背景
ツォルンドルフの戦いは、1758年8月25日、七年戦争で行われたプロイセンとロシアの戦闘です。
七年戦争は、オーストリア継承戦争の時、シュレジエン地方を奪われて根に持ったオーストリア「女帝」マリア・テレジアが、プロイセンを外交上孤立させて起こった戦争です。
プロイセンはフランス、オーストリア、ロシアの列強三国を相手に囲まれ、一時はシュレジエンすらオーストリアに奪還されます。
しかしフリードリヒ大王はロスバッハ、ロイテンの戦いで鮮やかな手腕を見せ、シュレジエンを再奪還。
さらにイギリスと英普協定を結び、イギリスの財政支援を引き出すことに成功しました
さて、フリードリヒ大王のプロイセン軍は、オーストリアの司令官ダウン元帥を挑発して決戦に持ち込むため、オーストリアの首都ウィーンに進軍することをチラつかせながら、オルミュッツを包囲していました。
しかし、老獪なダウン元帥はこれに釣られず、逆にドームシュタットルの戦いで、プロイセンの補給部隊とその護衛を破られ、補給が不足する事態に陥ってしまいました。
さらに悪い事に、東からロシア帝国軍が、プロイセンの首都ベルリンに向けて進軍してきます。
このままロシア帝国軍とオーストリア軍が合流してしまえば、いくらフリードリヒ大王だとしても、数の暴力によってベルリンを落とされてしまうでしょう。
というわけで、フリードリヒ大王は敵軍を各個撃破をするために、ロシア帝国軍の迎撃を決意しました。
戦力
プロイセン軍 36000 大砲 167門
ロシア帝国軍 43500 大砲 210門
戦闘前の動き
ロシア帝国軍の指揮官フェルモルは、フリードリヒ大王の出方を窺うため、とても防御的な陣形を組みます。
そもそも、フリードリヒ大王は攻撃的なタイプなので、こちらから攻撃する必要は無いわけです。
そこで、ロシア帝国軍は物資や騎兵をグルっと取り囲んで中央に寄せ、両翼に騎兵を配置します。
さて、この時点でプロイセン軍は川を挟んで北に居ました。
ロシア帝国軍はコサックに橋を焼かせたりして、こちら側に渡ってこられないようにしています。
しかしプロイセン軍は、地元の森林官に道案内をさせ、8月25日午前3時から行軍を開始、東側から川を渡り、森林の中に身を隠しながらロシア帝国軍に近づきました。
しかし、その行軍はロシアのコサックたちによって発見され、すぐにロシア軍指揮官フェルモルに伝えられます。
この時、ロシア軍は、プロイセン軍が川を渡ってか何とかして北西から来ると思っていてそちらを正面に向けていたのですが、急遽軍の正面を南へと向けました。
コサックによってすぐに発見されたため、陣を立て直す時間は十分あったそうです。
朝午前8時、プロイセン軍はツォンドルフ村に到着しました。
そこには略奪され、火を放たれた村の惨状が広がっています。
プロイセン軍の存在に気づいたコサックによって、ツォンドルフ村をはじめ、辺りの村々は略奪され、火をつけられていました。
このような祖国を蹂躙するロシア帝国軍に対し、プロイセン軍の兵士たちは怒りを覚えます。
そして、このツォルンドルフ村の焼き討ちによって、モクモクと煙があがり、プロイセン軍の展開と機動を隠しました。なんで焼いた?
戦闘
敵右翼の突破を試みる
さて、今回のフリードリヒ大王のプランは、全力で敵右翼を攻撃して、あの四角い陣形を食い破って敵の潰走を狙うことでした。
というわけで午前9時から砲撃戦が開始され、敵歩兵に対して甚大な被害を与えます。
そして午前11時、マントイフェル率いるプロイセン軍左翼歩兵が、砲兵の支援を受けながらロシア軍右翼に向けて突撃、ロシア軍は突然現れたマントイフェル軍に大打撃を受けます。
というのも、この時、砲撃の煙やら村の焼き打ちの煙やらによって、40メートル先の視界すら取れなかった程だったからです。
カーニッツの失敗
しかし、ここで予想外の事態が起こってしまいます。
なんとマントイフェルの後に続くはずのカーニッツが見当違いの方向に進み、敵右翼への攻撃に突進力が上手く乗らずに、敵右翼を突破できなかったのです。
カーニッツは本来ならばマントイフェルの後に続き、左翼の層を厚くして局所的な数的優位をつくり、突破させる役割があったのにも関わらず、戦場の煙によってか何か分からないですが、中央の方に寄って行ってしまったのです。
ここでカーニッツがちゃんとマントイフェルの後に続いていれば、ロシア軍の右翼を食い破って突破し、戦闘は簡単に終わったそうです。
しかし、カーニッツはいつまで経っても現れず、多勢に無勢のマントイフェル軍は、今度は第2戦列から兵を持ってきて体制を立て直したロシア軍によって押し返され、壊滅します。
さらにマントイフェル軍が敗走し、カーニッツ軍のがら空きの左翼に対し、今度はロシア軍の強烈なカウンターが決まりました。
この時ドーナ率いる歩兵が、カーニッツを助けるために前進しましたが、ロシア軍の騎兵に反撃を受けています。
ザイトリッツの命令拒否
さて、プロイセン軍歩兵部隊の左翼がこうやって、ロシア軍の逆襲を受け劣勢になっている間、フリードリヒ大王は自軍最左翼の騎兵部隊を率いるザイトリッツ将軍に、歩兵の戦闘に加わるように伝令を飛ばしていました。
ザイトリッツの軍は、麾下に3個胸甲騎兵連隊、1個竜騎兵連隊、2ユサール連隊を保有していました。この騎兵部隊が戦闘に介入したら、戦局も持ち直すだろうとの判断です。
しかし、ザイトリッツ将軍は、この王命を拒否。石のように動きませんでした。
一向に動かぬザイトリッツ将軍にしびれを切らしたフリードリヒ大王は、激怒して何度も伝令を飛ばしますが、ザイトリッツ将軍はこう言い放ちました。
「戦闘が終わった後、王の御心のままに処罰を受ける。だが、それまでは私の裁量に任せていただきたい、と王に伝えろ」
ヤケクソのフリードリヒ大王
ロシア軍に押され、続々と戦線から逃げ出すプロイセン軍の兵士たち。
フリードリヒ大王はそんな兵士たちに、「戦列に戻れ!」と叫びましたが、一旦士気が崩壊して逃げ出す兵士たちを止めることなど、いくら大王にもできませんでした。
フリードリヒ大王はヤケクソになり、旗手が持つ軍旗を取り上げ、第46歩兵連隊旗を掲げ、ロシア軍に一人行進し始めました。
しかし、この王の勇敢な行動にも関わらず、兵士は誰一人してついて来ず、周りの者に必死に止められて引き返しました。
でも、フリードリヒ大王の気持ちも分かります。
このままだと歩兵の戦列が崩壊して終わりですからね。
さて、ロシア軍の歩兵と騎兵は、逃げるプロイセン軍歩兵に猛追撃をかけていましたが、ロシアの騎兵が追撃をかけた後、自軍戦列に戻った時、混乱が生じます。
この時、砲撃やら砂煙やらなんやらで視界がほとんど無かったため、ロシア軍騎兵は味方のロシア軍歩兵に、プロイセン軍の騎兵と勘違いされて撃たれてしまったのです。ザイトリッツ麾下の騎兵部隊も未だに動いてませんでしたし、勘違いしてしまうのも無理ないでしょう。
ここで大きな混乱が起こります。
ザイトリッツの騎兵突撃
これをチャンスと見たのは、ザイトリッツ将軍。
今まで待ち続け、王命にも逆らい、機は熟した、と見たザイトリッツは、「今です!」とばかりにここでロシア軍に対し騎兵突撃をかけ、今まで優勢だったロシア軍をパニックに陥れます。
このザイトリッツの騎兵突撃により、戦闘の流れは再びプロイセン軍有利に傾きます。
この時、プロイセン軍のユサールが、ロシア軍の物資を略奪したのですが、ロシア軍の兵士たちは、「敵に酒を取られるぐらいなら、自分たちで飲むぞ!」と勝手に酒樽を開けて酒を飲み始めました。
しかし、このザイトリッツの必殺の騎兵突撃にも関わらず、ロシア軍は敗走しませんでした。
戦闘は午後1時から小康状態になります。
右翼での攻防
プロイセン軍は、右翼側から盛大な砲撃をしながら、歩兵と連携して攻撃を開始。
ゆっくりとロシア軍を押し出し始めました。
しかし、ここでプロイセン右翼側の突出しすぎた砲兵部隊と歩兵が、ロシア軍の左翼騎兵に襲われます。
そこで一時、またロシア側に流れが向きましたが、今度はプロイセン軍右翼がカウンターチャージをかけ、ロシア騎兵を追い返しました。
この間、さきほどボロボロにやられて再編成をしていたマントイフェルとカーニッツの軍は、ロシア軍騎兵が迂回してきて攻撃すると思い、見当違いの場所にいました。
まあロシア軍のコサックは色んな所に居て、プロイセン軍をチクチク攻撃していたので、勘違いするのも無理ないかもしれません。
ですが、この動きによって、ロシア軍と正面から戦闘しているのはドーナの軍だけ。
プロイセン軍は、あまりにも悲惨な戦闘により、逃亡者が続出していました。
この時もフリードリヒ大王は、「戻れ、逃げるな!」と兵を鼓舞しましたが、無駄でした。
さて、戦況図を見る限り、ドーナの軍の左翼がガラ空きなのが分かりますね。
案の定ドーナの軍左翼はロシア軍の騎兵に攻撃され、瓦解寸前でした。
ザイトリッツ再び
しかし、ここでまたしてもザイトリッツ率いる騎兵部隊が登場!
ロシア軍の騎兵に対し、カウンターチャージをかけ、再びプロイセン軍の窮地を救いました。
もう、あいつ一人でいいじゃないかな。
ドーナは左翼からの砲撃支援を受けながら、目の前のロシア軍の監視部隊を攻撃し、突破しようと試みました。
しかし経験の浅くて練度が低いはずのロシア監視部隊は激しい抵抗を見せ、弾薬が尽きた後も血みどろの白兵戦が行われ、突破することはできませんでした。
まあロシア軍の方も後ろが沼地だったり川だったりで、逃げられませんですしね。意図せずして背水の陣を敷いていて、ロシア軍の必死の抵抗となったわけです。
両軍ともに疲労困憊
最終的にはこんな感じになって、どちらも精魂と弾薬が尽き果て、日が暮れて戦闘は終わりました。
さっきの図から、全体的にグルッと反時計回りに戦ってきたんですね。
翌日も睨み合いが続きましたが、弾薬も無かったですし、疲れていたので、両軍とも本格的な戦闘を続ける気はありませんでした。
その凄惨さから、このツォルンドルフの戦いは18世紀に行われた戦いの中でも、一番血みどろの戦闘ともいわれるようになります。
損害
プロイセン軍 12000
ロシア帝国軍 16000
その後
ロシア軍は、ポーランドの泥濘地帯を通しての補給が継続しなかったため、フェルモルは退却を余儀なくされました。
基本的に七年戦争中、ロシアはこの補給の問題に悩まされ、よく撤退します。
だから良いところで押し切れない形が続くのですね。
この後、ロシア軍がコルベルクを落として、バルト海沿岸の港をプロイセンから奪取して、ロシア軍は海路による補給が出来て安定した補給が得られるようになりますが(この時代の補給は陸路よりも海路の方が安定、かつ大規模な補給を行える)、その後すぐにロシアの女帝エリザヴェータが崩御してピョートル3世が即位し、今までのロシア軍の苦労が無駄になるのですから儚いものです。
でもこれで、最大の懸念であるロシア軍とオーストリア軍の合流は避けられました。
戦いの後、プロイセンもロシアも、自分を勝者と喧伝しましたが、まあ戦術的には引き分け、戦略的にはロシア軍とオーストリア軍の合流を防ぐことが出来たプロイセン軍の勝利と言えるでしょうか。
ですがプロイセン軍もかなりの痛手を被ったため、純粋な勝利とは言えないですね。
フリードリヒ大王は、自分が直接指揮する形でロシア軍と戦闘をしたのはこれが初めてだったのですが、ロシア軍は弱いと思っていた自分の考えを改めました。
ちなみに、ザイトリッツ将軍は戦いの後、今回の戦闘の立役者として、皆の前でフリードリヒ大王直々に褒め称えられたそうです。
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