生まれ
ガイウス・マリウスは紀元前157年、アルピヌムで生まれました。
生家は貧農だったと言われていますが、地元の政治ポストに出馬していたり、地元の貴族と姻族関係があったりするので、実際はそれほど貧しく無く騎士階級(エクィテス)に準ずる生まれだったとも言われています。
しかし家門が無名だったのは確かで、当時の上流階級で必須の教養とされていたギリシア語や弁論術なども身に着けていませんでした。
というわけで彼の家柄は貴族(パトリキ)でも無く、新貴族(ノビレス)でも無かったため、後に政界入りした時には成り上がり者の新人(ノウス・ホモ)扱いで差別されます。
同時代で有名な人では、キケロも成り上がり者の新人(ノウス・ホモ)でした。
ガイウス・マリウスと7羽の雛
そんなマリウスが若いころ、7羽のヒナが入った鷲の巣を見つけます。
鷲は3羽以上の卵を育てないことから、これが後にマリウスが過去前例の無いローマの最高官職である執政官(コンスル)を7回務めるという吉兆だと言われました。
マリウスはこの出来事から、執政官(コンスル)となった時にSPQR(元老院とローマ市民)のシンボルを鷲とし、ローマの軍団旗は銀鷲(アクイラ)となりました。
ローマ軍内で頭角を現す
マリウスがその頭角を現したのは、ローマ軍でのこと。
ヌマンディアで軍役についていた時に、将軍である小スキピオにその才能を認められたマリウスは、彼の後継者について尋ねられた時、「この男かもしれないぞ」とマリウスの肩を叩きながら言ったそうです。
ローマ軍で才能を認められたマリウスには、野心がありました。
ローマで軍の指揮権(インペリウム)を得るためには、執政官(コンスル)や法務官(プラエトル)になるしかありません。つまり政治的に出世しなければ、通常は軍指揮権を手にすることが出来ないのです。
マリウスの野心
そこで政治キャリアを志したマリウスは、トリブヌス・ミリトゥム(幕僚)として選出された後、財務官(クァエストル)になって出世コースに乗りました。
紀元前120年には、代々のパトロヌス(スポンサー)であった、メテッルス家の後援を得て護民官として選ばれます。護民官となれば元老院議員となりますから、順調に出世コースに乗っていますね。
しかし彼は、誰が誰に投票したのか分かりにくくするような法案を通してしまいます。
当時ローマでは誰が誰に投票するのか分かったため、子分(クリエンテス)が誰に投票するか親分(パトロヌス)が監視できたのです。だから貴族たちに有利だったのですね。
この制度を、護民官であるマリウスが分かりにくくしてしまったため、マリウスの親分(パトロヌス)であった有力者のメテッルス家からも疎遠となってしまいました。
その後は親分(パトロヌス)の後援を受けられなかったためか、按察官(アエディリス)の選挙に敗れたりしています。
紀元前116年、マリウスは法務官(プラエトル)の選挙にギリギリ勝ちますが、選挙違反容疑で訴追されてしまいます。
しかしこの訴追からもなんとか逃れることが出来ました。
さて先にも言ったように、ローマでは執政官(コンスル)や法務官(プラエトル)を経験すると、軍指揮権(インペリウム)が持てるようになります。
これで根っからの軍人であるマリウスが、念願の指揮官となれるようになったわけですね。
ちなみに、この頃にカエサル(ジュリアス・シーザー)の叔母のユリアと結婚してたりもします。
ユグルタ戦争
ユグルタ戦争が勃発すると、クィントゥス・カエキリウス・メテッルスがローマ軍の指揮官としてアフリカに派遣されます。
彼はマリウスの親分(パトロヌス)であったメテッルス家の人間だったため、マリウスもユグルタ戦争に副官(レガトゥス)として一緒について行きました。
しかしそこでマリウスは、親分であるメテッルスの無能さに失望してしまいます。
(俺ならもっと上手くやれるのに)と。
そう思ってしまったマリウスは、「俺ならメテッルスの半分の兵士で、数日でユグルタを捕まえて、この戦争を終えられる」と豪語。
ローマ本国の執政官(コンスル)選挙に出馬して、親分(パトロヌス)であるメテッルスから軍の指揮権を奪ってやろうと考えました。
メテッルスはマリウスを説得しますが、マリウスは聞き入れず、こんな獅子身中の虫が居ても害になるだけなので、ついに単身ローマ本国に戻ることを許可。
ローマに戻ったマリウスは、「私なら無能のメテッルスよりも早期に戦争を終結できる!」と演説を行いました。
執政官(コンスル)マリウス
マリウスは敵と一騎打ちして勝ったり、偉いのに兵士と同じ釜の飯を食べたりして、兵士たちからの人気も高かったため、執政官(コンスル)に当選。
メテッルスから軍の指揮権を奪うことに成功します。
子分(クリエンテス)であるマリウスに指揮権を奪われたメテッルスは、あまりの悔しさから滂沱の涙を流したと言われています。可哀そう。
メテッルスはせめてもの嫌がらせにと、軍をそのままマリウスに渡すのではなく、イタリア北部の蛮族征伐に出る同僚のロンギヌスに、軍を移譲しました。
このため、マリウスは戦争をする前に、兵士を集める必要に迫られます。
ここで行われたのが、かの有名なマリウスの軍制改革です。
マリウスの軍制改革
今までローマでは、兵士は徴兵による市民兵で構成されていました。
この市民兵は、ある程度金を持ってるローマ市民を徴兵して、武器防具などは自分で揃え、祖国を敵の手から守るためにローマ軍に入っていました。
が、この頃になると、どうしてもやる気が出ません。
そこでマリウスは都市にあぶれていた無産市民(プロレタリア)に目をつけました。
この無産市民、従来の徴兵制ならば武器防具を自分で揃えることなどできないため、使い物になりませんでした。
しかしマリウスは軍制改革を行い、国から武器防具を支給、給料を払い、征服した土地を分配して自作農になれる道をつくったのです。
これに無産市民が飛びつきました。
「もしかしたら軍に入れば、俺も一旗揚げれるかもしれない!」
こうしてローマ軍は徴兵制から志願制に変わりました。
兵士たちは今までとは違い、職業としての兵士になったので、その強さがますます増します。
しかしこのマリウスの軍制改革によって、兵士たちは「ローマという国」では無く、「自分たちを雇う将軍」に忠誠を誓うようになっていきました。
これが軍の私兵化を招き、ローマを共和政から帝政に向かわせる大きな要因ともなってくるのです。
いざユグルタ戦争へ
このようにマリウスの軍制改革は、ローマに大きな影響を与えましたが、当のマリウス自身は必要に駆られてやっただけで、そこまで深く考えていませんでした。
軍を募集してユグルタ戦争に乗り込んだマリウスでしたが、前任者で「無能」とされたメテッルスと大して戦況は変わりません。
この状態を救ったのが、副官(クァエストル)だったスッラです。
スッラはすぐれた政治的手腕により敵側の抱き込み工作を行い、ユグルタを生け捕りにすることに成功します。
これは完全にスッラの功績でしたが、その上官であるマリウスが凱旋将軍としてローマに迎えられ、またもや上司と部下の間で不和が起き始めます。
キンブリ・テウトニ戦争
この頃イタリア北部では、(おそらく)ゲルマン人の部族が南下してきてローマを脅かしていました。
貴族の将軍がローマ軍を率いてこれを迎え撃ちに行ってましたが、大敗北を喫します。
この危機を救うのは、ユグルタ戦争で功績を上げたマリウスしか居ない!
そう考えたローマ市民たちは、マリウスを未だかつてなかった5回連続執政官(コンスル)選出。
マリウスはこれに応えてゲルマン民族を相手に大勝を収め、撃退しました。
ローマではマリウスは一躍時の人となり、ロムルス、カミルス以来の「ローマ第3の建国者」とも呼ばれました。
こうしてマリウスは栄光の頂点に立ったのです。
栄華の頂点
人気の絶頂にあったマリウスは、前人未踏の6回目の執政官(コンスル)選出。
調子乗ったマリウスの派閥である民衆派は、マリウスと政治的に敵対していたマリウスの元親分(パトロヌス)であったクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ヌミディクスをローマから追放します。可哀そう。
こうした有力派閥に属した下っ端は、段々と増長してしまうのが常で、民衆派であった護民官のサトゥルニヌスは、なんと自身の政敵を暗殺してしまいました。
これに元老院は元老院最終勧告(セナトゥス・コンスルトゥム・ウルティムム)を発動、国家の敵とみなされたサトゥルニヌスに、執政官(コンスル)であるマリウス自らが対処をしなければなりませんでした。
驕れるもの久しからず
サトゥルニヌスを捕獲し、監禁したマリウスでしたが、マリウスはこの派閥のメンバーの命を取ることまではせずに、法に寄って裁かせようとします。
しかし暴徒がサトゥルニヌスを監禁していた家の屋根に上がり、屋根を剥がしてサトゥルニヌスに物を投げつけて殺してしまいます。
これはマリウスの命じたことではありませんでしたが、マリウスは親分(パトロヌス)であるメテッルスを追放したこともあり、子分であるサトゥルニヌスも殺した冷酷な奴だと非難を浴び、急激に勢力が衰えてしまいます。
ここで元老院が追い打ちとばかりに、追放されていたメテッルスを呼び寄せます。
マリウスは元親分(パトロヌス)に今更どの面さげて会えば良いのか分からなかったのでこれを阻止しようとしましたが、今の自分には止めることができないと感じたマリウスは、ローマから半ば亡命のような形で去り、隠遁生活に入ることとなりました。
同盟市戦争
さて、マリウスの行った軍制改革は、当人自身も思いもよらなかった戦争を生みます。
彼の軍制改革によって、今まで徴兵制だったローマ軍は志願制となりました。
つまりローマ市民は、今までよりもうま味が増しました。
この徴兵制では無くなり、価値の高くなったローマ市民権を欲しがったのが、ローマの諸同盟都市国家や部族です。
彼らはローマに対してローマ市民権を要求しましたが、ローマ側はローマ市民権を出し惜しみしました。
「それならやってやろうじゃないか!」と起こったのが同盟市戦争です。
この時にマリウスも再びローマ側の指揮官の1人として選ばれていましたが、既に70歳近いマリウスのこと、脳卒中か何かで健康状態の悪化のため、戦争初期に身を引いています。
この時に名を上げたのが、ユグルタ戦争の時にユグルタを捕まえた、マリウスの元副官のスッラでした。
勢いを増す閥族派のスッラ
スッラは(貧乏だけど)貴族の出で、貴族で構成された閥族派を形成していました。
一方マリウスは平民を支持基盤とする民衆派です。
元々禍根はありましたが、もはや政治的にも対立は必至となっていました。
そんな時、同盟市戦争のゴタゴタを見て、東方のミトリダテス6世が戦争を吹っ掛けてきました。
この時、元老院では閥族派のスッラ、民衆派のマリウス、どちらをミトリダテス戦争に派遣するかでモメにモメました。
マリウスのクーデター(1回目)
最終的に選ばれたのは、スッラでした。
しかしこれを不服とするマリウスはクーデターを起こします。
閥族派の議員たちを殺して回り、元老院に「マリウスがミトリダテス戦争の指揮権を持つ」と認めさせました。
スッラのロ-マ進軍(1回目)
しかしこのマリウスに対する対応として、スッラはここでとんでもない暴挙に出ました。
なんと軍を率いてローマに進軍したのです。これは「ローマには武装解除して入らなければならない」という法と伝統に反しており、こんなことをする将軍は前代未聞でした。
マリウスは剣闘士たちを使ってローマの防衛を行おうとしましたが、皮肉にも自分が行った軍制改革によって、専門職となったローマ正規軍に勝てるわけがありません。
こうしてマリウスは北アフリカに逃げ、スッラはローマで民衆派を虐殺しました。
スッラはローマで自派の体制を整えた後、今度こそ東方へミトリダテスを成敗しに行きました。
マリウスのクーデター(2回目)
しかしスッラが東方へ旅立った後、民衆派のキンナが、マリウスにローマへ戻ってくるよう手引きします。
マリウスはこれに応え、北アフリカから軍団を連れて来てクーデター(2回目)を挙行して成功。
スッラ派は処刑されて首をフォルム(皇居広場)に置いて晒しものとし、元老院はスッラを国家の敵認定しました。
そしてマリウスがミトリダテス戦争の指揮官であるとして、元老院に任命されたのです。どんだけ戦争やりたいんだ。
マリウスの暴走
この頃70歳に達していたマリウスは、猜疑心の強い老人となっており、ちょっとでも疑わしい動きをすればすぐに処刑されました。
マリウスに挨拶をして、返事が無ければ処刑される予兆だったことから、マリウスの友人でさえも挨拶するのを躊躇ったと言います。
この後マリウスは驚天動地の執政官(コンスル)7回目選出。もう好きにしてくれ。
しかし栄華を極めたマリウスも、寄る年波には勝てず、執政官(コンスル)就任2週間後に70歳で死亡しました。
スッラのローマ進軍(2回目)
国家の敵認定されたスッラは、またマリウスが乗っ取ったローマよりも、先にミトリダテスの方をなんとかしようと考え、ミトリダテスをボコボコにしてさっさと和睦を結びました。
そうしてスッラは、東方からローマ軍団を引き連れて、2度目となる掟破りのローマ進軍を開始。君らやりたい放題だな。
ローマを奪い返したスッラは、激しい粛清によって、民衆派を文字通り根絶やしにしました。
そして宿敵マリウスの遺灰を掘り起こし、テヴェレ川にばら撒きましたとさ。
宿敵スッラ