出生
アレクサンドラ・パヴロヴナは、後にロシア皇帝となるパーヴェル1世の長女、また偉大な女帝エカチェリーナ2世の孫娘として、サンクトペテルブルクで生まれました。
しかしアレクサンドラが幼少の頃は、彼女に対するエカチェリーナ2世の態度は厳しく、彼女が非常に醜いと文句を言っています。
これは比較対象となる、妹のエレネ・パヴロヴナが美しかったのも影響しました。
アレクサンドラは物心がつくと勉学に励み、さらに芸術の才能を示し始めます。そして、なんと醜かった顔が美しくなってきたのです!(そんなことがあるのだろうか?)
さらにロシア帝国の全権を一手に握る、女帝エカチェリーナ2世に気に入られようと必死に努力した結果、嫌われていた祖母からの寵愛も得るようになりました。
縁談相手のスウェーデン国王グスタフ4世アドルフ
政略結婚
こうして成長していったアレクサンドラは、11歳の頃に結婚相手が探されます。
お相手は、若きスウェーデン国王グスタフ4世アドルフ。
この結婚によって、「スウェーデンとロシアとの外交関係を強化しよう」という目的の政略結婚です。
結婚相手が決まったアレクサンドラは、持ち前の熱心さを生かしてスウェーデン語を学び始めます。
一目ぼれ
グスタフ4世がロシアに来て、実際に結婚候補であるアレクサンドラを見た時、彼はアレクサンドラの美しさに一目ぼれし、親しげに会話をしたりダンスをしたりと、アレクサンドラを気に入って女帝エカチェリーナ2世に嫁としてもらい受けると申し出た程です。
しかし1つだけ懸念がありました。信仰する教派が、アレクサンドラはロシア正教であり、グスタフ4世の国スウェーデンではルター派(プロテスタントの一派)だったことです。
グスタフ4世はこの問題に対し、事前にアレクサンドラの信教の自由を容認し、嫁に来てもロシア正教の信仰を続けることを認めていました。
婚約のドタキャン
しかし婚約発表である舞踏会の当日。
スウェーデン側から提示された結婚契約書には、花嫁であるアレクサンドラの信教の自由の欄がコッソリ消されていたのです。
これを見つけたロシア側の使節はびっくり、グスタフ4世に説得を試みましたが、グスタフ4世は部屋に立てこもって無視しました。
そんなことが起きているとも知らず、アレクサンドラは花嫁の衣装を着たまま式場で4時間も待たされました。もちろん祖母である女帝エカチェリーナ2世や、貴族たちも勢ぞろいの中。
最終的にグスタフ4世は婚約発表には現れませんでした。
グスタフ4世に裏切られ、貴族・皇族たちの目の前で大恥をかかされたアレクサンドラは、涙を流しながら部屋に閉じこもります。
この孫娘に対する、あまりにも無礼なグスタフ4世の仕打ちに、エカチェリーナ2世は激怒。怒りのあまり、脳梗塞で亡くなってしまいます。
結局グスタフ4世は、バーデン大公の娘であるフリーデリケ・フォン・バーデンと結婚しました。
オーストリア大公ヨーゼフ・アントン
またもや政略結婚
このグスタフ4世の無体な行いから3年後、1799年。
16歳のアレクサンドラに決まった縁談は、今度も政略結婚でした。
お相手はオーストラリア大公のヨーゼフ・アントン。
フランスで伸張するナポレオンに対抗するため、オーストリアの皇族と婚姻を結んで、ロシアとオーストリアの同盟を強化しようという目論見です。
この時も前回と同じように、アレクサンドラの結婚の条件にロシア正教の信仰が含まれましたが、フランスと戦う味方が欲しかったオーストリア側はこれを容認します。
こうしてアレクサンドラは、オーストリアに嫁いでいきました。
ロシア皇室であるロマノフ家と、オーストリア皇室であるハプスブルク家の結婚例は、これが最初で最後です。
皇后マリア・テレジアの酷いイジメ
こうして遂に結婚をすることができたアレクサンドラですが、嫁ぎ先のウィーン宮廷では冷たい仕打ちが待ち受けていました。
アレクサンドラの美しさに嫉妬した、神聖ローマ皇后マリア・テレジア・フォン・ネアペル=ジツィーリエンに凄まじいイビりを受けたのです。マリア・テレジアという名前ですが、有名な女帝「マリア・テレジア」は彼女の祖母に当たります。
彼女はアレクサンドラがロシアから持ってきた、美しい宝石を身に着けることも禁止しました。
出産に際し、やぶ医者を当てられる
アレクサンドラが子供を身ごもった時、マリア・テレジア皇后は彼女にやぶ医者を当てました。
その結果か、産まれた子供はわずか数時間で死亡。
アレクサンドラは娘の死を知って、「神に感謝します、娘は私たちの置かれた悲惨な状況を経験せずに、天使たちと共に旅立てたのですから」と答えました。
そしてアレクサンドラも出産から8日後の1801年3月16日、17歳でこの世を去りました。
オーストリアの宮廷は、ロシア正教を信仰する彼女の遺体を、カトリックの墓地である皇室の霊廟に入れることを拒否。
そのため、夫のヨーゼフ・アントンが霊廟を立て、彼女を葬りました。
祖母のエカチェリーナ2世