誕生
エリーザベト(愛称はシシィ)は1837年12月24日、バイエルンの王家であるヴィッテルスバッハ家の傍系に生まれました。
当時ドイツは統一されておらず、日本でいう戦国時代のようなものだったのですが(そこまで血なまぐさくはありませんが)、その中のバイエルン王国の王家の生まれということですね。
このヴィッテルスバッハ家の人間は奇人・変人が多い事で有名で、エリーザベトの父親も中々の変人でした。
どう変かと言うと、家族でバイエルンの片田舎に引きこもって、公務もせずに旅や狩り、馬の曲乗りなどをして楽しんでいたのですね。
しかし気取っているかというとそうでもなく、平民とも分け隔てなく接して、自分のやりたいこと・楽しいことをやるという家風でした。このような家庭で生まれ育ったため、エリーザベトは自由奔放で、身分の貴賤をあまり気にしないような娘に育ちます。
そしてエリーザベトの生涯を知っている方からすれば意外に思われるかもしれませんが、結構内気な性格だったようです。
しかしこの自由闊達さと貴賤を問わずに親しむ性向が、後にエリーザベトを苦しめることになります。
さて、エリーザベトは王族の末席と言えど、遊び惚けることができるわけでもなく、勉学に励まなければなりません。
この時代、王族貴族たちは何か国語も話せて当たり前(外交や嫁入り時に外国語を喋れた方が良いため、外国に政略結婚で嫁入りするのとか当たり前ですからね)、さらに教養も身につけなければ、無教養で「恥ずかしい」思いをしてしまうのです。
しかしエリーザベトは勉強が嫌いでよくサボり、水泳や乗馬に夢中になっていたそうです。特に乗馬は生涯を通じての趣味となります。
社交界デビューのため、姉のお見合いについて行き、一目惚れされる
エリーザベト15歳の頃、若きオーストリア大帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフが妃探しをしていました。
このフランツ・ヨーゼフはハプスブルク家のお坊ちゃんです。
当時、オーストリア帝国は広大な領土に数々の諸民族を支配していました。
そんな家柄良し、23歳と若く、イケメン。こんな玉の輿の機会は滅多にありません。
各国のお姫様たちが、このフランツ・ヨーゼフとの縁談に身を乗り出しました。
フランツ・ヨーゼフのお見合い相手は、始めはプロイセンの王家であるホーエンツォレルン家の王女、マリア・アンナが候補に挙がっていました。
プロイセン王国と言えば、ドイツの中でオーストリア帝国と1、2を争う覇権国家です。
このプロイセンの姫とオーストリアの若き皇帝をくっつけて、プロイセンとオーストリアで仲良くしようじゃないか、という動きにしようとしていたのですね。
しかしプロイセンはドイツの盟主になる野望を捨てきれずに、この縁談を断ります。
まあオーストリアを統べるハプスブルク家は熱心なカトリック信仰に対し、プロイセンはプロテスタント系っぽいので宗教が合わないのも影響しました。
この時代、王家の結婚では宗教はものすごく大事で、王族が結婚相手を探す時は、同じ王家という家柄で、同じ宗教を信仰していることがマストな条件でした。よく物語なんかで「平民の娘が王子様に一目ぼれされてお姫様になる」とかいう話がありますが、基本的に西ヨーロッパでは身分階層が隔たっており、そんなことは起こりません。王の愛人ぐらいにならなれますけど、それでも貴族からイジメが激しかったようです。
アジアでは平民の娘が殿様に召し上げられてお局さまになるとか結構ありますけど、ヨーロッパはその辺の身分差による結婚観がガチガチだったのですね。これは結婚相手が王族ならば、もし嫁の実家の家系が途絶えた時に、その子孫が「自分は貴方の国の王家の血を引いているので、相続する権利がある!」と主張できるからです。
さて、このお見合いの話が流れて、皇帝フランツ・ヨーゼフの母親であるゾフィー大公妃はどうしたもんかと考えます。
「そうだ、プロイセンがダメなら、バイエルンの王家であるヴィッテルスバッハ家から嫁を貰おう!」
ちなみにこのゾフィー大公妃もエリーザベトと同じくバイエルン王国の王家、ヴィッテルスバッハ家の出身です。
先にも言ったように、王族で、カトリック信仰の家と言ったら、ヴィッテルスバッハ家ぐらいしか手頃の娘を用意できなかったのですね。
ちなみにエリーザベトの母親の姉ですから、血縁的に叔母さんです。
こうして若き皇帝フランツ・ヨーゼフのお見合い相手となったのは、エリーザベトでは無く、その姉のヘレーネでした。
しかし、このヘレーネと皇帝フランツ・ヨーゼフのお見合いついでに、社交界デビューをさせてやろうと、ヘレーネの妹のエリーザベトを母親が連れて行ったのですね。
これが歴史を変えました。
姉ヘレーネのお見合い会場について行った妹エリーザベト。
皇帝フランツ・ヨーゼフはこの時、美しいエリーザベトに一目ぼれしてしまったのです。
彼は姉ヘレーネをそっちのけで、妹のエリーザベトとの会話・ダンスに夢中になります。
これに焦ったのはゾフィー大公妃。
ヘレーネを息子のフランツ・ヨーゼフに猛プッシュするも、肝心の息子は妹のエリーザベトに夢中になって言う事を聞きません。
ゾフィー大公妃としては真面目なヘレーネの方が結婚相手として安牌だと思って何回も息子を説得したのですが、その息子は「私はエリーザベトとではないと結婚しない!」とまで言う始末。
実はフランツ・ヨーゼフは子供のころから母親のゾフィー大公妃の厳しい教育を受けて、母に逆らうことなどほとんど無かったのですが、この時ばかりは信念を曲げませんでした。
ゾフィー大公妃も、「まあ息子がこれだけ惚れたのなら、しょうがないか」と諦めました。
ぶっちゃけて言えば、王家の結婚で一番大事なのは世継ぎを生むことで、同じ王族で同じ宗教の姫ならば、姉でも妹でもどちらでも構わないですからね。一番重要なのは「蒼き血」を残すことなのです。
というわけでオーストリア帝国皇帝フランツ・ヨーゼフとエリーザベトとの婚約が成立。
姉ヘレーネが可哀そうだと思われましたか?
大丈夫です、ヘレーネは妹に結婚相手を横取りされ、精神的に不安定になりましたが、同じヴィッテルスバッハ家の姉妹の中で唯一家庭円満で幸せになったのはヘレーネだけなのです。運命とはなんと残酷な物か。
さて、オーストリア帝国に嫁入りするとなると、身につけなければならないのが「教養」です。
勉強はなんのためにするの? とよく言われますが、玉の輿するなら最低限の教養は必要なのですね。
そこでエリーザベトも、婚約から結婚までの8か月間の間に、付け焼刃で一般教養や礼儀作法などを身に着けようとしました。
しかし、そんな短い期間で教養などが身に着くわけもなく、この無教養さが後に姑の大公妃ゾフィーとの確執の原因となってしまいます。
そうして1854年にオーストリア帝国皇帝フランツ・ヨーゼフと、16歳の花嫁エリーザベトが結婚。
エリーザベトは晴れてオーストリア大帝国の皇后となるのでした。
結婚生活
エリーザベトが嫁入りしてから、最初は姑である大公妃ゾフィーとの仲もそれほど悪くはありませんでした。
しかし、オーストリアの宮廷と言えば、何世紀にも渡って歴史のある、誇り高い場所です。そんな所に田舎者で無教養のエリーザベトが入って来て、馴染めるわけがありません。
さらにエリーザベトは王家の末席とは言え、貧乏で嫁入り道具もロクに持ってこられませんでした。というのもまだ15、16そこそこで元々嫁入り支度をしてなかったのもあります。姉ヘレーネが結婚すると思っていて、そっちの方にお金を集中させていましたからね。
それじゃあその道具を流用すれば良いじゃん、と思われるかもしれませんが、王族貴族は一点ものを使うのがデフォルトで、他人のおさがりなんて使ったらプークスクス笑われるんですね。
だから皇帝フランツ・ヨーゼフの金銭的援助もあったものの、ロクな嫁入り道具を持ってこられなかったのです。
これを見て他国の王族よりもよっぽと金持ちのオーストリア帝国の宮廷貴族からプークスクス笑われることになります。貴族社会って見栄の張り合いで大変ですね。
しかも、皇帝の弟のマクシミリアンがベルギーの王女シャルロッテと結婚したとき、シャルロッテが豪華な嫁入り道具を持ってきたのと比べられて、さらにエリーザベトの肩身を狭くさせました。
このシャルロッテ、教養もあり、野心にも満ち溢れ、義姉であるエリーザベトとバチバチの宮廷バトルを繰り広げます。といっても、貴族たちは教養があり気品たっぷりで金持ちのシャルロッテの味方で、ほぼイジメのような状態でした。
自分の方が何につけ優れていると思っているのに、オーストリア帝国の皇后という座は無教養で貧乏でよく公務をサボるエリーザベトに取られているわけですから、仲が良くないのも当たり前ですね。
でもこのシャルロッテは後に精神錯乱して幽閉されます。人生何が起こるか分かりませんね。
姑との確執
さて、こうしてオーストリア帝国の皇后となったものの、金銭的に釣り合わない結婚をして陰口をたたかれ、さらに無教養さをにじみ出してしまったエリーザベト。
そんな皇妃エリーザベトを見て、姑のゾフィー大公妃は苛立ちを隠し切れません。
この頃、ゾフィー大公妃はオーストリア宮廷を牛耳っており、「ホーフブルク宮殿唯一の男」と呼ばれていたぐらいの権勢を誇っていました。
その権力は息子であるオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフだけではなく、夫でさえ及びませんでした。というのも皇位継承順位からすると夫の方が息子よりも先に皇帝になれたはずなのに、「夫にそんな能力は無い」と弱冠18歳の息子に帝位を回したぐらいですからね。
そういった宮廷随一の権力を持つ姑に、嫁入りしたばかりのエリーザベトが逆らえるわけがありません。
でもそんな完璧主義のゾフィー大公妃から見たエリーザベトは、このオーストリア帝国の皇妃としてふさわしくない程の無教養さだったのです。
そこでゾフィー大公妃は皇妃エリーザベトのお付きの女官を大公妃派で固めたりして、逐一エリーザベトの動向を報告させました。というわけでエリーザベトは皇妃となったから楽しい生活ができるわけもなく、姑のゾフィー大公妃の厳しい教育が待っていました。玉の輿も大変ですね。
こう言ったオーストリア帝国の皇妃として相応しくなれるような教育を嫁に施したわけですが、真面目な姉ヘレーネならいざ知らず、自由奔放で勉強嫌いなエリーザベトにとってはかなり苦痛だったそうです。
そしてこんな窮屈な暮らしに心労が募り、遂には公務を欠席するようになります。
そうするとゾフィー大公妃は、「なぜ皇妃としての仕事すら、一人前にできないのか」と憤ります。それに宮廷の貴族たちが乗っかかって、田舎からやってきたエリーザベトをヒソヒソと笑うわけです。
こうしてエリーザベトが体調を損ねる→ゾフィー大公妃が辛く当たる→宮廷の貴族たちからイジメられるという負のループができあがりました。
さて、こんな周りが敵だらけで唯一頼れるのは、一目ぼれした夫の皇帝フランツ・ヨーゼフぐらいです。もちろん彼も嫁と姑の確執に気づいていました。
しかし、フランツ・ヨーゼフは小さいころから厳しく躾けられ(結婚時は母に逆らって押し通したのに・・・)、母ゾフィー大公妃に逆らえなかったうえ、この頃は帝国内で諸民族の独立運動が活発に行われていたため、そんな嫁姑問題に構っている暇などありませんでした。
しかもオーストリア帝国の隣ではロシアによるクリミア戦争の外交問題が出て来たり、支配していたイタリアの地域ではイタリア独立戦争が行われ、政治経験に薄い皇帝からしてみれば、「嫁姑問題ぐらい、自分らで解決してくれよ・・・」って所が本音だったでしょうね。
特に第二次イタリア独立戦争の時なんかは、皇帝フランツ・ヨーゼフ自ら親征を行った程です。
こうやって夫は仕事に忙しいので、嫁姑問題に下手に介入なんてしてられないわけですね。特にゾフィー大公妃なんかは宮廷を牛耳ってるわけですから政治的な問題で下手に追い出せないですし。でも、妻のエリーザベトは美人だし・・・(自分の執務室に嫁の肖像画を飾るほどベタ惚れだった)うーん選べない、みたいな。
まあそんな嫁姑問題を放って政務にかまけたクリミア戦争の外交処理もイタリア独立戦争の対処も、全部失敗に終わってしまうんですけどね。皇帝も辛いよ。
しかし、そんな唯一人の味方でもある皇帝フランツ・ヨーゼフが嫁姑問題に介入しないことから、宮廷を牛耳っていた姑のゾフィー大公妃のワンサイドゲームが始まり、エリーザベトが超イビられるようになったわけです。
こうしてエリーザベトの精神は疲弊していき、およそ皇妃として例を見ないような奇行に走らせていくことになるのでした。