息子のスキャンダルによって変わる生活
エリーザベトの息子である、ハプスブルク家の皇太子の自殺という世紀のスキャンダルは、ヨーロッパ中をセンセーショナルに沸かせました。
この事件を機に、母親であるオーストリア=ハンガリー帝国皇后であるエリーザベトに、ヨーロッパ中の注目が集まります。
そんな注目の二重帝国皇后エリーザベトは、なんと公務にも出ずにヨーロッパ各地を旅行しているというではありませんか!
そこで、「皇后は息子の死によって狂ってしまったのだ!」というような噂が流れてしまいます。
実際は元々公務をすっぽかしていつも通り旅行してただけなんですけど、他国の人はこれまでの経緯や複雑な事情などは知りませんでしたからね。
というわけで、息子の死によって狂ったとされるエリーザベトは、パパラッチに追い回されることとなります。
こうして今まで満喫していた気晴らしの優雅な旅行は一転、どこへ居てもマスコミに追い回される生活に変わりました。
エリーザベトはパパラッチを撒くために、居場所がバレたら次の所に行く、予定地に行かずに急に行き先を変えて他の所に行く、などといった対策を取りますが、なぜか彼女の居場所はすぐにバレました。
というのも、エリーザベトは目立ちすぎたからです。
この頃のエリーザベトは、老いた自分の顔を隠すため、日傘と扇で完全防備で、皇太子ルドルフの死から喪服を着ていたので、全身黒で統一。
そして過酷なダイエットのため、そんな目立つ服装で街や野山を女官を連れて競歩しているのです、バレないわけがありません。
というわけで、エリーザベトはヨーロッパのどこに居てもすぐにバレました。
こんな状況で、心休まる旅行などできるわけがありません。
ウィーンの宮廷に居場所が無くなり旅に出たエリーザベトは、今度はヨーロッパにも居場所が無くなったわけです。
しかし、いまさら敵だらけのウィーン宮殿に戻って公務に励むことなど、できるわけもなく。ギリシアのコルフ島に宮殿を立て、そこを拠点としてヨーロッパ中をお忍びで旅行し続けました。
皇后はそんな生活をしていたため、夫である皇帝フランツ・ヨーゼフとも年に数回顔を合わせる程度でした。
しかし、フランツ・ヨーゼフの様子は「皇帝の友人」である女優のカタリーナ・シュラットとの文通を通して把握していましたし、フランツ・ヨーゼフとも文通を通して家族愛を育みました。
常人には理解できないでしょうが、こんな奇妙な三角関係が、当人たちにとって心地よいものだったようです。
市販の本では皇后が旅ばかりしていたことから、フランツ・ヨーゼフとエリーザベトとの仲は冷え切っていた、と書かれている本が良くありますが、行われていた文通の内容を見ると、それほど仲は悪くないように思えます。
ちなみに手紙の内容は全て公開されおり、海外では二人の手紙のやり取りが纏められて一冊の本となっていたりします。海外では貴族の回想録や手紙は重要な歴史資料ですからね。
ちなみに後世に残るとヤバい手紙は、暖炉の中に入れたりして燃やして焼却します。
アジア圏だと、中国の影響で支配王朝が正史を編纂してくれるので、その時代の様子が分かりやすいですが、その歴史を編纂した王朝に都合の良いことしか書かれないので一長一短ですね。
皇后の暗殺
さて、そんなこんなで皇太子亡き後も、エリーザベトはヨーロッパ中を旅行していて、1898年9月、彼女はスイスのジュネーヴ、レマン湖のほとりに居ました。
そこでレマン湖の蒸気船に乗ろうとした時、突然男がぶつかってきます。
エリーザベトはその場に倒れ込み、男はそのまま謝罪することも無く、逃げ去っていきました。
慌てて駆け寄ったお付きの女官ですが、エリーザベトはすぐに何事も無かったかのように立ち上がってこう言いました。
「あの男は何をしたかったのでしょう?」
そして蒸気船が出発しそうなので、急いで船に乗り込んだところ、エリーザベトは急に意識を失います。
実はさきほど男とぶつかった時に、エリーザベトは男に先端を研いで尖らせたヤスリで心臓を一突きされていたのでした。
しかし、あまりにも鋭利だったため、痛みを感じることも無く、さらにエリーザベトはコルセットで胸をギュウギュウに締め付けていたため、刺されたことにすら気づいていなかったのです。
そしてオーストリア=ハンガリー帝国の皇后エリーザベトは苦しむことも無く、そのまま安らかにこの世を去りました。享年60歳。
妻エリーザベトの暗殺の報を聞いた、皇帝フランツ・ヨーゼフは嘆き悲しみます。
この時、「誰も分かってはくれないだろうが、私は彼女を本当に愛していたのだ」と呟いたそうです。
妻エリーザベトが亡くなり、皇帝は女優のカタリーナ・シュラットとも距離を開けました。
暗殺の動機
さて、皇后エリーザベトを暗殺したルイジ・ルケーニはすぐに捕まりました。
ここで気になるのは、なぜルケーニはエリーザベトを暗殺したか、ということでしょうが、実はルケーニはエリーザベトを狙ったわけでは無く、相手が王侯ならば誰でも良かったのです。
彼は自分の貧しさから、働きもせずに贅沢な暮らしをしている王侯貴族を恨んでいました。
そこで最初はフランスのオルレアン公フィリップを暗殺するつもりでしたが、彼は予定を変更して既にジュネーヴを去っていました。
そこでどうしたもんかと新聞を読んでいると、オーストリア=ハンガリー帝国の皇后がジュネーヴに来ているという記事が目に留まりました。
そこで皇后エリーザベトを暗殺しようと、短剣を買おうとしましたが、その費用の12フランすら用意できずに、古いヤスリを研いで磨き、お手製の暗器で犯行に及んだのです。
暗殺者ルケーニは死刑を望みましたが、終身刑となり、逮捕されてから12年後に、独房の中でベルトで首を吊って自殺しました。
皇后暗殺の反応
さて、二重帝国の皇后が暗殺され、首都ウィーンでは盛大な葬儀が行われました。
しかし公務をサボり続け、ウィーンにほとんど帰らずに旅ばかりしていた皇后エリーザベトに対する反応は冷たいもので、むしろ夫である皇帝フランツ・ヨーゼフに同情が集まりました。
しかし皇帝フランツ・ヨーゼフの苦難はまだまだ続きます。
彼は息子を心中で亡くし、妻を暗殺された後、皇位継承者を暗殺されて第1次世界大戦を引き起こし、あれほど守りたがっていたハプスブルク家の帝国を崩壊へと向かわせるのです。
エリーザベトが亡くなって、形見分けが行われましたが、あれほどたくさん持っていた宝飾品や服などは、皇太子ルドルフの死後、すでに周りの者に配りまわっていたため、私物はほとんど残っていませんでした。
しかし、スイスの銀行にたくさんの預金が残されており、周りの者を驚かせます。
実はエリーザベトは、皇后として与えられていた年金を投資して増やし、1000万グルデン以上のヘソクリがあったのですね。(でも旅の資金は皇帝の資金援助で賄っていました)
その莫大な遺産は、エリーザベトの遺言に従って、娘であるギーゼラ、ヴァレリーが5分の2ずつ、ルドルフの娘に5分の1分けられました。
終
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