概略
コロッセオはイタリア・ローマの中心地にある、長径189m、短径156m、高さ45mで世界最大の円形闘技場です。
ここは剣闘士(グラディエーター)たちの試合や、模擬海戦、ライオンやトラ、クマやゾウなど猛獣との試合や処刑、有名な戦史や神話の再現など、様々なローマ民衆の娯楽に使われました。
そのことからローマ帝国の象徴的なシンボルとされ、今でもイタリアの有名な観光名所となっています。
歴史
ネロ帝の時代
昔コロッセオがあった場所には、ネロ帝のドムス・アウレアという大宮殿が建っていました。
ネロは西暦64年に、ローマで起こった大火災であるローマ大火の後、ローマ中心地に大宮殿を建てました。
しかし大火災で元あった建物が綺麗さっぱりになったところに宮殿を建てたことから、ネロ帝が火を放ったのだという噂が囁かれるようになります。
このネロ帝が自殺に追い込まれた後、ローマは内戦の時代に入り、2年で4人も皇帝が代わるという4皇帝の時代になります。
この内乱を収めたウェスパシアヌス帝は、自身の血族であるフラウィウス朝を立てました。
フラウィウス朝の時代
ウェスパシアヌス帝は、無駄遣いと疑念の象徴であったネロの大宮殿を解体し、西暦70年頃からその跡地に円形闘技場を建て始めます。
この円形闘技場は、次代のティトゥス帝の治世下である西暦80年に完成しました。
闘技場完成時には、100日間にも及ぶセレモニーが開かれ、朝は猛獣との戦い、昼には犯罪者の処刑、午後には剣闘士の試合が行われました。
この100日間だけで、2000人もの剣闘士が命を落としたそうです。
ティトゥス帝の次代である、ドミティアヌス帝の時代にはさらにこの闘技場の拡張工事が行われ、円形闘技場をつくった3人の皇帝がフラウィウス朝の皇帝だったことから、この闘技場はフラウィウス円形闘技場と呼ばれました。
しかしこの円形闘技場の傍らには、元々ネロ帝の大宮殿があった名残である30メートルほどのネロの巨大銅像(コロッスス)が立っていたためか、いつのまにかフラウィウス円形闘技場ではなく、コロッセオと呼ばれるようになったのです。
「コロッセオが立つ限り、ローマも立つ。コロッセオが倒れれば、ローマも倒れる。ローマが倒れれば、世界も倒れる」という有名な言葉がありますが、これは元々闘技場(コロッセオ)のことではなく、このネロの巨大銅像(コロッスス)のことを言っていたのが変化したみたいですね。
ちなみにこのネロの巨大銅像は、その青銅を利用するために倒されてリサイクルされました。今でも台座だけは残ってます。
構造
このコロッセオは5~8万人を収容できるとされ、現代のスタジアムと同じような観客管理の技術が導入されています。
だから紀元1世紀の建物にも関わらず、大きな混雑も無しに観客の入退場が行えました。
席は前の座席から元老院議員、騎士階級、裕福なローマ市民、貧民・奴隷と、アリーナに近い前の方からローマで地位が高いとされていた者の席となっていました。前の方が試合が間近でよく見えますからね。
闘技場のアリーナの地下には通路があり、剣闘士や猛獣、背景の大道具などが収容されていて、そこから80機もあるエレベーターで素早く地下からアリーナへと出すことができました。
アリーナは地下通路の上に木製の床板が張られていて、その上に砂が撒かれて試合が行われました。
役割
ローマの政治家たちは、パンとサーカスによってローマ市民たちの歓心を捉え、政治への不満を抑えようとしていました。
そのためコロッセオの見世物の運営は、政治としてとても重要だったのです。
またキリスト教徒の迫害の場所としても使われ、キリスト教徒が猛獣に食われるところを見世物とし、ローマ市民が喝采を送ったと言われています。
このようにキリスト教徒の殉教の場所ともなっているため、聖地として扱われることもあります。
その後
このコロッセオは6世紀までは補修されたりして、使用された形跡があります。
しかしその後は誰も使わなくなって廃墟と化し、それどころか採石場として、コロッセオから石を取り出して他の建築物をつくるのに使われたりもしました。
その後は教皇たちによって19世紀から補修工事が行われるようになり、今では世界遺産となり、イタリアの重要な観光資源となっています。
最近では死刑制度反対の国際的な活動の場ともなっているそうです。