ロスバッハの戦い【僅か90分間の戦闘】

背景

ロスバッハの戦いは1757年11月5日、七年戦争で行われた戦いです。

この七年戦争は、20世紀に行われた2回の世界大戦ほどは有名ではありませんが、ヨーロッパとその植民地を巻き込んで世界各地で行われた、事実上初の世界大戦です。

と言っても、ヨーロッパではフランス、オーストリア、ロシアの列強が寄ってたかって新興国プロイセンを数の暴力でボコる戦争でした。

プロイセンにもイギリスという同盟相手が居ましたが、イギリスは可哀そうなプロイセンがボコられてる隙に、他国の植民地を掠め取っていくのに夢中でした。

イギリスの戦略は昔からこんな感じで、ヨーロッパのどこかに強そうな国が出てくると弱い国を支援して、欧州の勢力均衡を保とうとします。だってどこかがヨーロッパで覇権を握ってしまったら、次に目を向けられるのは海を隔てたイギリスでしょうから。

 

このプロイセン包囲網はオーストリアの「女帝」マリア・テレジアが敷いたものでした。

マリア・テレジア

 

さすがに周りをフランス、ロシア、オーストリアという列強3国に囲まれ、「プロイセンのフリードリヒ大王ももう終わりだな」というのが衆目の一致した見解でした。ていうか地図を見ても戦略上どう見ても負けですよね。

フリードリヒ大王

 

フリードリヒ大王は、オーストリアの名将ダウン将軍率いるコリンの戦いで大敗。プロイセン軍に大きな被害を出してしまいました。

コリンの戦い

 

しかしフリードリヒ大王はめげません。

彼は続々とやってくる列強の軍に対する3正面作戦に、内戦作戦を行って各個撃破することを目指しました。

ちなみにこのプロイセンが後にドイツを統一するのですが、この頃から他正面作戦ばっかりやってたんですね。これはドイツの周りに天然の要害が無く、侵入しやすいからです。イギリスとかはドーバー海峡挟んで島国だから、攻めにくいんですね。日本とかも島国ですから、地理的に言うと侵略を受けにくいです。

 

さて、ロスバッハではフランス・神聖ローマ帝国の連合軍とプロイセン軍の睨み合いが続き、その間にもプロイセンの首都ベルリンがオーストリアの奇襲部隊によって襲撃を受けていました。

 

戦力差

プロイセン軍

歩兵 17000

騎兵 5000

大砲 72門

 

フランス・神聖ローマ帝国 連合軍

歩兵 31000

騎兵 10000

大砲 109門

 

戦闘

青:プロイセン軍 赤:フランス・神聖ローマ帝国 連合軍

 

連合軍は高地を取り、数の上でも優位。

しかしプロイセン軍の方が練度が上でした。というのもプロイセン軍の訓練は過酷で、そのためプロイセン軍は他国の2倍の速度で射撃することができ、2倍の速度で行軍できたからです。

 

だから両軍睨み合いが続いていました。これはフランス・神聖ローマ帝国連合軍の指揮官がプロイセン軍と正面から当たるのを嫌がったことも影響しています。

神聖ローマ帝国の指揮官ヒルトブルクハウゼンは、有利だしそろそろ攻撃しても良いかな、と考えていたのですが、フランスの指揮官シャルル・ド・ロアンはそれでも決戦を避けたがりました。

シャルル・ド・ロアン

 

実はこのシャルル・ド・ロアンは、フランス国王ルイ15世の愛人であるポンパドゥール夫人と仲が良いというだけでフランス軍の指揮官になっただけであって、軍事的才能が無かったのです。

そのため、自分の責任で負けるような決断はしたくなかったのです。ぶっちゃけ神聖ローマ帝国軍に先に当たらせて、その後フランス軍に戦闘参加させて美味しいとこだけ貰おうと思ってました。

 

という内輪のゴタゴタも有り、連合軍の指揮官二人の思惑が入り交じって、「とりあえず軍を動かしてプロイセン軍の退路を断ちつつ包囲しようか」と妥協的な案が取られました。

こうして、連合軍は朝からモタモタと準備し、ようやく午前11時から行軍を開始。

しかし、この迂回機動中にロスバッハ村に居るプロイセン軍から、行軍中の連合軍左翼を攻撃する恐れがありますよね。

このため、行軍中に左翼の警戒に多数の兵が割かれました。

 

この頃、フリードリヒ大王はロスバッハ村の建物の屋根裏部屋から、連合軍が南へと動いているのを見ていました。

この時フリードリヒ大王は、連合軍が自軍左翼を迂回しているのではなく、「補給のためにそのまま南へと進んで撤退しているのだろう」と思い、プロイセン軍の大尉に監視を任せ、自分は昼飯を食べに行きました。

すると、大尉に監視を任せてから2時間後に「連合軍が急に曲がって、東へと動き始めた」との連絡が来ました。

 

大王が自分の目で見て見ると、確かに連合軍が南から進路を変え、東へと行軍しているのが丘陵の隙間からチラチラ見えました。

ここでフリードリヒ大王は、連合軍がプロイセン軍を迂回し、退路を断って側面包囲を仕掛けていることに気づきます。

そこでフリードリヒ大王はプロイセン軍に出発準備の号令を掛けました。

 

この時、フリードリヒ大王が大事な騎兵部隊を負かせたのが、若干36歳の天才的な騎兵指揮官、ザイトリッツ少将です。

これは上に二人いた上級指揮官を飛ばしての大抜擢でした。

ザイトリッツ

 

プロイセン軍はすぐに行軍の準備を整え、ロスバッハ村から東へと行軍を開始。

迂回して自軍を包囲しようとして来ている連合軍を、大王は逆に準備万端で迎え撃とうとしました。

接敵した時に、もし連合軍が横隊をつくって攻撃態勢が整えられていれば、連合軍右翼から騎兵部隊で襲撃する。敵がまだ横隊をつくれず、攻撃体型である縦隊のままなら、完全に有利な状況で攻撃できます。

縦隊と横隊の戦闘の例  青:縦隊 赤:横隊

この時代、戦闘正面に出せる火力が全然違うので、横隊と縦隊がぶつかったら横隊の方が圧倒的に有利です。だからこの状況で、上図の赤のように当たれればベストなんですね。

 

しかし、そんなに上手く行くものでしょうか?

それが上手く行くのです。なぜならプロイセン軍は他国の2倍のスピードで行軍できましたからね。

それに、連合軍は行軍の準備をしてから実際に行軍するのだけでも3時間かかったのに、プロイセン軍は大王の号令から数十分で支度を整え、行軍ができるまでに準備を整えられたようです。

今でも軍隊ってベッドメイクきっちりさせたり、飯を早く食べたりするらしいですけど、やっぱりいつの時代も兵は拙速を尊ぶんでしょうね。

 

さて、プロイセン軍の方が丘陵の隙間から連合軍の動きを見えていたということは、連合軍の方でもプロイセン軍の動きが見えていたということです。

もちろん連合軍の方でも、プロイセン軍が東へと進んでいることは視認していました。

 

しかし彼らはプロイセン軍が迂回して迎撃態勢を整えているとは知らずに、包囲と補給を断たれることを恐れて撤退しているのだと勘違いしてしまいました。まあ2倍の戦力差ですし、先に動いたのは連合軍側ですし、勘違いしてしまうのもしょうがないでしょう。

ここで連合軍は騎兵を本隊から先行させ、逃げている(と思い込んでいる)プロイセン軍に追撃を加えようとしました。

もちろん、急いで騎兵を追撃させたため、偵察などは出していません。

しかし、プロイセン軍は既に展開が完了していたのです。

 

午後3時15分、ヤヌスの丘に布陣した砲兵が、何も知らずに先行して来た連合軍の騎兵部隊を攻撃して戦闘が開始しました。

ここで砲撃が加えられ、多少混乱が起きました。しかし、連合軍はいまだにプロイセン軍が撤退しているものだと思い込んでいました。

というのも、この時代は支援砲撃しながら撤退することは良くあることだったからです。

なので、砲撃を受けて陣形を崩しつつも、未だにプロイセン軍を追撃しようと試みました。

 

さて、連合軍の進行方向にはザイトリッツ将軍が率いる騎兵部隊が伏兵として配置されていました。

ザイトリッツ将軍は砲撃が始まっても、十分に敵を引き付けてから攻撃するために、パイプをふかして戦闘を眺めていました。

 

連合軍が1000歩の距離に入った時、ザイトリッツ将軍はパイプを投げ捨て、それを合図として騎兵部隊が突撃を開始。

ザイトリッツ将軍の突撃

十分に突進力の乗った、それもいきなり現れた騎兵の突撃に連合軍の騎兵部隊は大混乱します。

それもそのはず、プロイセン軍が撤退していたのを追撃していたと思っていたら、いきなり奇襲をかけられたのだから当然です。

 

ザイトリッツ将軍の騎兵部隊により。連合軍の騎兵部隊は壊滅して敗走しました。

 

ヤヌスの丘に陣取っていたプロイセン軍は、縦隊でやってくる連合軍の本隊を迎え撃とうと、ヤヌスの丘から降りていきました。

 

さて、前述しましたように、この時代では縦隊と横隊で戦うのでは、圧倒的に横隊で戦う方が有利です。

なので、連合軍も行軍隊形である縦隊から、戦闘隊形である横隊に拡げなおそうと試みましたが、そんなことがすぐにできるわけもなく。

それならばと連合軍は数の優位を使い、乱戦に持ち込もうと銃剣突撃を敢行しようと試みます。

 

しかしここで、ザイトリッツ将軍率いる騎兵部隊が、連合軍右翼と背面から襲い掛かって来たのです!

この時代、騎兵と言えば一回投入して敵を追い散らしたら、その逃げる敵を追撃するものでした。だから連合軍は、ザイトリッツ将軍の騎兵部隊は、さっき破った連合軍の騎兵を追撃していると思って安心していたのですね。

 

でもザイトリッツ将軍は先ほどの突撃の後、散った自軍騎兵を再びまとめ集めて、連合軍歩兵の側面と背面から突撃してきたのです。

これにはたまらず連合軍は壊滅。戦線は崩壊しました。

 

連合軍は、陽が落ちるまでザイトリッツ将軍率いる騎兵部隊に追撃をかけられ、多数の被害が出ました。

 

戦果

この一連の戦闘は、戦闘開始から90分以内に行われたものであり、戦力差2倍にも関わらず、両軍の損害はプロイセン軍500、連合軍10000という凄まじい戦果となりました。

でも実はプロイセン軍の方も、十分に展開が完了していたわけでは無く、実際に戦闘していた部隊は少なかったので、実際に戦闘に参加していたプロイセン軍は、3個歩兵大隊、騎兵3500、大砲18門だけでした。

そして、この戦果のほとんどが、ザイトリッツ将軍率いる騎兵部隊によって為されたものなのでした。

 

その後

戦いの後、フリードリヒ大王は「マスケット銃を担いだ歩兵を動かしているだけで勝ってしまったな」と勢いづいたそうです。

この2倍もの戦力差があるにも関わらず、しかも当時最強と言われていたフランス軍と神聖ローマ帝国軍を破った圧倒的な勝利により、プロイセンのフリードリヒ大王の名声は高まりました。

 

逆に、フランスの指揮官シャルル・ド・ロアンはパリで「フリードリヒ大王はコリンの戦いで兵士を失ったが、シャルル・ド・ロアンはロスバッハの戦いで兵士と名誉を失った」と呼ばれるほどの酷い中傷に見舞われました。

 

この戦いを切っ掛けにフランスに厭戦気分が広がって、フランス側兵士を出すことを渋るようになります。

さらに、フランスがヨーロッパにくぎ付けにされている間、海外で他国の植民地を掠め取っていくことができるので、プロイセンはイギリスからの多額の財政支援を引き出すことに成功しました。

 

このロスバッハでの勝利の立役者であるザイトリッツ将軍は、戦いがあった夜にプロイセンの最高勲章である黒鷲勲章を賜り、中将に昇進しました。

 

七年戦争 目次

 

ロイテンの戦い【プロイセン軍とオーストリア軍の激戦】

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