【ポンペイウス】何もかも異例なローマの大将軍 part1

ポンペイウス

生まれ

グナエウス・ポンペイウスは紀元前106年9月29日、父親であるグナエウス・ポンペイウス・ストラボの息子として生まれました。

 

ポンペイウス家は北イタリアはピケヌムの裕福な騎士階級(エクィテス)です。

その中でも父ストラボは、家系の中でも初めて元老院議員となったため、新参者の成り上がり(ノウス・ホモ)と言われた存在でした。

父ストラボ

父ストラボはローマの出世コース(クルスス・ホノルム)を順調に進み、紀元前89年にはローマの最高官職である執政官(コンスル)にまで出世しました。

同盟市戦争が起きると、18歳の息子ポンペイウスと共に参戦し、反乱の鎮圧に活躍しました。息子のポンペイウスは、この初陣から部下にカリスマ的な人気があったそうです。

 

このように父ストラボは順調にキャリアを歩んだエリートでしたが、性格は冷酷無比で、自分のことしか考えない出世欲の塊のような人間でした。

スッラの閥族派(オプティマテス)マリウスの民衆派(ポプラレス)の対立がローマで起きると、父ストラボはどちらに肩入れするでもなく、しかし同盟市戦争で集めた自身の軍団を解散せずに留め置きました。

スッラ

マリウス

ですが、その父ストラボも雷に撃たれて死んでしまいます。軍内で流行った病で死んだという説もあります。

相続

というわけで父ストラボの息子である、若干20歳のポンペイウスが、父の軍団と財産を継承したわけです。

このポンペイウスは、当時のローマ貴族の子弟としての教育である、ギリシア語の授業を受けており、ギリシア語がベラベラにしゃべれました。しかし弁舌が爽やかというわけではなく、政治的才能は年をとっても開花しませんでした。

彼の才能は、もっぱら軍事的才能にあったのです。

スッラのローマ進軍に参加

さて当時のローマでは、マリウス率いる民衆派スッラ率いる閥族派内戦状態にありました。この内戦が100年ぐらい続いたことから、内乱の1世紀とも言わる時代だったわけです。

なんと言っても恐ろしいのは、東方のミトリダテス6世を成敗して、踵を返してローマに向かって進軍してくるスッラでした。この時はローマは民衆派が占領していたのです。

東方のポントス国王ミトリダテス6世

ローマに入る時は武装解除する決まりでしたが、スッラはすでに軍団を率いてローマに進軍した前科があり、今回も容赦なくローマに進軍することが予想されました。

 

ここで23歳の若輩ポンペイウスは、なんと3個軍団を率いてローマに向かってくるスッラの軍門に加わったのです。

軍団を率いるには、元老院から許可を得たり、ローマで何かしらの高い官職を得なければなりませんが、ポンペイウスはこの時点で軍団を率いる法的根拠を何ら持っていません。つまり、違法で軍団を持っていたわけです。

 

しかしスッラはこのポンペイウスの加勢に喜び、共にローマへと進軍し、民衆派を根絶やしにして閥族派で占領しました。

スッラの義理の娘と結婚

スッラと彼の妻は、この若くて使えるポンペイウスを気に入り、自分の派閥に繋ぎとめるため、現在の妻アンティスティアと離婚させ、スッラの義理の娘であるアエミリアと結婚させました。

当時としては部下に離婚させて、自分の親族の娘と政略結婚させるのは良くあることです。ポンペイウスは特に逡巡することなく、これを受けいれました。

 

しかしこのスッラの義理の娘であるアエミリアは、すぐに出産の際の産褥で死亡。

ポンペイウスは後に3人目の妻ムキアを娶りましたが、ポンペイウスには女運が無いようで、軍を率いて遠征に行っている間に、伊達男で有名なユリウス・カエサルに妻を寝取られて離縁しています。

カエサル

ちなみに、このカエサルは元老院の全議員の半分の妻と不倫してたと言われるぐらいプレイボーイでした。

ポンペイウスの軍事的成功

今やローマの独裁者となっていたスッラは、ポンペイウスにマリウス派(民衆派)の残党征伐を命じました。

難事業と思われたこの出兵を、ポンペイウスは僅か2年で成し遂げます。

帰国したポンペイウスは民衆から歓迎され、スッラからはマグヌスと評され、名を与えられました。

 

マグヌスとは英語でthe Greatという意味で、アレクサンドロス大王フリードリヒ大王と言ったような、偉大なことを成し遂げた王や皇帝につけられるものです。

アレクサンドロス大王

このような大それた称号を、ポンペイウスはわずか25歳にして手に入れたわけですが、さすがにローマの支配者となったスッラ存命中は遠慮して使いませんでした。

 

さらに兵士たちからはインペラトルと歓呼されました。

これは軍最高指揮権者といった感じの意味で、「よっ、大将軍!」みたいな感じです。

インペラトルという名前からも分かるように、後のローマ皇帝たちはこのインペラトルを称号として名前の中に組み込み、これが英語のエンペラーの語源ともなったぐらいの称号でした。

男ならばしたい凱旋式

と、このようにポンペイウスはその鮮やかな軍の運用を褒め称えられたわけですが、凱旋式を行うことは許されないかに見えました。

凱旋式は、戦争で勝った時に将軍が月桂樹の冠をかぶってローマの街中をパレードし、民衆から最高の栄誉をもって称えられるという、ローマに生まれた男ならば絶対にやりたい行事です。

カエサルの凱旋式

しかしこの時点でポンペイウスは25歳。

凱旋式はローマの高位官職である、執政官(コンスル)や法務官(プラエトル)しかできない法律であり、かたやポンペイウスは元老院議員資格すらありませんでした。

そのためスッラは当初、ポンペイウスが凱旋式を挙行するのを拒否しました。

 

しかしポンペイウスは軍団を解散せずに、ローマのすぐそばに置いたまま、ローマに帰還しました。これは軍団の武力をもって脅迫しているのと同じです。

市民たちの、ポンペイウスに対する人気は恐怖をもってあまりあり、スッラはやむなくポンペイウスが凱旋式を行うことを黙認するしかありませんでした。

 

こうしてポンペイウスは、わずか25歳にして、第2次ポエニ戦争時にハンニバルを破った大スキピオの最少年記録を上回り、ローマで凱旋式を執り行ってローマ市民最高の栄誉を手にすることが出来たわけです。

 

名誉と人気を手にした英雄ポンペイウスは、徐々にローマの支配者たるスッラの意向を無視して動き始めます。

もちろんスッラはこれに良い顔をしませんでした。スッラが長生きしていれば、ポンペイウスと何か衝突もしていたかもしれませんが、運の良い事に紀元前78年にスッラは病死。難を逃れました。

ヒスパニア遠征

現在のスペインの辺りであるヒスパニアでは、クィントゥス・セルトリウスが民衆派の勢力を保っていました。

クィントゥス・セルトリウス

最初はローマの元老院から派遣された、メテッルス・ピウスがこの征伐に当たっていましたが、これといった戦果を上げることができていません.

ポンペイウスの参戦要求

これに目をつけたのがポンペイウス、「俺が援軍として行ってやるぜ!」と提案を行います。

しかしポンペイウスは若干29歳であり、軍の指揮権(インペリウム)を与えるのに必要な官職である、執政官(コンスル)にも法務官(プラエトル)にもなったことが無かったため、元老院は躊躇します。

 

でもポンペイウスはいつも通り、ローマの町の近くで自身の軍団を維持したまま、無言の圧力をかけました。そんなに戦争したいか。

さらに東方のミトリダテス6世も怪しい動きをしていたため、元老院は西のヒスパニアを平定するため、仕方なくポンペイウスに前執政官(プロコンスル)権限を与え、特例で29歳のポンペイウスに軍の指揮権を持たせて送り出したのです。

これは軍の指揮権はローマの高位官職についた者に与えるというローマの伝統を無視しており、公職に1度もついたことがないポンペイウスにこのような処置をしたのは、ぶっちゃけ違法行為でした。

 

ヒスパニアに渡ったポンペイウスは、元々反乱鎮圧の任に就いていたメテッルス・ピウスと仲良く協力します。

相手はゲリラ戦術を取ったため、さすがの戦上手ポンペイウスも手をこまねきましたが、4年でようやく反乱を鎮圧することができました。

ヒスパニアを自身の勢力圏に組み込む

ポンペイウスは鎮圧した後のヒスパニアの地で公正な統治を行ったため、ヒスパニアの住民はポンペイウスを親分(パトロヌス)と認めました。

この時点でポンペイウスは、ヒスパニア(スペイン)、南ガリア(フランス南部)、イタリア北部を自身の勢力圏に入れています。もはや飛ぶ鳥を落とす勢いのポンペイウスを止められる者などおりません。

第三次奴隷戦争を終結させる

当時イタリア本国では、元剣闘士スパルタクスによる第三次奴隷戦争が起きていました。スパルタクスの乱とも言われる有名なやつですね。剣闘士奴隷が逃げ出して不満を持つ奴隷たちを集め、ローマに対し反乱を起こしていたのです。

剣闘士の試合

最初は楽観視していたローマが適当に対処させていたところ、優秀な指導者であるスパルタクスに率いられた奴隷たちによって打ち負かされていました。

そこにスパルタクスの噂を聞いた奴隷たちがどんどん集まって来て、とんでもない規模の反乱となってしまいます。

クラッスス

事態を重く見た元老院は、ローマ1の大金持ちであるクラッススに討伐を命じます。

クラッスス

クラッススは国から支給されたお金に、自分のポケットマネーからお金を出して、ローマ8個軍団を編成して反乱の鎮圧に乗り出しました。

ここで自分の懐を痛めてまで兵士を集めたのは、何もボランティアがしたかったわけではなく、軍事的栄光を手にしたかったからです。まあ一言で言ってしまえば凱旋式がやりたかったのです。

 

クラッススにしては、お金なんて腐るほどあるわけですから、次は名誉が欲しかったのですね。

ポンペイウスの例を見ても分かる通り、軍事大国ローマでは強い将軍はとても社会的尊敬を集めます。それは元々ローマの軍隊を率いる権利があるのは、高位の官職についた者だけという側面もありました。

だからクラッススとしては、この第三次奴隷戦争を自分の手で終結させ、尊敬と人気を集めたかったのです。

焦るクラッスス

しかしスパルタクスは強く、金儲けが上手くても軍事的才能は無いクラッススが手をこまねいているのを見た元老院は、東方のミトリダテス戦争に行っているルクッルスや、西のヒスパニアからポンペイウスを援軍として呼び寄せようとする動きを見せました。

これを聞いたクラッススは焦ります。自分はボランティアで反乱を鎮圧しているわけではありません、名誉が欲しくてやっているのです。ここで援軍に来られて手柄を横取りされるわけにはいきません。

というわけで、クラッススは急いでスパルタクスの反乱軍と決戦を仕掛けました。この戦闘には勝利しましたが、残党が逃げてしまいます。

スパルタクスの最期

ポンペイウスの手柄横取り

しかしこの残党を、イタリア北部から南下してきたポンペイウスの軍が、討伐してしまうのです。

ポンペイウスはヒスパニアを平定したあと、クラッススが第三次奴隷戦争にてこずってるのを見て、いち早くイタリアに取って返して来て、クラッススが決戦で逃した残党狩りを行ったのです。

そしてポンペイウスは元老院に対してこんな報告を送りました、「野戦を行って戦局を変えたのは確かにクラッススだが、戦争を終わらしたのはこの私、ポンペイウスだ。

 

これにクラッススは激怒します。一番大変な所だけやらされ、手柄はポンペイウスに横取りされたからです。とびに油揚げを攫われたようなものです。

 

ポンペイウスはヒスパニア平定や、第三次奴隷戦争終結の功を認められ、ローマで2度目の凱旋式を挙行しました。

一方ポンペイウスに手柄を横取りされた形となったクラッススは、小凱旋式を行うことは認められたものの、凱旋式を行うことは許されませんでした。

 

ここから、ポンペイウスとクラッススの仲がとても悪くなります。後の二人の仲の悪さは有名ですが、この時の手柄横取りのせいだったのですね。

 

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