皇太子の誕生
1858年8月21日、皇妃エリーザベトはついに念願の男児、皇太子ルドルフを出産しました。
これに姑のゾフィー大公妃は大喜び。
早速いつもの通りエリーザベトから大事な世継ぎを取り上げ、ゾフィー大公妃直々の帝王教育が施されます。
これで姑や宮廷からの「ハプスブルク家の世継ぎを産め」というプレッシャーから解放され、さらに息子を出産したことから、ようやく宮廷にも一定の居場所を確保することができました。
しかし宮廷ではゾフィー大公妃が権勢を誇ったままでした。
さて、この頃エリーザベトは恋人とも噂されていた、ハンガリー貴族のアンドラーシ伯爵を首相に任命することを夫の皇帝に提案してたりします。
これは帝国内でハンガリーの独立運動が激しさを増していたので、穏健的なハンガリー自治論者であるアンドラーシを抜擢して妥協しようという試みだったのですが、この提案はもちろん保守的な皇帝に却下されました。
エリーザベトの精神がついに限界へ
息子を産んだとはいえ、相変わらず宮廷では鼻つまみ者のエリーザベト。
さらに夫である皇帝フランツ・ヨーゼフが不倫しているという噂まで流れてきました。
こうした諸々の事情から、エリーザベトはついに1860年、精神的な理由から咳が止まらなくなりました。
エリーザベトを診察した侍医は、彼女にウィーンから離れ、療養することを勧めます。
こうしてエリーザベトは療養のため、マデイラ諸島に出かけました。
普通の王侯貴族ならば、華やかな都ウィーンから離れ、こんな僻地に行ってしまえば逆に精神的に参ってしまうでしょう。
しかし、宮廷での鬱鬱とした暮らしに飽き飽きしていたエリーザベトは、開放感あふれるこのマデイラ諸島での暮らしに自由を感じました。
こうしてエリーザベトの容態はグングン良くなり、ウィーンに戻ります。
するとどうでしょう! ウィーンに戻って4日で、再び咳が止まらなくなってしまったのです!
というわけで、ウィーンに居るとストレスで死んでしまうので、ここからエリーザベトは生涯公務を病欠でほぼ全て放り出し、自らをカモメと称してヨーロッパ各地を自由に旅し続けることとなります。
こうしたオーストリア皇后の公務の放棄は、もちろんウィーンの市民からの理解を得られることなど無く、市民たちの軽蔑の的となりました。
そして「皇妃エリーザベトはカイザーリン(皇后)と言うよりも、ライザーリン(旅人)だな」などとジョークを飛ばされるまでになります。
しかしそんな批判をされても、エリーザベトはウィーンに戻る気などありませんでした。
このままウィーンに居続けてしまうと、ストレスでどうにかなってしまいそうだったからです。
エリーザベトにとって、ウィーンの宮廷なんて華やかしいものではなく、自分を縛る「金ぴかの刑務所」でしかなかったわけですね。
幸いにもエリーザベトの旅の資金は、嫁姑問題を解決できなかった負い目があるからか、夫の皇帝フランツ・ヨーゼフが出してくれました。
ただ、この資金を使って豪華に女中たちを連れてあちこち公務を放棄して旅行する皇后エリーザベトに、市民たちはさらに批判を強めます。
ただ、公務は全て欠席していたかというと、そうでもありません。
重要な公務の時は我慢してオーストリアに戻ってきていましたし、戦争の時なんかは負傷兵の手当てなんかを行い、「あのサボり魔の皇妃が手当をするとは!」なんて驚かれたりもしました。(不良がたまに良い事をすると、良い人に見えるやつみたいですね)
皇太子への教育
さて、そんなこんなで首都ウィーンから離れがちになったエリーザベト。
この間、大切な世継ぎである皇太子ルドルフの帝王教育は、ゾフィー大公妃によって行われていました。
ゾフィー大公妃は皇帝フランツ・ヨーゼフと相談し、この皇太子を立派な軍人として育て上げようとし、6歳で大佐に任命。
そしてガチガチの軍国主義者であるゴンドレクール将軍を皇太子の教育係として就けました。
彼の教育方針は軍隊の訓練同様、皇太子にも容赦せずに非常にスパルタ方式であり、まだ子供のルドルフに夜間行軍させたり、冷たい水をぶっかけたり、ピストルを目覚まし代わりにしたりするなどの教育を行いました。
こうした厳しい軍隊教育は、母エリーザベトに似て繊細な心を持つ皇太子ルドルフにとって、とてもストレスを与えるものでした。そもそもルドルフは精神的に不安定なヴィッテルスバッハ家の血を引いているわけですから、そうなるのもある意味必然と言えるかもしれません。
そして段々と皇太子の様子がおかしくなっていきます。
肝心の母エリーザベトは旅をしていてウィーンに居ないので、皇太子の様子がおかしくなっていることなど分かりません。
しかし母は遠く離れた旅の地から、息子である皇太子の様子がおかしい事を知りました。
何故そんなことができたのか?
ゴンドレクール将軍の部下であるラトゥールが、皇妃エリーザベトに皇太子の様子がおかしいことをチクったからです。
その事を手紙を通じて知ったエリーザベトは、時代遅れの軍国主義的教育をするゴンドレクール将軍を罷免。そして、このことを自分に知らせてくれたラトゥールを公認の皇太子教育係として任命しました。
このラトゥールはゴンドレクール将軍とは打って変わって、皇太子ルドルフに文化的で、自由主義的な教育を施しました。
こうして皇太子は元気を取り戻し、教育通りに自由主義的な思想を持って育っていきます。
しかし、この皇太子ルドルフの自由主義的思想と母譲りの繊細な心が、後にさらに悲劇をもたらすことになるのです。
この一件のことで、皇太子ルドルフは母のエリーザベトに生涯感謝することになりますが、エリーザベトは旅をしていてウィーンにほとんどいないので、ルドルフは母の愛に飢えて育ちます。
そのためルドルフは、後に産まれる三女マリー・ヴァレリーがいつも母親と共に旅をしていることに嫉妬してたりします。
それにたくさん愛人をつくるプレイボーイに成長するのですが、これも母の愛に飢えていた影響かもしれませんね。
ちなみにこの問題によって、ゾフィー大公妃は孫のルドルフの教育から手を引くこととなり、続く1867年に起こった愛息子のマクシミリアンがメキシコで処刑されたことに意気消沈し、政治の舞台から引退しました。
このマクシミリアンは、ゾフィー大公妃とナポレオン2世との間の不倫でできた子供だという噂もありましたが、真偽は不明です。
普墺戦争勃発
さて、当時ドイツは統一された国家ではなく、小さな領邦が集まってできた集合体でした。日本の戦国時代みたいなもんです。
しかしドイツ人たちの間でも、ナショナリズムの機運が高まり、「もうそろそろ国家統一しても良いんじゃね?」みたいな雰囲気になりました。
そのドイツは、これまで何世紀もの間ハプスブルク家を盟主として、ゆるい結合を保っていました。
しかし、ハプスブルク家率いるオーストリア帝国内には、ドイツ人だけではなく様々な民族も居ます。というわけでオーストリアを含めてドイツを統一してしまえば、とてもややこしいことになりますね。
というわけでドイツ序列ナンバー2のプロイセンが、「オーストリアを除け者にして、ドイツを統一しよう!」と頑張っていました。
こんなことをドイツの盟主であるオーストリアが許すわけありませんよね。
というわけでドイツの盟主の座を巡り、オーストリアとプロイセンが戦争しました。これが普墺戦争です。
この普墺戦争、オーストリア側につく国とプロイセン側につく国とで、ドイツを二分する戦争になったのですが、当時のプロイセンには外交の天才ビスマルクと、戦略の天才・大モルトケがいたチート状態でした。
ドイツという国は、四方に山脈などの天然の要害が無いため、四方八方から攻められやすい土地柄で、多正面作戦を強いられやすいのですが、ビスマルクは外交を駆使して周りの国の介入を防ぎ、軍部にオーストリアとの戦争に集中させることに成功しました。
そのおかげで戦略の天才、大モルトケはオーストリア帝国軍の戦いのみに全力を投じることが出来たのです。
しかもプロイセン軍はこの時、新式の後装式のドライゼ銃を装備していました。
これの何が凄いのかと言うと、オーストリア帝国軍が旧式の銃で、日本で戦国時代で使われていた銃のように、銃を装填する時に銃口から弾薬を入れなければならないので立ったまま装填しなければならないのに対し、プロイセン軍は現代の小銃のように伏せて遮蔽物に隠れながら射撃することができるのです。
このようなチート状態だったプロイセンに、古臭いオーストリア帝国が勝てるわけがありません。
ですので、オーストリア帝国はボコボコにされました。
あまりにもボコボコにできたため、プロイセン国王と軍参謀本部は調子に乗って、オーストリア帝国の首都ウィーンに盛大に入城してやろうと考えていたほどです。
でも、これは外交の天才ビスマルクによって止められました。
その理由は、この戦争に勝ち、オーストリアを締め出してドイツを統一することになった時に、フランスと戦わなければならないからです。
上の地図をよく見てください。
プロイセンがドイツを統一してしまうと、フランスのお隣にドイツという大国ができあがってしまうのです。
今までは小国の集まりだったドイツが、統一されてしまうと、フランスとしては安全保障上こわい思いをしてしまいます。事実第1次世界大戦、第2次世界大戦とフランスとドイツは死闘を繰り広げましたよね。
というわけで、オーストリアを倒した後、フランスとも戦争となるわけです。
その時、フランスと戦っている最中にオーストリアに背後から攻撃されれば、国を挟み撃ちされる形で二正面作戦を強いられてしまうわけです。
こんな状況になったら敗北は必至です、というわけでオーストリアはボコボコにしてやりましたが、戦争が終わった後は仲良くしておかなければならないのです。
このようにビスマルクは、戦争が終わった後のことを、先の先のことを考えていたわけです。このようにヨーロッパは陸続きで外交が複雑になることから、欧州情勢は複雑怪奇と呼ばれたりしますね。それを考えると日本は周りを海に囲まれた島国なので攻められる恐れが少なく、外交は大陸国より楽なのです。
ちなみに実際にプロイセンとフランスの戦争(普仏戦争)は起こり、オーストリアは中立を保ちました。
しかしフランスを倒せたときは、プロイセンは調子に乗って歴史あるヴェルサイユ宮殿の鏡の間でドイツ統一を宣言して、ドイツはフランスから多大な恨みを買うこととなるんですけどね。
さて、プロイセンにとっては栄光の時でしたが、オーストリアからしてみれば、ボコボコにされて盟主だったドイツから蹴り出され、メンツ丸つぶれです。
フランツ・ヨーゼフが皇帝になってから、ドイツからは追い出されるわ、ロシアとの外交関係は悪化するわ、戦争は連戦連敗だわで、帝国内の民からの不満が噴出します。
すると、「こんな情けない国、もうやってらんねえなあ!」と今まで支配していた諸民族の独立運動がさらに活発化します。
というわけで、今までオーストリアではドイツ人が支配者層で、その下に諸民族を統治していましたが、そんな統治体系ではもう通用しなくなっていました。
そこで、様々な案が出されることとなります。
諸民族を同格に扱う連邦制に移行することや、ボヘミアのチェコ人たちと組んで諸民族を共に統治すること、そしてハンガリーのマジャール人と組むことです。
ここでハンガリー贔屓の皇后エリーザベトの出番が来るわけです。