼は貴族の子弟たちと共に狩猟に出かけ、立ち寄った領内の村で略奪、強姦などをして楽しみます。
しかし少しずつ力をつけていた彼も、未だに宮廷では大貴族の権力の足元にもおよびませんでした。
転機
イヴァン4世13歳のある時、彼は大貴族の一人、アンドレイ・シュイスキーを処刑します。
するとどうでしょう。まさかお飾りの大公が自分に逆らうとは思わなかった大貴族たちは、態度を豹変させ、今まで浴びせていた嘲笑に変え、媚びへつらって来たのです。
この時、イヴァンは悟りました。
この厳しいロシアの大地では、恐怖こそが正義なのだと。
敗者は犬に食われ、勝者のみが繁栄を謳歌できるのだと。
イヴァンは1547年1月にツァーリとして戴冠。
このツァーリという語は、ラテン語ではカエサル、つまり皇帝を意味します。
そのツァーリとして戴冠することは、「私の国はビザンツ帝国や、タタールのハン国と同等だ」という宣言のようなものでした。
それでも彼は自身の勢力基盤に安心できず、自分のツァーリの座を狙いそうな者、狙う気が無くてもその素質がある者を処刑していきます。
しかし宮廷の実権は、未だに母方のグリンスキー家に握られていました。
そんな時、首都モスクワで大火災が発生。
どこからともなく、「この火災はグリンスキー家の魔術によるものだ」という噂が流れ、民衆が暴動を起こします。
こうしてグリンスキー家は民衆のリンチにあい失脚。イヴァン雷帝の下に権力が集中していきました。
幸せな1度目の結婚
この頃、イヴァン雷帝は最初の妻、アナスタシア・ロマノヴナと結婚しています。
ロマノヴナという名前からも分かるように、後にロシア帝国の皇室となるロマノフ一族の娘ですね。イヴァン雷帝の男系のリューリク朝はこの後断絶するので、ロマノフ家がロシア皇室となります。
彼女は、全国から集められた美人、器量よし、家柄良しの中から結婚相手を見つける、お見合いパーティーでイヴァン雷帝に見出された皇后でした。
このような花嫁コンテストを開くのは、シンデレラみたいなのでヨーロッパでは一般的に見えますが、実は結婚珍しいです。
基本的にヨーロッパの王家では王族同士の政略結婚が普通なので、花嫁コンテストなんて開きませんからね。まあ、この頃のロシアがヨーロッパに分類されるかというと、難しい所ですが。
この最初の妻、アナスタシアは良くできた妻で、彼女が生きている間は、イヴァン雷帝の怒りを爆発させたり、疑い深かったりする悪い部分が抑えられていました。
イヴァン雷帝もそんな彼女を愛し、国家は安定しました。
しかしその愛の深さゆえ、彼女を失ったときに雷帝を狂わせることとなるのです。
ロシアの英雄へ
さて、愛妻アナスタシアを得て、イヴァン雷帝が着手したのは中央集権化でした。
彼はモスクワ大公である自分を差し置き、繰り広げられる大貴族たちの権力争いに、子供の頃から飽き飽きしていました。そこで、ツァーリである自分に権力を集中させようとしたのです。
ついでに正教会の聖職者の権力も弱めました。この頃の聖職者は特権階級ですからね。
国の内側ではツァーリの集権化を図り、対外的にはタタール人の国を征服することにしました。
タタールのくびきという言葉があるように、ルーシはモンゴル人の支配を240年ほど受けていたんですね。
この頃にはタタールの力も弱まっていましたが、依然ロシアに侵入してきては、略奪や強姦などをして住民を攫い、奴隷として売ったりしていました。。
だから憎きタタールを倒すのは、国家としての悲願でもあったのです。
イヴァン雷帝はカザン・ハン国に攻め込み、これを陥落させます。
そしてロシア人奴隷、数万人を解放。
さらにアストラ・ハン国をも攻め落とし、併合。
モスクワに凱旋したイヴァン雷帝は、憎きタタールを支配下に置いた、ロシアの英雄として民衆の歓呼の声を浴びることとなるのでした。
しかし、この英雄が後に闇落ちしてしまうのです。