エカチェリーナ2世(大帝)part 3

ピョートルの処遇

ロシア皇帝に即位してすぐに、貴族・軍部・教会を敵に回してしまったピョートル3世。エカチェリーナはそんな夫に対し、軍や教会の支持のもとクーデターを起こし、在位6か月で失脚させたのでした。

クーデターですが、ピョートル3世はそれほど抵抗せずに観念したため、すんなりと終わりました。

ピョートル3世

 

エカテリーナはピョートル3世を、首都サンクトペテルブルク郊外のロプシャ宮にぶち込んで幽閉しておきます。

そしてピョートル3世の監視役には、側近のオルロフ兄弟の一人、アレクセイ・オルロフをつけておきました。

アレクセイ・オルロフ

 

ここでクーデターなのにピョートル3世の命を取らないのか? と疑問に思う人もいるかもしれません。でもあとで説明しますが、ロシアでは皇帝や皇位継承者を殺してしまうと、結構面倒なことになるんですよね。

しかしピョートル3世幽閉から一週間ほどすると、早馬が来て、エカチェリーナの元にとんでもない報告が来ます。

監視役のアレクセイ・オルロフが、ピョートルを殺したのです。

 

ピョートル暗殺

ピョートル3世の死亡の報はすぐにロシア中に伝わり、「エカチェリーナが暗殺したのだ」と噂されました。

ちなみに、エカチェリーナが出した暗殺指示の証拠は無いみたいですね。

この頃は監視役アレクセイ・オルロフの兄のグリゴリー・オルロフが、エカチェリーナの愛人でしたし、もしかしたらピョートル亡きあと、兄がエカチェリーナと再婚して、ロシア皇帝にさせ、オルロフ家の繁栄を夢見ていたのかもしれません。

グリゴリー・オルロフ

 

それに、どう考えてもエカチェリーナにとってピョートル3世は邪魔ですが、ロシアでは皇帝や皇位継承者を殺してしまうと、偽者が出てきてしまうという伝統があるのです。

実際、「俺がピョートル3世だ!実はエカチェリーナの魔の手から逃げ伸びていたんだ!」と、エカチェリーナの治世下で何人も偽ピョートル3世が現れます。

だから前皇帝を簡単に殺したら終わりってわけでもないのです。

前の女帝エリザヴェータイヴァン6世を玉座から蹴落としたときも、イヴァン6世を殺さずに幽閉したままにしておきましたからね。

イヴァン6世

 

幽閉していたら、本物が生きてるから、偽者が出てくる心配が無いですので。

まあその代わりイヴァン6世は、乳幼児の頃からずっと監禁生活送ってたんですけどね。

 

というわけで、アレクセイ・オルロフが出しゃばって暗殺したのか、カッとなったのか、それともエカチェリーナ自ら暗殺を命令したのか、というのは謎です。

でもエカチェリーナはアレクセイ・オルロフを罰しませんでした。このことから、「やっぱりエカチェリーナが殺したんだな」と思われて、心証が悪くなります。

 

しかし国際的に、腐ってもロシア皇帝だった男を「暗殺しました」なんて言えるわけが無いので、「ピョートル3世は持病の痔が悪化して、亡くなりました」と声明を出しました。

もうちょっとカッコいい死に方にしてあげれば良かったのに。

 

もちろんヨーロッパの各国は、誰もピョートル3世が持病の痔で死んだなんて信じませんでした。

クーデター1週間後に、タイミング良く痔で死ぬわけがないですよね。

 

エカチェリーナ2世の内政

さて、クーデターが成功した時点で、エカチェリーナはロシアの女帝エカチェリーナ2世として即位してたわけですが。支持基盤は弱く、ガタガタでした。

ピョートル3世がムカつくから、皇后のエカチェリーナがちょうど良い神輿として担がれたわけで、元々ヨソ者のドイツ人、しかも弱小貴族の出ですし。

それに、血統で言えば皇太子であるパーヴェルの方が正統性があるわけですし、エリザヴェータに幽閉されたまんま、まだ生きてるイヴァン6世とかもいました。

だから邪魔なピョートルが居なくなった今、貴族としては、わざわざドイツ人のエカチェリーナを皇帝として奉る必要性も無かったのですね。

 

だから落としどころとして、当初は息子である皇太子パーヴェルを皇帝にして、エカチェリーナは摂政となってはどうか?という案も出ていましたが。

パーヴェル

 

たとえ息子が相手だとしても、エカチェリーナは断固としてロシア皇帝の座を譲りませんでした。

ちなみに、奇しくも同じ名前で昔のロシア女帝であるエカチェリーナ1世も、奴隷からロシア皇帝に上り詰め、ロシア人で無い所も一緒なので、エカチェリーナって縁起が良い名前ですよね。

エカチェリーナ1世

 

というわけでロマノフの血を引く息子パーヴェルを差し置き、エカチェリーナは1762年10月3日に、モスクワのクレムリンで皇帝として戴冠しました。

エカチェリーナは、ここから死ぬまで34年間にも渡って、広大なロシア帝国を統治することとなります。

何の後ろ盾も無いどころか、ロシア人ですら無いドイツ人のエカチェリーナの統治が始まりました。

周りの貴族は、「何かヘマしやがったら、すぐに引きずり降ろしてやる」と手ぐすねを引いて、女帝の政治を見守っています。

 

エカチェリーナは政務に力を入れ、一日の執務は12時間以上。

朝早く起きて執務に励み、夜は愛人とのアヴァンチュールで英気を養いました。

 

よくエカチェリーナは啓蒙専制君主と言われますが、確かに思想は啓蒙主義的な思想でした。

だから統治開始当初は、啓蒙主義的な政治を行おうとしました・・・が。

よく考えたら、農奴の人権とか認めちゃったら、貴族が損しますよね。

貴族は農奴から搾取してますから。

 

貴族を敵に回したピョートル3世は、クーデターでああなったのをエカチェリーナは良く知ってます。

そんな恐ろしい貴族の既得権益を潰すような大胆な改革なんて、できるわけがありません。

エカチェリーナは理想と現実を良くわきまえていました。

 

というわけで、貴族寄りの政治を行います。自らを啓蒙専制君主とか自称してるのに、農奴制推進してたりします。

貴族敵に回したピョートル見てるわけですし、むしろピョートルよりも後ろ盾無いですしね。

 

この政治に農民たちは失望します。それに伴い農民の反乱が多くなります。

この時、ロシアお決まりの反乱の主導者たちが死んだ皇帝を僭称する、偽ピョートルがたくさん出てきました。

 

ピョートル3世は、ああ見えても啓蒙的な政治やってたわけですし、民衆からすれば、貴族にすり寄るエカチェリーナより、ピョートルの方が良君だったのでしょうね。政治って難しい。

 

第1回ポーランド分割

さて、この頃第1回ポーランド分割が行われます。

エカチェリーナは、ポーランド・リトアニア共和国の国王・アウグスト3世が死んだとき、元愛人のスタニスワフを国王にして、隣国ポーランドを影響下に置いていました。

スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ

 

もちろんガチガチの内政干渉ですが、この頃、ポーランド・リトアニア共和国では、王位は血統による世襲ではなく、国王自由選挙で国王を決めてたので、エカチェリーナは、有権者の貴族を金で買収したり、ロシア軍を送ったりして武力で脅し、元愛人を国王につけたんですね。

国王自由選挙

 

元愛人が国王になったポーランドは、ロシア帝国の保護国になっていたのですが、これに恐れを抱いたのはフリードリヒ大王率いるポーランドのお隣プロイセン。

そこでフリードリヒ大王は、自分のファンクラブの一員であるオーストリアのヨーゼフ2世と共に、「ポーランド一緒に分けね?」とロシアに言ってきました。

ヨーゼフ2世

 

エカチェリーナも、「じゃあ分けよっか」と返事し、ここに第1回ポーランド分割が行われたのです。

ポーランド分割

 

この時、オーストリアはマリア・テレジアとその息子ヨーゼフ2世共同統治を行っていたのですが、マリア・テレジアは風紀委員長みたいな人で、愛人をとっかえひっかえしてるエカチェリーナのことを嫌っていました。

しかし、その息子の神聖ローマ皇帝であるヨーゼフ2世は、「話が分かるやつだ」と、エカチェリーナと仲良しだったらしいです。

 

第1回ポーランド分割前の地図

 

第1回ポーランド分割後の地図

 

プガチョフの乱

国外では美味しいポーランドを食べたところで、国内ではプガチョフの乱で大変なことになっていました。

この反乱の首謀者プガチョフは、「自分はピョートル3世である」と僭称して、農奴制廃止を掲げて各地を荒らしまくっていました。

プガチョフの乱

 

この頃、ロシアはオスマン帝国と戦争中で、反乱の鎮圧に十分な軍を回すことが出来ず、さらに、オスマン帝国も裏で反乱軍に資金援助してたりしていたため、とんでもない大規模な反乱になっていました。

しかしオスマン帝国との戦争もひと段落つくと、ロシアの本軍が戻って来て反乱の鎮圧に成功し、プガチョフは捕まって、女帝エカチェリーナにより、寛大にもモスクワで打ち首のうえ、八つ裂きの刑という軽い刑に処せられました。

 

現代の感覚では残酷ですけど、この時代では国家転覆という大罪を図ったのに、斬首して死んだ後に、苦しまずに八つ裂きにされるんですから寛大です。

ルイ15世を暗殺しようとしたダミアンとか、散々拷問されて、生きたまま身体中を熱したやっとこで引き裂かれた後に、身体の穴に熱した油とか入れられて苦しみ抜いた後にトドメの八つ裂きですからね。

当時の基準で言えば、「さすが女帝エカチェリーナは、ルイ15世と違って啓蒙的だなあ」と言わなければならないですね。

プガチョフの最期

 

この農奴解放を謳ったプガチョフの乱によって、プガチョフの思いとは逆に、エカチェリーナの農奴に対する見解が悪化し、「ロシアでは農奴を自由にするのは、まだ時期尚早」と、農奴に対する締め付けがさらに厳しくなってしまうのでした。

 

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