世継ぎ
16歳にしてロシア帝国の皇太子ピョートルとの結婚を済ませたエカチェリーナ。
周りから期待される彼女の唯一にして最大の仕事は、後継者を産むことだけでした。
というのも、政治は女帝エリザヴェータが一手に握ってますし、入り込む余地がありません。
皇太子のピョートルですら、政治から遠ざけられていたほどですし、無闇に政治に近づいたプロイセンのスパイの母親ヨハンナは、すでにロシア宮廷から追放されていました。
というわけでロシアの独裁君主、女帝エリザヴェータがエカチェリーナに望んでいたこと、それは世継ぎを産むことだけだったのです。
しかし、エカチェリーナは結婚8年ぐらい処女のままでした。
夫ピョートルに性機能障害があったからです。
実はこれは、簡単な外科手術を受ければ治るものでした。
しかし、ピョートルはすぐには手術を受けなかったみたいですね。
同じ時代だと、マリー・アントワネットの夫のフランス国王・ルイ16世も何年も手術受けませんでした。王族からしたら、そんなに怖い手術だったんでしょうか?
というわけで、同じベッドで寝てるだけで子供ができるわけもなく。女帝エリザヴェータをヤキモキさせ、最終的にピョートルが手術を受けて、夜のお勤めができるころには夫婦仲も冷めきっており、夫婦両方に別の愛人がいました。
夫婦ともに愛人を持つ
エカチェリーナの愛人は、ロシア人貴族のセルゲイ・サルトゥイコフ伯爵。
ピョートルの愛人は、エリザヴェータ・ヴォロンツォヴァでした。
この愛人関係は半ば公然のものとなっており、女帝エリザヴェータも知っていました。
今の人からしたら、それってエカチェリーナがピョートルではなく愛人のセルゲイの子供を産んでしまうのではないか? と心配するでしょうけれど。エリザヴェータは気にしませんでした。
エカチェリーナの愛人のセルゲイもロマノフ家の血を引いてましたし、産まれてくる子供はロシア皇室のロマノフの血統ですからね。エリザヴェータは、「血統さえ正統であれば誰の子供でも良いんじゃね?」って考えだったそうです。
むしろ、エカチェリーナの愛人をあてがったのは、女帝エリザヴェータという話もあるぐらいです。ロシアすげえな。
男子パーヴェル誕生
そもそもピョートルに種無し疑惑もあったみたいですし、そういう背景もあったのかもしれません。
というわけで、夫が手術をして、一応夜のお勤めができるようになった頃にエカチェリーナは妊娠。
そして1754年、エカチェリーナ25歳の時、ようやく待望の男子・パーヴェルが誕生しました。
エカチェリーナが生んだ男子パーヴェルは、産後すぐにエカチェリーナから取り上げられ、女帝エリザヴェータの元で直々に帝王教育を施されます。
エカチェリーナは実の母親にも関わらず、パーヴェルの育児から完全に疎外されてしまいました。
待望の後継者誕生にロシア宮廷は沸き立ち、エカチェリーナは産後、ベッドでずっと放置されてたらしいですね。
こうして見ると、いくら皇太子妃と言っても、結局はヨソから来たドイツ人の嫁ですから、本当に後ろ盾無くて軽視されてるのが分かりますね。
さて、この男子パーヴェル。気になるのはピョートルの子供なのか、愛人セルゲイの子供なのか、という所だと思いますが、これはエカチェリーナ自身が後に、「愛人のセルゲイの息子だ」と断言しています。
しかしこのパーヴェル、顔がとてもピョートルに似ており、そしてプロイセンかぶれで、軍隊ごっこが好きな所もそっくりでした。
本当の所はどうか分かりませんが、このパーヴェルは母の手を離れて女帝エリザヴェータの教育を受けていたので、エカチェリーナと仲が良くなかったみたいなので、エカチェリーナがロシアの女帝になった時、息子パーヴェルの後継者としての正統性を下げるために、わざと「愛人の息子だ」と言ってたフシもありますね。
パーヴェルが正統であれば、生粋のドイツ人であるエカチェリーナを差し置いて、パーヴェルを神輿として担ぎ出してくるやつも出てきますから。
まあでもピョートルにしろ、愛人のセルゲイにしろ、どっちもロシア皇室のロマノフ家の女系の血が入ってるので、女帝エリザヴェータとしたら後継者が生まれただけで嬉しかったようです。
地盤を固める
さて、無事にロシア帝国の後継者を産み、役目を果たしたエカチェリーナ。
彼女は宮廷にて一定の支持基盤を築いていましたが、政治なんかは女帝エリザヴェータがやってるので関わることが出来ません。
そこでエカチェリーナはギリシアの古典や、当時流行していた啓蒙思想の本などを読み、来たる日のために独学で帝王学を学びました。
特にフランスの啓蒙思想がお気に入りだったようで、この後著名な啓蒙思想家のヴォルテールやディドロなどとも親交ができます。
さらに、自身の地盤を固めることも怠りませんでした。
ロシア人貴族ですら文字を読むこともできない者もたくさんいた当時、同じく啓蒙思想を敬愛していた進歩的なダーシュコワ夫人と仲良くなったり。
青年将校のオルロフ兄弟と仲良くなってます。
特にオルロフ兄弟の中のグリゴリー・オルロフはエカチェリーナの愛人で、このあとのクーデターで強力な味方になります。軍人を愛人にするところが上手いですね。
また、この辺りで後にポーランド・リトアニア共和国の王となるスタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキとも関係を持ち、子供まで産んでます。
皇太子妃なのに愛人が多すぎると思いましたか?
エカチェリーナはこれ以外にも数えきれないほど愛人を持っていますし、女帝になってからは公然とたくさんの愛人を持っています。
女帝になってからは、宮殿の中でイケメン集めて逆ハーレム築いてたみたいですしね。
まあ、この時点で周りに配れる権益なんて、後ろ盾の無いエカチェリーナには、ほとんど無かったですし、自分の体を武器にすることで、味方を増やしていった面もあるのでしょう。
しかし全部打算でやっていかというと、エカチェリーナは女帝となってからも愛人をたくさん囲っているので、完全に打算とは言い切れないですね。
孫のニコライ1世からは、「玉座の上の娼婦」とまで言われた女帝ですから、趣味と実益を兼ねてたんでしょうね。
エリザヴェータの死亡、夫ピョートルの即位
そうやって着々とロシアに地盤を固めていた時、1762年に女帝エリザヴェータが死亡します。
後継者はもちろん夫のピョートルで、ロシア帝国皇帝に即位してピョートル3世となりました。
当時ロシアは七年戦争に参加しており、ロシア・フランス・オーストリアで同盟を組み、プロイセンをボッコボコにしていました。
ちなみにこのロシア・フランス・オーストリアの同盟は、女性が主導して組まれたことから、3枚のペチコート作戦とかも言われます。
この七年戦争、あと一押しでプロイセンを打ち破って負かせる所まで追い込んでいたのですが、なんとピョートル3世は、死にかけのプロイセンと即時講和。それどころか、昨日まで敵だったプロイセンに援軍を送りました。
ピョートル3世は、プロイセン国王フリードリヒ大王の大ファンだったからです。
さらにロシア軍の制服を、この前まで敵だったプロイセン軍の制服にしました。
これも、ピョートル3世は、プロイセン国王フリードリヒ大王の大ファンだったからです。
こんなことをしていたので、もちろん軍部から不満が出ます。
さらにロシア語もマトモに話せず、ロシア正教をないがしろにし、愛人の家門のみを優遇するピョートル3世に、貴族からも不満が出ます。
さらにさらに、教会の領地を国有地化したりして、教会の既得権益を破壊。ロシア正教からも不満が出ます。
貴族と軍部と教会敵に回すとか、統治者として無理ゲーです。
ただ、思いつきでやる以外は、政治は有能な人に任せていたからか、意外と啓蒙主義的な政治をしていて、それほど悪い政治では無かったようですね。
でも、この時代の政治を動かすのは特権階級です。そして特権階級の貴族と軍部と教会を敵に回してしまえば、どれだけ良い政治を行ってもクーデターを起こされてしまいますね。
こうやって見ると既得権益を崩すのが、いかに難しいか分かりますね。
皇帝夫妻の対立の劇化
こんな状況で、ピョートル3世はエカチェリーナとの冷めきっていた夫婦関係を終わらせて、愛人のエリザヴェータ・ヴォロンツォヴァを皇后にしようと動き始めます。
今までは、こわーい女帝エリザヴェータが目を光らせてましたから、ピョートルも自由に動けませんでした。
しかしそんな女帝エリザヴェータも、もはやこの世には居ません。
ピョートル3世は、大公妃や皇族にしか与えないはずの聖エカテリーナ勲章を、愛人に与えました。
これはもう妻エカチェリーナを追い出すという宣戦布告のようなものです。これでエカチェリーナとピョートル3世の対立は必至になりました。
エカチェリーナとしては、ロシアにやって来てから苦節17年。ここで追い出されるか幽閉・処刑されてしまっては、今まで何のために苦労してきたのか分かりません。
そんなこんなで、エカチェリーナはロシアに来てから築いた人脈を使って集めた仲間たちと共に、着々と準備を整えていました。
そんな時、事件が起こります。1762年にプロイセンとの講和を祝って、パーティーが開かれました。
その席でピョートル3世が「フリードリヒ大王の健康を祝って」と乾杯の音頭を取った時、参加者がみな立ち上がった時に、エカチェリーナだけは立ち上がりませんでした。
ピョートル3世はこれにイラつき、公式晩餐会の席で、各国の貴族・君主が集まっているにも関わらず、一人座り込むエカチェリーナに向かって公然と「阿呆!!」と怒鳴りました。
これによってピョートル3世とエカチェリーナの対立は決定的になります。
そうして一触即発のムードの中、エカチェリーナの仲間の一人が逮捕されたという知らせが舞い込んできました。
もうここに至っては決心するしかありません。エカチェリーナはクーデターを決行しました。
クーデター
エカチェリーナはピョートルの決めたプロイセン軍の制服ではなく、伝統のロシア軍の軍服に身を包み、クーデターを指揮しました。
この時、愛人であった青年将校のグリゴリー・オルロフが中心となり、クーデターは順調に進みました。
貴族・軍部・教会を敵に回してしまっていたピョートル3世は、なすすべも無く在位6か月で失脚。
エカチェリーナは、「エカチェリーナ、我らが母!」という掛け声と共に、ドイツ人であるにも関わらず、ロシア帝国の権力を一手に掌握することに成功したのでした。