トルガウの戦い【七年戦争戦史】

背景

1760年8月に行われたリーグニッツの戦いにより、3倍の兵力を保持していたオーストリア軍は、フリードリヒ大王率いるプロイセン軍を倒す絶好の機会を逃してしまいました。

フリードリヒ大王

 

この敗戦により、サルトゥイコフ率いるロシア軍は撤退、プロイセン軍はロシア軍に対して圧力をかけていたハインリヒ王子の軍を、ダウン元帥率いるオーストリア軍と睨み合いを続けていた大王の軍本隊と合流させました。

ダウン元帥

 

しかし10月にはラシー率いるオーストリア軍17000とロシア軍がプロイセンの首都ベルリン近郊で合流し、総勢35000の兵でベルリンを短期間占領するなど、プロイセンも依然苦しい立場に置かれています。

 

10月下旬、ダウン元帥率いるオーストリア軍は下シュレジエンから出発し、ラシーの軍と合流して、決戦を挑むために大戦力でザクセンへと移動しました。

そしてエルベ川西岸にあるトルガウという町の西の高地に陣取ります。

 

フリードリヒ大王としても、戦略上重要なザクセンに敵であるオーストリア軍を置いたまま放っておくことはできず、決戦を望みました。

これが1760年11月3日に起こる、トルガウの戦いです。

 

赤:オーストリア軍 青:プロイセン軍

 

オーストリア軍が陣取る高地は、1759年にハインリヒ王子も使用した場所で、その時構築した陣地が残っており、西には逆茂木、南には川がありました。

さらに東には湖、周りは森で囲まれており、まさに天然の要塞とも言える場所です。

 

もちろん以前にプロイセン軍が使用した場所だけあって、攻めにくい地形だということはプロイセン軍側も把握していました。

そこでフリードリヒ大王は軍を南北に分け、南をツィーテン将軍に攻めさせ、主軍である大王は西から森を抜けて高地を迂回し、北に回り込んで攻撃する作戦を立てます。

 

戦力

プロイセン軍 50000 大砲 309門

オーストリア軍 53400 大砲 275門

 

戦闘

正午ごろにツィーテンの前衛部隊と、ラシー麾下のクロアチア軽歩兵が衝突し戦闘が始まります。

 

その間にフリードリヒ大王は軍を率いて西から高地を迂回していましたが、オーストリア軍指揮官ダウン元帥はプロイセン軍のこの動きを警戒し、北の方の戦列をそのまま回れ右させて北へと向けます。

さて、高地の北側に着いた大王ですが、当初はエルベ川近郊の奥まで進んで攻撃しようと思っていました。

しかし、着いてみると予想とは違い、そこは騎兵や砲兵で厳重に守られているため、計画を変更して相対するオーストリア軍の左翼を北から攻めることとしました。

ここで南側では、ラシーとツィーテンの砲撃戦が行われていました。

北側に居るフリードリヒ大王はこの砲撃戦の音を聞き、南側で本格的な戦闘が起こっていると勘違いして、擲弾兵を10個大隊送り込んで、オーストリア軍が陣取る高地を攻撃し始めました。

しかしやはり天然の要害だけあって、高地から凄まじい斉射と砲撃を喰らわせられ、プロイセン軍の歩兵はバタバタと倒れていきます。しかしプロイセン軍は味方の屍を乗り越えて果敢に攻勢をかけます。

ダウン元帥はこれに、オーストリア軍の予備を投入して守らせました。

 

この戦いの最中、フリードリヒ大王はキャニスター弾に当たり、近くの村の教会に運び込まれて前線から離脱します。

一方、ダウン元帥も足を撃たれましたが、彼は痛みを堪えて指揮を続けました。

 

午後5時、日も落ち始めましたが、未だにプロイセン軍は高地を取ることが出来ていませんでした。

ダウンはここに来て勝利を確信し、撃たれた足を治療するために戦場を離れました。彼のブーツの中は、流れだした血で一杯になっていたそうです。

ここでダウン元帥はウィーンに居る君主マリア・テレジアに向けて、勝利の報を送っています。

 

しかしダウン元帥が戦場を離れたことによって、戦闘の潮目が変わります。

 

ラシー軍と戦っていたプロイセンの南側のツィーテン将軍ですが、彼はラシーの軍から離れ、高地西側を攻めることとしました。

この時、既に戦場を離れていたフリードリヒ大王とツィーテン将軍との間を伝令していたプロイセン軍の将校が、高地の防御が手薄な場所を偶然発見します。

高地南西の二つの池の間の土手道を上がった所に、オーストリア軍の防御の穴があったのです。

 

プロイセン軍はここに5個大隊を送り込み、高地攻撃の橋頭保を築きました。

ヒュルゼン中将はこの話を聞き、ここに戦力を集中。

プロイセン軍は敵の大砲を鹵獲し、取り返そうとしに来たオーストリア軍に向けて撃ちまくりました。

いったん敵に高地に登られたオーストリア軍は、ダウン元帥が居ない今、統率を取れずに敗退します。

 

オーストリア軍はラシーの軍を殿とし、その日の深夜にエルベ川を越えて撤退します。

プロイセン軍の方も被害が多かったため、追撃は行いませんでした。

 

損害

プロイセン軍 16600

オーストリア軍 16000

 

その後

オーストリア軍は負けはしましたが、プロイセン軍の損害も少なくはありませんでした。

しかし、この決戦での敗北により、プロイセン軍をオーストリア自国だけで攻め落としきれるだけの兵力、予算が潰えてしまいます。フランスでは厭戦ムードが漂っていてやる気があまりないので、ロシア軍とオーストリア軍でプロイセンを落とさねばならなくなったのです。しかもこの後ロシアはエリザヴェータ女帝の死により、ピョートル3世が即位してオーストリアとの同盟から離反します。

それに、フランスもオーストリアも、「本当にフリードリヒ大王を相手に、我々でプロイセンを落としきれるのだろうか?」と戦争の継続自体に疑問が出始めてしまうのでした。

 

戦いの後、南の軍を率いていたツィーテン将軍と再会し、抱き合うフリードリヒ大王

 

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