エカチェリーナ2世(大帝)part 5

フランス革命

エカチェリーナ最愛のポチョムキンが亡くなり、オスマン帝国との戦争も終わり、一段落して諸外国を見渡して見ると、フランス革命が起こっていました。

バスティーユ襲撃

 

これにエカチェリーナは強い嫌悪感を示します。

エカチェリーナはその昔、フランスの啓蒙思想にかぶれていました。

しかし、ことここに至って、信奉していたフランスの啓蒙主義思想から離れ、「民主主義という伝染病」から祖国を守るため、自国ロシアでの検閲を強化します。

エカチェリーナ2世

 

まあでも、フランス革命も啓蒙思想から始まって、最終的に血で血を洗うマフィアの権力争いみたいになってしまいましたから、何が正解とかは無いですよね。

お題目さえ綺麗で大義名分があるなら、強力な統率者が居ない場合、歯止めが効かなくなって暴走しますし、フランス革命の嵐を終結させるために、カリスマのナポレオンとかが出てきたのは、ある意味必然とも言えるわけです。

ナポレオン

 

ポーランド分割

さて、この頃第2回ポーランド分割が行われています。

隣国のポーランド・リトアニア共和国では、民主的な憲法をつくろうとしていましたが、大貴族たちが反対して、ゴタゴタしていました。

ここで元愛人のポーランド国王スタニスワフが、エカチェリーナを裏切って立憲運動に参加し、とても民主的な憲法ができました。

5月3日憲法

 

この時ポーランドで決まった5月3日憲法は、国民主権、三権分立、農奴制の廃止、文民統制など、かなり先進的で民主的な憲法でした。

しかしエカチェリーナはこれに激怒します。

「国王にしてやった恩を忘れ、フランス革命にかぶれおって!民主主義という伝染病は駆逐しなければ!」」

 

ロシアは帝政ですし、孫のアレクサンドルを次期皇帝にしようとしていたんですし、民主主義とかなったら困りますよね。

そこでエカチェリーナは、ポーランド・リトアニア共和国内でこの憲法に反対していた大貴族たちと手を組みます。

ポーランドの大貴族たちは国内にロシア軍を受け入れ、内乱状態となります。

 

さて、なんでポーランドの大貴族は自分の国に他国の軍を入れてるのか気になる人もいると思います。

これは、民主的な憲法が成立すると、みんな平等になって、大貴族たちの特権が無くなるからです。

ちなみにこの時、ポーランドで組まれていた大貴族たちのタルゴヴィツァ連盟から、今でもポーランドでは「タルゴヴィツァの連中」と言えば「売国奴」を意味します。

絵画の処刑(本人が捕まらなかったので肖像画が処刑されるほど恨まれた)

 

この時、オーストリアはフランス革命軍と戦争の真っ最中でしたので、ポーランド分割のご相伴に預かれず、ロシアとプロイセンでポーランドを仲良く分けました。

 

ポーランド分割はポーランドの議会によって、民主的に議決されたのですが。

議決する時に議場の周りは、大砲でぐるっと取り囲まれていて、反論は許されなかったそうですね。

 

ポーランドの分け方ですが、ロシアもプロイセンもオーストリアも大国なので、隣り合うと厄介ですよね。地政学的に、隣り合う国はケンカしやすいですから。

というわけで、ポーランドは緩衝地帯として、ちょっとだけ残しておきました。

 

この大国の横暴に怒ったポーランドの愛国者たちが蜂起を起こします。

ラツワヴィツェの戦い

 

しかし、ロシア・プロイセン・オーストリア連合軍によって、反乱は鎮圧され、続く第3回ポーランド分割によって、哀れポーランドは全ての領土を奪われ、地図上から消えてしまうのでした。

ポーランドが復活するのは、第1次世界大戦後になります。

 

でもその後すぐに第2次世界大戦で、ドイツとソ連に分割されてしまいます。

ポーランドはその昔、ロシアの首都モスクワ占領も成し遂げたほどの列強だったんですけどね。

 

ちなみに国を失った元愛人かつ元ポーランド国王のスタニスワフは、女帝エカチェリーナの温情により、サンクトペテルブルクでロシアから年金をもらって、余生を暮らしました。

スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ

 

グスタフ4世の非礼

さて、フランス革命に対抗するため、ロシアは近くのスウェーデンと軍事同盟を結んでいました。

 

ただ、同盟だけではちょっと心配なので、スウェーデン国王グスタフ4世と、孫のアレクサンドラ・パヴロヴナを結婚させようと動いていました。

グスタフ4世

 

アレクサンドラ・パヴロヴナ

 

そこで1796年に、17歳のスウェーデン国王グスタフ4世がロシアへとやって来ました。

グスタフ4世と孫のアレクサンドラは結構良い雰囲気になって、「よし、結婚しよう!」となります。絵画で見る通り、可愛いですしね。実際美少女だったらしいです。

 

婚約当日、冬宮殿の玉座の間でエカチェリーナ含む皇族、貴族たちが集まりましたが、中々花婿のグスタフ4世が現れません。

実は、グスタフ4世とアレクサンドラの結婚契約書に、花嫁アレクサンドラの信教の自由が含まれてなかったのです。

 

グスタフ4世は、「アレクサンドラがロシア正教のまま嫁入りしてもOK」と同意していたはずなのですが、土壇場になって、「やっぱりプロテスタントのルター派に改宗しないとダメ」と言い出したのです。

 

不穏な雰囲気のまま、皇族・貴族たちは、そのまま4時間待たされ続けました。アレクサンドラなんて花嫁衣裳のまんま、婚約者を待ちっぱなしです。

この時、花嫁のアレクサンドラ13歳。

 

結局グスタフ4世は現れず、「体調が悪くなりました」と言ってドタキャンし、スウェーデンに帰っていきました。

この無礼なスウェーデン王のせいで、エカチェリーナの体調は悪化します。

 

最期

そしてその2か月後、1796年11月16日。

いつものように朝起きて、コーヒーを飲んで仕事を始め、トイレに行ったエカチェリーナですが、中々戻ってきません。

心配したメイドがトイレを覗くと、女帝エカチェリーナが便器に寄りかかって倒れていました。

 

彼女はすぐにベッドに運ばれ、侍医の手当てを受けましたが、どうすることもできずに、そのまま脳梗塞で亡くなりました。享年67歳。

エカチェリーナ2世の治世下で、ロシア帝国の領土は52万平方キロメートル増えました。これは今の日本の領土の1.5個分です。

 

さらにエカチェリーナ2世の私的な美術品のコレクションが、エルミタージュ美術館の元となります。

 

後継者

エカチェリーナは亡くなる直前に息子のパーヴェルを飛ばして、利口な孫のアレクサンドルに帝位を譲ろうとしていましたが間に合わず、その直前に突然亡くなってしまったので、息子パーヴェルに実権が移ってしまいます。

パーヴェル

 

パーヴェルはエカチェリーナの、「孫のアレクサンドルを帝位につける」という遺言を、燃やしたと言われていますね。

アレクサンドルも文句を言おうとすれば言えましたが、父のパーヴェルに逆らうことはしませんでした。

アレクサンドル

 

というのも、アレクサンドルはこの頃は自由主義的な思想を持っており、あまり帝位に興味が無かったのですね。

というわけで、パーヴェルはロシア皇帝に即位してパーヴェル1世となりました。

 

彼は母のエカチェリーナと仲が悪かったので、亡くなった両親であるエカチェリーナ2世とピョートル3世の棺を隣同士に置いて、うっ憤を晴らしました。

しかしそのパーヴェルも、在位4年ちょっとで暗殺され。

パーヴェルの暗殺

 

結局アレクサンドルがアレクサンドル1世として即位。

こうして、共和主義であるはずの国フランスの皇帝・ナポレオンと、専制君主であるはずのロシア帝国の自由主義的な皇帝・アレクサンドル1世が戦うこととなるのでした。

 

Part 4  目次

 

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