誕生
ゾフィー・アウグスタ・フレデリーケは1729年5月2日、北ドイツの神聖ローマ帝国の中の弱小領邦君主の娘として生まれました。
後にロシアのエカチェリーナ大帝となるゾフィーは、ドイツで生まれ、プロテスタントの一派であるルター派の洗礼を受けた時点では、ゾフィーという名前でした。
つまりドイツ生まれのドイツ育ちであり、ロシア人の血すら1滴も入ってませんでした。
ゾフィーの父は熱心なルター派教徒で、プロイセン軍少将の、アンハルト=ツェルプスト侯クリスティアン・アウグスト。
母は由緒正しいデンマーク・ノルウェー国王のフレデリク3世のひ孫、ヨハンナ・エリーザベトでした。
この母ヨハンナは、かなり上昇志向が強く、「こんな弱小貧乏貴族の妻ごときで終わってたまるか」と、野心モリモリでした。
当時貴族の成り上がり手段と言えば、戦争か結婚です。
そこで彼女は頑張って子供をたくさんつくりました。子供を結婚させれば良いのです。
そうして産まれた待望の第1子がゾフィーだったのです。
もちろん生まれた後も、フランス人のユグノーを家庭教師として雇って、どこへ出しても恥ずかしくないように娘を教育しました。
ゾフィーはそれほどは美しくなかったものの、生まれつき頭が良く、音楽以外は運動も勉強もできたそうです。
さて、ゾフィーは10歳の頃、将来の夫となる、母と同じドイツ人貴族家系のピョートルと出会っています。
ゾフィーとピョートルはそんなに歳が離れていないのですが、この頃からピョートルは年がら年中酔っぱらってたようですね。
後にエカチェリーナの回想録で、夫のことを「ホルシュタインの酔っ払い」とか「クソの役にも立たない」とか書いてますが、もうこの頃からこんな感じだったんでしょう。
この後に天然痘に罹ってしまったとはいえ、この時点でお世辞にも美男子とは言えないようでしたし、それにもうこの時点で有名な、「おもちゃの兵隊を使って遊ぶ」ことに夢中だったようです。
ロシア帝国皇太子ピョートルとの縁談
さて、父親がプロイセン軍元帥になった頃、そんなピョートルとの縁談がゾフィーの家に持ち込まれます。
この頃、ピョートルはロシア帝国の皇太子になっていました。
この頃にはロシア帝国皇室のロマノフ家の男子直系が断絶していて、ロシア帝国のピョートル大帝の娘の子供である、ピョートルが後継者に指名されたのです。
ゾフィーは神聖ローマ帝国内の弱小領邦の公女で、そんなロシア帝国の妃となるなんて、普通は家格的に考えられなかったのですが、
現在ロシア帝国に君臨する女帝エリザヴェータの元婚約者が、母ヨハンナの兄だったこと。
皇太子ピョートルと母ヨハンナが同じホルシュタイン=ゴットルプ家の出身だったこと。
それとオーストリア継承戦争の真っ最中で、ロシアを親プロイセンに変えたくて、プロイセン国王フリードリヒ大王自ら縁談を後押ししたこと。
などなど様々な思惑が重なり、皇太子ピョートルとの縁談が降って来たのでした。
ヨーロッパは陸続きだから、政治も複雑ですね。
さて、この縁談。野心溢れる母ヨハンナはノリノリでしたが、父のクリスティアン・アウグストは乗り気ではありませんでした。
父のクリスティアン・アウグストは熱心なプロテスタント、ルター派の教徒であり、ロシアの宗教はロシア正教だったからです。
基本的に王族の結婚は、同じキリスト教で同じ宗派(カトリックとかプロテスタントとか)同士でするのが普通です。
ロシア正教の方は質素なルター派とは違って、教会や儀式がゴージャスだったみたいですね。
これはロシアの貧しい農民を、見た目のゴージャスさで圧倒して、神の前にひれ伏させて統治するのに絶対に必要なものでした。
日本の新興宗教とかも、巨大建築物つくったりしてますよね。
ここで娘を嫁に行かせたくない父と、娘を嫁に行かせたい母が喧嘩しましたが、プロイセン国王フリードリヒ大王の肝いり事業でもあるので、軍人の父が逆らえるわけがありません。
というわけで1743年、母ヨハンナとゾフィーは、試される大地・ロシアの首都・サンクトペテルブルクへと向かったのでした。
父はロシアに出発する娘との別れ際に、「絶対にルター派の信仰を捨てるのではないぞ」と声をかけました。
皇太子妃候補となる
サンクトペテルブルクに到着した母娘は、早速ロシアの女帝エリザヴェータにお目通りします。
この女帝エリザヴェータはピョートル大帝の娘で、イヴァン6世を蹴落として玉座についた恐ろしい女帝でした。まあ大体ロシアの皇帝はみんな恐ろしいんですけどね。そうでもないと統治できないほど厳しい土地柄ですから。
皇太子の婚約者候補のゾフィーを見たエリザヴェータは、ゾフィーを気に入り、無事にロシアの宮廷に迎えられることとなりました。
さて、皇太子ピョートルの婚約者候補になったとしても、ドイツ人の小貴族の小娘であるゾフィーに後ろ盾なんてありません。言うなれば、一人恐ろしいロシアの敵地に乗り込んだようなものです。
母親のヨハンナも娘と共に滞在していましたが、実はこの母はフリードリヒ大王が放ったプロイセンのスパイだったのです。
しかしこの母親がスパイだということは、女帝エリザヴェータにバレていました。
この野心溢れる母親のせいで、ゾフィーは知らず知らずのうちに足を引っ張られることになります。無能な味方が一番厄介ってよく言いますよね。
というわけで頼れるのは自分しかありません。
たとえ不細工なピョートルが夫になるとしても、ゾフィーはロシアの皇妃となれるチャンスを逃したくありませんでした。
というわけで、ロシアの宮廷で、気に入られるためなら何でもしようと決心します。
まずは女帝エリザヴェータには絶対服従です。この人の機嫌を損ねたら、ドイツに返されるどころか、下手したら文字通り首が飛びます。
夫となる醜いピョートルの機嫌も取りました。
幸い子供っぽいピョートルは、ドイツ語でしゃべれるゾフィーを良い話相手だと受け入れたようです。
というのも、実はピョートルはロシア語があんまりできないから、ドイツ語で話すだけで良い話相手になるんですね。
ドイツ生まれのドイツ育ち、生粋のドイツ人ですが、たまたまロマノフ家の女系の血が入ってたからロシアの皇太子に指名されただけで。
しかもピョートルは、ロシア語を今更学ぼうという気も、サラサラありませんでした。
さらにプロイセンかぶれの軍隊マニアで、ゾフィーはピョートルの軍隊ごっこに、しょうがなく付き合ったりしてたみたいですね。
頭もそれほど良くなく、後にエカチェリーナの回想録でボロカスに言われてます。
取り柄と言っていいのはヴァイオリンだったみたいですね。エカチェリーナの回想録では、耳障りとか書かれてたみたいですけど。
ロシア人になりきる
さて、夫となるピョートルは同じドイツ出身だから仲良くなって懐柔できたとして、ゾフィーが次に取り組んだこと、それは自分自身のロシア人化でした。
彼女は、「ロシアの皇太子妃となるからには、自分もロシア人にならないといけない」と考え、ロシア語とロシア正教の教えを学びました。
しかし夜遅くまでロシア語の勉強を続けた結果、ゾフィーは身体を壊して倒れてしまいます。
この時ゾフィーは危篤になってしまい、母のヨハンナは娘の最期にルター派の聖職者を呼ぶように訴えました。
しかしゾフィーは、「ルター派ではなく、ロシア正教の聖職者を呼んでください」と病床で願ったのです。
これに女帝エリザヴェータを含む、ロシアの宮廷貴族たちは心を打たれました。
「なんて健気な娘なんだ!」
ちょろいな。
皇太子のピョートルがロシア語学ぶ気無い上に、宗教はもともとルター派だったので、ロシア正教すらも形式上しょうがなく改宗してやろうか、って感じだったから、余計にゾフィーの殊勝な心構えが目立ちました。
幸いにもゾフィーの容態は回復します。その頃にはゾフィーは一躍ロシア宮廷の人気者になっていました。
そして熱心なルター派教徒であった父との約束を破り、ロシア正教へと改宗。その時に名前をゾフィーからエカチェリーナ・アレクセーエヴナへと改名しました。
そして1744年、後ろ盾は無いものの、ロシア宮廷の一定の評価を得たエカチェリーナは、ピョートルと結婚。
この時からエカチェリーナは皇太子妃となり、広大なロシア帝国を統べる、エカチェリーナ大帝への第一歩を踏み出すこととなるのでした。