高まる皇帝への不満
普墺戦争でボコボコにされたオーストリア帝国。
帝国の威信は墜ち、帝国内に燻っていた諸民族は、口々にこの失態を犯した皇帝を非難します。
そもそも、このエリーザベトの夫であるフランツ・ヨーゼフが皇帝となっていからというもの、ロクなことがありませんでした。
弱冠18歳にして伯父から皇帝の座を譲られたのも、別に才能があったからとかいうわけでは無く、単に民族独立運動が活発化していたから、お飾りの皇帝を挿げ替えた面が大きかったです。
それに、ロシアが行っていたクリミア戦争では、前にハンガリーの革命が起こった時に鎮圧に協力してくれたロシアを裏切って、恩を仇で返し、かなり恨まれることとなります。
第二次イタリア独立戦争では、ソルフェリーノの戦いで皇帝フランツ・ヨーゼフ自らが親征を行うも敗北。
そして今度は普墺戦争で300~400年続いたドイツの盟主という地位から一転、ドイツという枠組みから締め出されてしまったのです。
こんな皇帝の数々の大失敗により、オーストリア帝国の権威は地に墜ちました。
しかし、この状況になってもなお、皇帝は下から突き上げられて定めた憲法を無視し。19世紀も後半なのにいまだに王権神授説の絶対主義とかいう古臭い体制にこだわっていました。
これでも戦争に勝ったりしていれば話は違ったことでしょう。
しかし結果は普墺戦争でボコボコにされ、長年神聖ローマ帝国として君臨していたドイツの盟主の座から締め出されたのです。
親玉がこんな情けない状況に陥っていたため、その支配下にある諸民族は、もちろん自主独立の機運を今まで以上に高めました。
二重帝国の誕生
こうした状況になって、帝国内の諸民族の結束はガタガタとなり、ドイツ人だけで諸民族を支配していく旧来の体制を維持するのは不可能になりました。
ここで登場するのが皇后であるエリーザベトです。
彼女は普墺戦争でオーストリアが負けてから、子供たちをハンガリーのブダペストに連れて行き、そこでハンガリーの独立運動を支持しました。
と言っても、勉強嫌いのエリーザベトが自分で政策などを考えたわけでは無く、愛人と噂されるハンガリー貴族のアンドラーシ伯爵と共に、夫である皇帝に穏健的なハンガリーの自主独立を訴えました。
その内容は、オーストリア帝国をライタ川で二分し、西をオーストリア、東をハンガリーで力を合わせて諸民族を統治しようとするものです。
普段ならこんな屈辱的な提案を、ガチガチの保守派である皇帝フランツ・ヨーゼフが認めるわけがないのですが、今回は状況がひっ迫していました。
この皇妃エリーザベトが旗印となって提案していた穏健的な提案を蹴ってしまえば、ハンガリーは武力を用いて強行的に独立し、さらに連鎖して諸民族も蜂起して、帝国が内部からバラバラになって崩壊する恐れがあったのです。
長年続いたハプスブルク家の家長として、皇帝フランツ・ヨーゼフは、そんな状況は絶対に避けなければなりません。
というわけで皇帝は、ドイツ人にも関わらず、ハンガリーのマジャール人を代表する妻・皇妃エリーザベトとの折衝を続けました。
この時、あれだけ勉強嫌いだったエリーザベトがハンガリー語をペラペラと喋り、皇帝の通訳を買って出ていたほどにまでなっていました。
そしてエリーザベトは夫である皇帝の説得に成功し、オーストリアは妥協(アウスグライヒ)して、ついにハンガリーは名目上の自主独立を獲得できたのです。
こうしてオーストリア帝国は、オーストリア=ハンガリー帝国という二重帝国となりました。
これはオーストリア帝国が西の諸民族、ハンガリー王国が東の諸民族を統治し、ハプスブルク家の長であるフランツ・ヨーゼフがオーストリア皇帝、兼、ハンガリー国王になるという、同君連合の形態を取ったものでした。
ハンガリーが名目上独立を獲得したとは言っても、フランツ・ヨーゼフが大きな権力を握っていたことには変わりありません。フランツ・ヨーゼフはガチガチの保守タイプの君主でしたので、そこだけは譲れませんでした。
そして1867年6月、普墺戦争の終結から1年も満たない内に、皇帝フランツ・ヨーゼフは皇妃エリーザベトを伴い、ハンガリーで国王と王妃として戴冠式を済ませたのです。
マジャール人の味方となって、皇帝を説得し、妥協(アウスグライヒ)を成就させたエリーザベトの「ハンガリーでの」人気は凄まじいもので、今でもドナウ川を挟んでブダとペストを繋ぐハンガリーのエルジェーベト橋は、皇妃エリーザベトが由来になってたりするほどです。
ちなみに橋の袂にはエリーザベトの銅像も建っている。
エリーザベトの愛人兼ブレーンだった、ハンガリー貴族のアンドラーシ伯爵は、ハンガリー王国の首相となり、後には二重帝国の外相にまで出世しました。
この頃、三女のマリー・ヴァレリーが生まれます。
しかし、「このマリー・ヴァレリーは皇帝と皇妃との間の子供ではなく、エリーザベトとアンドラーシ伯爵との間の子供なのだ」という噂が広がりました。
まあ、前の子供である皇太子ルドルフが産まれてから10年来のオメデタで、二重帝国になってからすぐに産まれた子供ですから、そう噂されるのも無理なかったでしょう。
だからかどうかは分かりませんが、今までのように姑のゾフィー大公妃にマリー・ヴァレリーの養育権を取られるということが無く、母エリーザベトも彼女を溺愛して一緒に旅をし、子供たちの中で一番マリー・ヴァレリーを可愛がりました。
ただ、そんな噂があってもマリー・ヴァレリー自身はファザコンとも言えるほどのお父さんっ子であり、父の執務室でずっと皇帝が仕事をしているのを眺めていたりしたそうです。
こうして一躍ハンガリーの英雄となったエリーザベトですが、ハンガリーのマジャール人以外の民族からの彼女を見る目は、より一層厳しいものとなりました。
それもそのはず、今までドイツ人だけが支配者層だったのに、そこにマジャール人を新たに支配者に加えたので、既得権益層であるドイツ人からは恨まれますよね。
それに他の諸民族は「皇妃はハンガリーを依怙贔屓してばかりだ!」と怒りを募らせます。
というわけでハンガリーでは英雄となったエリーザベトですが、宮廷や市民たちからは、既得権益を破壊した依怙贔屓する公務サボり魔として、ますます嫌われるようになってしまいました。
しかし、これは別にエリーザベトの心を苦しめませんでした。
そもそも敵だった奴らに今更恨まれても、全然痛くありません。
というわけで、皇妃エリーザベトが首都ウィーンに滞在するのは、短い時で一年のうち年末年始の4日ほどでした。
敵だらけのウイーンを抜け出し、公務を放り出して、1年のほとんどを三女マリー・ヴァレリーと共に、温泉に出かけたり、ヨーロッパのあちこちを旅して楽しみます。
こうして本来公務を行わなければならないはずの皇后は、いつも首都ウィーンに居なかったので、ファーストレディ-としての公務は皇族から代役が立てられていました。
こうしている間にも、三女以外の子供たちは、母の愛を受けられずに、また悩みを打ち上げることもできずに育ちます。
特に皇太子ルドルフは、教育係のラトゥールによって軍国主義的な教育から解放され、自由主義的な教育を受けて育っていました。
皇太子はこの思想から、「今は同君連合の形でハンガリーと共に諸民族を押さえつけているが、この体制では長くは持たないだろう。ハンガリーだけを依怙贔屓するのは止め、諸民族を同格に引き上げ、オーストリアを連邦制にしなければならない」と考えていました。
しかしこのような自由主義的な思想は、頭の固い皇帝フランツ・ヨーゼフには受け入れられず、逆にその自由主義的な思想を警戒され、皇太子は政治に一切関与させてもらえませんでした。
そもそも皇帝フランツ・ヨーゼフは、二重帝国となってもなお、皇帝である自分に権力を集中させていたほどの絶対主義者でした。そんな皇帝が、「自分は共和国で初めての大統領となりたい」とか言ってる自由主義者の皇太子と政治的に折り合いがつくわけがありません。
ただ、これまでの説明だけだと、フランツ・ヨーゼフの政治が失敗続きだったかのように思われるかもしれません。
確かに彼は戦争には滅法弱かったですが、内政能力は確かだったようです。フランツ・ヨーゼフの治世下で、オーストリアの経済はすこぶる発展しましたからね。(ただし、同時期にヨーロッパ全体としての経済も発展している。おそらくこれはヨーロッパの植民地支配と産業革命による国際的分業の発達によるもの)
ナショナリズムが高まって、民族自決の気運が高まっていたこの時代、帝国内の多民族をまとめるために皇帝自身が神格化したのも特徴です。
今でもオーストリア帝国の旧領土でフランツ・ヨーゼフの肖像画とかが飾られているのもこのためですね。
皇后エリーザベトは、そんな風に一人黙々とウイーンで仕事を毎日長時間続けている、この真面目な夫が少し可哀そうに思えてきました。
「自分の公務は代理の者が出るから良いとして、夫を精神的に支える人が必要だな」と考えたのです。
皇帝が倒れたら、旅の資金を出してくれる人も居なくなりますからね。
そんな時、1885年にロシア皇帝夫妻とオーストリア皇帝夫妻で会見した後、余興に劇が催されました。
そこで皇帝が女優のカタリーナ・シュラットを見て気に入った様子なのを見て、エリーザベトは閃きます。
「彼女に夫を支えてもらおう!」
こうして、皇妃エリーザベト公認の下、この女優と夫をくっつけました。
皇帝と女優は最初は戸惑いましたが、エリーザベトの全面的なサポートによって、奇妙な三角関係が始まります。
この関係はエリーザベトの目論見通り上手く行き、皇帝の満足そうな様子を聞いて、エリーザベトは心置きなく旅を続けることが出来たのでした。ちなみにカタリーナ・シュラットと皇妃エリーザベトはこまめに文通を行い、皇帝の様子などを聞いたりしていました。
このカタリーナ・シュラットは皇帝と付き合いだしてから、皇帝に頻繁に金の無心をしたり、所属している劇場でお局様になったりしたのですが、黙認されたようです。
こうしてエリーザベトは公務には出ないものの、世継ぎを産む、夫の精神を安らがせるという二つの仕事を、宮廷の外に居ながらにしてこなしたのでした。