家庭内の問題
オーストリア帝国はオーストリア=ハンガリー帝国という二重帝国の体制となり、国内の動乱も一安心かと思いきや、今度は皇族内での問題が起きました。
その問題を起こしたのは皇太子ルドルフです。
皇太子ルドルフは、時代遅れの軍国主義教育を行うゴンドレクール将軍から、母であるエリーザベトによって助け出され、その代わりにラトゥールによる自由主義的教育を受けていたのは前partで説明した通りです。
そんな皇太子ルドルフは教育通りの思想を持って成長しましたが、ガチガチの保守派である父、皇帝フランツ・ヨーゼフの政治的思想と相いれないものでした。
というわけで皇帝は、政治に携わって数々の改革を行いたいと思っている息子を政治の場から遠ざけ、政治がダメなら学問を修めたいと思っている息子を軍隊に入れました。
しかし、これはドイツという地域の国の性質上、ある意味仕方ないものでした。
日本でも明治維新してから、プロイセンの制度を手本にして同じようなシステムをつくり、天皇大権に統帥権が入っていから理解できると思いますが、あの辺りの国は皇帝や国王に統帥権のような、めちゃくちゃ強い軍事権力があったのです。
しかも大日本帝国とは違って、ドイツでは国王や皇帝が軍事面で思いっきり口を出します。
そんな軍事面での最高権力を持つ国家元首が、軍隊のことを何も知らないお坊ちゃんだと、軍部に丸め込まれて言いなりになるか、現実的でない計画を支持したりするようになるでしょう。
というわけで、ドイツの皇族は軍部と深く結びついていたのです。
そして、皇帝の周りの側近は、将校である有能な貴族で固められました。
だから皇太子であるルドルフを軍に入れたのは、制度上仕方ない事でもあったのです。
しかし、ルドルフの方と言えば、政治にも携われず、学問を修めることも出来ず、父である皇帝フランツ・ヨーゼフを恨みました。
彼は匿名で、新聞やパンフレットで現在のオーストリア=ハンガリー帝国の政治体制を批判していたりします。
その内容は、「生まれだけで苦労もせず良い生活ができる貴族や、何もしない聖職者が威張っている今の状況はおかしい。帝国内で民族による格差があるのもけしからん、連邦制にするべきだ」と言ったような内容でした。
こう言った主張からも分かるように、彼は皇族にも関わらず、かなり自由主義的な思想を持っていました。
でも皇帝からしたら、こんな先鋭的な思想を持った皇太子ルドルフに政治を任せられるわけがありません。
ハプスブルク家は何世紀も続いた名家なのです。
だからフランツ・ヨーゼフは、「私の代で、このハプスブルク家の帝国を終わらせてなるものか」と必死だったのですね。
でも、この後フランツ・ヨーゼフがヨーロッパの火薬庫に火をつけて、第1次世界大戦を引き起こし、ハプスブルク家の帝国は終焉に向かいます。
皇太子ルドルフの女性関係
さて、ルドルフは22歳の時に、16歳のベルギーの王女ステファニーと結婚しました。
しかし、結婚当初は上手く行っていたものの、皇太子夫妻の仲は段々と悪くなりました。
政治にも携われず、妻を愛することもできないルドルフはグレました。
居酒屋で酒を浴びるように飲み、たくさんの愛人をつくって憂さを晴らすようになります。
あまりにも女と遊びすぎて、重い淋病に罹ってしまい、それを嫁のステファニーに移して不妊にした、なんて話もあるぐらいです。
そんな時、皇太子ルドルフは17歳の男爵令嬢、マリー・ヴェッツェラと出会います。
プレイボーイだった皇太子ルドルフは、この男爵令嬢をすぐに誑かし、良い関係になります。
そして家族に相談もせず、教皇レオ13世に現在の妻ステファニーとの離婚の許可を求め、この男爵令嬢と再婚する書簡を送りました。
カトリックは教義上、離婚はできませんでしたが、このように王侯貴族は教皇に許可をもらって、結婚の成立の儀式や過程自体に難癖をつけ、結婚自体を無効にしてしまう裏技が使えたのです。
この手法は何も特別なものではなく、歴代の君主も良く使う手でした。
というのも、基本的にキリスト教圏では、結婚してる相手との子供ではないと王位継承権が無く、もし結婚相手が子供を埋めなかったら家系断続の危機なので、そういった時にこの裏技が良く使われました。
しかし、このルドルフの離婚の試みは教皇に拒否され、さらに父親である皇帝にもバレました。
皇帝はこれに怒り心頭。
そもそも、頭が固いガチガチの保守派の皇帝が、男爵令嬢とか言う地位が低い相手と息子を結婚させるわけがありません。
当時は王族は王族と、貴族は貴族と、平民は平民と結婚するのが常識だったからです。
男爵家とか一応は貴族だとしても、皇族からして見れば地位が物凄く低かったわけですね。
皇太子ルドルフが死亡した後に皇位継承者となったフェルディナント大公が伯爵令嬢と結婚する時ですら、皇帝は貴賤結婚に激怒して彼らの子供たちの皇位相続権を奪ったほどですからね。
シンデレラのように王子様と平民の娘が結婚するのは、ファンタジーなわけです。
この事件がきっかけとなり、元々悪かった親子関係が、さらに悪化します。
ルドルフは父と大喧嘩をし、今までの様々なことから遂に父親は「お前は、余の後継者として相応しくない!」と息子に宣言しました。
この言葉に皇太子ルドルフは絶望。そして愛人であるマリー・ヴェッツェラを呼んで、あることを計画します。
マイヤーリンク事件
1889年1月30日、ホーフブルク宮殿でホメロスを読みながらギリシア語の授業を受けていたエリーザベトに、ある知らせが舞い込んできました。
「皇太子が亡くなられました」
皇太子ルドルフと、その愛人のマリー・ヴェッツェラは、マイヤーリンクにある狩猟用の館で心中を行い、その遺体が発見されたのです。
しかし発見者は、そのことを自分から皇帝に伝えることができずに、皇后であるエリーザベトの元に伝えに来たのですね。
エリーザベトは息子の死に悲しみながらも、この最悪の知らせを何も知らない皇帝に伝え、さらに皇帝の精神を慮り、皇帝の「友人」であるカタリーナ・シュラットにも、今すぐに参内して皇帝を労わるようにと連絡しました。
この事件は当初、心中ではなく愛人のマリー・ヴェッツェラが皇太子ルドルフを毒殺したのだと考えられていましたが、状況が分かっていくにつれ、最初にマリー・ヴェッツェラが銃で撃たれ、その後にルドルフが死んだのだと判明しました。
そして二人が心中した部屋には鍵がかけられていたため、自殺説が濃厚となります。
皇太子が自殺というハプスブルク家世紀のスキャンダルの痛手を拡げないため、事件にはすぐに緘口令が敷かれました。
このため、今でも何が原因で死に至ったのか、正確な死亡時の状況が伝わっておらず、真相は判明していません。
でも、やはり世間の見解は、心中したのだろうという説が主流でした。
皇后エリーザベトは、この息子の死の原因を、妻との不和が原因だとして、ルドルフの嫁であるステファニーに責任をかぶせてイビりました。
というのも、そもそもステファニーはベルギーの王女という時点で、いけ好かない義弟の嫁シャルロッテを思い出して、ムカムカしていたのです。
エリーザベトは若いころ、教養があって金持ちのシャルロッテと、ことあるごとに比較されて恨みがありましたからね。
と言っても、皇后は旅ばかりしていて全然ウィーンに居なかったので、イビるといってもそれほど辛いものではありませんでした。
さて、キリスト教によると、自殺は大罪です。
神からもらった自分の命を殺すという解釈になるからですね。
特に、ハプスブルク家ゆかりのお墓であるカプツィーナー納骨堂には、とても埋葬できないでしょう。
というわけで、ルドルフは自殺をしたのではなく、精神が錯乱したことにより、自分に向けて銃の引き金を引いた、という解釈になりました。
自殺は自分の自由意志で自らの生命を断つものですが、精神錯乱だと、自分の意思ではなく、事故にあったようなものだという理屈ですね。
苦しい理屈ですが、これによって、ようやく教皇から皇太子の埋葬許可が出ました。
皇帝はあまりにも悲しむ妻エリーザベトを心配し、息子の葬儀には出席させませんでした。
さて、皇太子ルドルフが亡くなり問題となるのは、誰がこのオーストリア=ハンガリー帝国を継ぐのかということです。
皇帝フランツ・ヨーゼフと皇后エリーザベトの間には男児が一人しか居なかったので、皇帝の弟が皇位継承者となりました。
しかしその弟はフランツ・ヨーゼフよりも先に死亡したため、その弟の息子が皇位継承者となります。
この皇位継承者が、サラエボで暗殺されて第1次世界大戦の切っ掛けとなる、フランツ・フェルディナントでした。
この皇太子の心中事件はマイヤーリンク事件と呼ばれ、自殺説が濃厚ですが、暗殺説もあります。
例えば、皇太子ルドルフが自由主義的すぎて体制を崩壊させる恐れがあるため、身内のオーストリアの秘密警察に暗殺された説や、フランスのジョルジュ・クレマンソーの放った暗殺者によって暗殺されたという説です。
最近でも、ハプスブルク家の人でフリーメイソン暗殺説を推す人もいます。
しかし、この事件は極秘の内に処理されてしまったため、なんらの確証はありません。
最近でも新しい発見があったりして、マリー・ヴェッツェラの家族宛ての遺書が2015年に発見されたりしています。
その遺書には、「殿下と私を、一緒に埋葬して欲しい」とありましたが、もちろんそんな身分違いの望みは許されませんでした。
皇太子ルドルフは現在、カプツィーナー納骨堂にて、父フランツ・ヨーゼフと、母エリーザベトと共に眠っています。