オーストリア帝国皇妃エリーザベト part2

子供の養育権を姑に取られる

皇妃エリーザベト

 

オーストリア帝国の若き皇帝フランツ・ヨーゼフと結婚した、エリーザベト。

この頃のファーストレディとしての最大の仕事は、世継ぎをつくることでした。

 

夫であり皇帝フランツ・ヨーゼフ

 

さすがに姉ヘレーネを押しやって、無理やり妹のエリーザベトと結婚しただけあって、夜の方では上手い事いったみたいで、すぐに子供が出来ます。

しかしこの子供はすぐに姑であるゾフィー大公妃に取り上げられ、彼女直々に教育が施されることとなります。

ゾフィー大公妃

 

というのも、無教養なエリーザベトに大切な子供の教育なんか任せてられない、ってことだったんですね。

一応言っておくと、権力を持つ女性が、母親から生まれた世継ぎを取り上げて直々に教育を施すのは、ヨーロッパの宮廷では良くあることです。日本でも乳母とか居ましたしね。

しかし、エリーザベトは実の母であるのに、子供に会うためにもわざわざ姑のゾフィー大公妃の許しを得なければなりませんでした。

まあ政略結婚の宿命というものです。

 

エリーザベトは生涯で4人の子供をもうけますが、その中でエリーザベト自身の手で育てられたのは三女のマリー・ヴァレリーだけです。

マリー・ヴァレリー

 

マリー・ヴァレリーの養育権が手に入ったのも結構複雑な事情があるのですが、それは後述することとしましょう。

 

唯一自身の手で育てられるのが余程嬉しかったのか、エリーザベトは公務を放り出してヨーロッパ中を旅するようになった時、その旅にマリー・ヴァレリーを連れて行くほど溺愛しました。

反面、他の子供たちは憎き姑のゾフィー大公妃に養育権を取り上げられてしまったため、愛着が持てなかったのか、それほど愛情を持つことが出来ませんでした。

 

対立していく嫁と姑

さて、生まれた子供は第1子、第2子ともに女児でした。

この時代は、やはり王家の存続のためには男児が必要です。そのため、「公務をサボる上に、世継ぎすら産めないのか」と宮廷の貴族たちから、さらに白い目で見られることとなりました。

 

さらにエリーザベトが自由主義寄りな思想を持っていたのも、問題視されました。

この頃、オーストリア帝国では支配する諸民族の独立運動が活発に行われていました。

ハンガリー革命

 

そんな時、自由主義寄りで諸民族に同情的な立場を取る皇妃エリーザベトの思想が、皇帝に移ってしまうと大変です。

というわけでエリーザベトと皇帝の接触は世継ぎをつくる時の夜のベッドの上だけで、極力エリーザベトと皇帝を接触させないように配慮されました。

 

一が万事こんな感じだったので、皇帝家の嫁姑の仲は最悪となります。

「政治に干渉せずに、さっさとお前の唯一の仕事である世継ぎの男児を埋め。さもなくばお前は外国人だ!」なんて中傷ビラを撒かれたりもしました。ご丁寧にもエリーザベトの目に入るように、わざわざエリーザベトの机の上に置いてあったり。

こういったビラを撒いたのは、証拠はありませんが、おそらくゾフィー大公妃だと言われています。

 

こうやって上の者がイジメをしていたら、その取り巻きがイジメに加担するのはどこの世界でも同じで、これを見て宮廷の貴族たちもエリーザベトの嫁イビリに参加しました。

宮廷とはかくも恐ろしい・・・。

 

遠くバイエルンの田舎から華やかなウィーン宮廷にまで嫁入りしてきたのに、皇帝からは引き放され、周りのものは敵ばかり。

こうした状況下で、まだ20歳そこそこのエリーザベトは精神を病み、休みがちだった公務をほぼ全て欠席するまでに追い込まれました。

 

姑の天敵、マジャール人に接近

 

しかし、エリーザベトも黙ってやられていたわけではありません。

 

この時代、オーストリア帝国を支配していたのはドイツ人で、諸民族はその下で統治されていました。しかし、ゾフィー大公妃率いる貴族たちは、諸民族の中でもボヘミアのチェコ人を贔屓していました。

そんなゾフィー大公妃が一番嫌いだったのは、強引に帝国からの独立自治を目指すハンガリーのマジャール人です。

 

しかし敵の敵は味方とはよく言ったもので、憎き姑が嫌いなマジャール人、そんな彼らにエリーザベトは接近していきます。

マジャール人は遊牧騎馬民族だったということもあり、エリーザベトは乗馬が趣味という共通点があって、そんな彼らに惹かれていったのです。ちなみに宮廷では「女が乗馬などはしたない」とか言われました。

乗馬をするエリーザベト(女性なのでおしとやかに乗らなければならず、股を開かずに横乗りしている)

 

昔は遊牧騎馬民族だったかもしれないけど、今は定住してるんだから関係無いんじゃない? と思われる方がいるかもしれませんが、民族の誇りというのはルーツにあるものです。日本でも未だに武士道とかが恰好良いとされてますしね。

ちなみにハンガリーの国王の戴冠式は馬に乗って四方に剣を掲げ、この剣でハンガリーの民族を守る、という意思表示をするものです。これはハプスブルク=ロートリンゲン家の祖、マリア・テレジアも四面楚歌であった時にハンガリーの女王として戴冠した時に行ったことでも有名ですね。

マリア・テレジアの戴冠

 

とまあ以上のような理由からエリーザベトはハンガリー贔屓となります。

こうして、姑のゾフィー大公妃率いるボヘミアのチェコ人派と、皇妃エリーザベト率いるハンガリー派に宮廷は分かれてしまいました。(まあでもゾフィー大公妃の方がめちゃくちゃ強いのは変わりません)

皇帝からしてみたら「大変な時期なのに、やめてくれよ・・・」って感じでしょうね。

 

こうして皇妃は、立場上本来ならば抑圧しなければならないハンガリーの民族独立運動もサポートしていくようになり、宮廷からしたら半ば謀反人のような状況になってしまいます。

しかしエリーザベトが行ったハンガリーの自治獲得運動は穏健的なものであり、ハンガリーが強行的に独立する不満のガス抜きを上手くしたという部分もあるんじゃないでしょうか。

 

そしてゾフィー大公妃に無理やりつけられていた貴族の女官たちを、すべてお払い箱にして、自身の女官を全てマジャール人で固めました。

 

さて、この頃の帝国ではマジャール人だけではなく、諸民族が自治を獲得するために様々な運動を行っていましたので、それを慰撫するため、皇帝夫妻が帝国内の各地を巡幸していました。

エリーザベトは陰湿な姑のゾフィー大公妃と貴族たちが居る宮廷から出て自由な外に出ることが出来、久々に羽を伸ばすことが出来てリフレッシュします。

そんな各地への楽しい旅がハンガリーに差し掛かった時、エリーザベトはゾフィー大公妃の反対を押し切って二人の娘を連れて行きました。

 

するとどうでしょう、娘の二人が病気にかかってしまい、下の子であるギーゼラは助かりましたが、長女ゾフィーが亡くなってしまったのです。

ゾフィー

 

こうしたこともあって、ゾフィー大公妃からは責められ、エリーザベトはまた精神的に不調をきたしてしまいます。

この頃から、この時も負い目もあってか二女ギーゼラの育児は全てゾフィー大公妃に任せ、ほぼノータッチな状態となります。ギーゼラもあまり母エリーザベトとは仲良くはなかったそうですね。

 

こうして旅も終わり、エリーザベトは再び陰鬱な宮廷に戻るわけです。

するとまたもや姑のイビりと取り巻きの貴族からの白い目が待っていました。

 

夫の皇帝は政務に忙しく、こんな恐ろしい嫁姑問題に介入できません。

 

エリーザベトの美への追求

 

そんな皇妃エリーザベトの心の支えになったもの、それは美の追求でした。

女性なら美しくありたいと思うことはあるでしょうが、しかしエリーザベトのそれは度を超えていました。

 

そもそも、「今度の妃は、あの堅物の皇帝フランツ・ヨーゼフが一目ぼれしたぐらい美しいらしいぞ!」と至るところで評判となっていました。

その評判に尾ひれが付き、ヨーロッパの宮廷一美しいとか言われるようになって、「美しくあらねばならない」と言ったようなエリーザベトへの無言のプレッシャーともなりました。

というわけで、エリーザベトの美への追求は半ば強迫的なものになったのです。

 

特にエリーザベトがこだわったのが体重で、身長が172cmに対し、体重は常に50kg以下をキープしました。というエピソードが脅威のダイエットと語り継がれていますが、今の基準で測るとBMI17より少し下となり、今では「あれ、このぐらいのダイエットなら結構やってる人もいるんじゃない?」とか言われる社会になってるのがちょっと歴史の隔たりを感じますね。

彼女の具体的なダイエット法は、とにかく食べ物をほとんど食べず、運動をたくさんすることでした。

特に運動は生涯ヒマさえ見つければ一日中行い、街や野山を女官を連れて競歩のような速さでウォーキングを行ったそうです。女官も大変ですね。

 

さらに彼女がこだわったのは髪の手入れで、手入れが上手い女中を雇って、一日3時間ぐらい手入れをさせていたそうです。

ちなみに、この頃は洗髪は多くても数週間に1回で、今の感覚からすると、手入れする前に髪を洗った方が良いんじゃ・・・とか思っちゃいますね。

 

こうした皇妃エリーザベトの過酷な運動や拒食症にも似た小食、さらに髪の手入れへの熱情ですが、ウィーンの貴族たちからすれば、「こいつ・・・気でも触れたのではないか・・・?」と感じさせてしまい、ますます異端視されて、迫害を受けてしまうのでした。

 

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