背景
時代は列強が植民地獲得競争を行う帝国主義時代。
南アフリカでのさらなる植民地拡大に向け、大英帝国の南アフリカ高等弁務官バートル・フレアはズールー王国に目を向けました。
そこでズールー王国へ難癖をつけ、戦争目的を正当化。
大英帝国は精強な正規軍歩兵「レッドコート」や植民地の現地兵を集め、チェルムスフォード男爵中将に軍を率いさせ、ズールー王国に攻めこみました。
1879年1月9日、チェルムスフォード卿率いる第3縦隊が伝道所跡地であるロルクズ・ドリフトに到着。ここで補給基地と野戦病院を開き、バッファロー川を越えてズールーランドに入ります。
イサンドルワナに到着したチェルムスフォード卿率いる大英帝国軍は、ここをキャンプ地としますが、チェルムスフォード卿はこの野営地に強固な防御陣地を構築しませんでした。それはなぜか?
ライフル銃を装備した大英帝国軍が、鉄の槍と牛革の盾で武装したズールー族の戦士たちに負けるわけが無い、と慢心していたからです。
ここでズールー軍の陽動に引っかかったチェルムスフォード卿は、半数の兵を率いてズールー軍を追い、キャンプ地を出発。
その隙にズールー族の戦士たちは山の上から大英帝国軍の側背に回り込み、キャンプ地を襲撃、イサンドルワナの戦いが起こります。
大英帝国軍は陣地をつくって無いんでしょ?大丈夫なの?と思われる方も居られるかもしれません。
大丈夫です、ライフル銃を装備した大英帝国軍が、鉄の槍と牛革の盾で武装したズールー族の戦士たちに
奇襲を受けて大敗北し、キャンプ地の大英帝国軍は全滅しました。
ズールー王セテワヨは大英帝国軍との科学力の差を痛感しており、あくまでも大英帝国との和平を目指して自衛戦争に徹し、国境を越えて大英帝国の植民地へは侵入しないよう、ズールー族の戦士たちに厳命していました。
しかし王の弟であるダブラマンツィ・カムパンデは王命を無視し、イサンドルワナの戦いでの大勝利の勢いに乗り、逆にズールー軍がバッファロー川を越えイギリス領南アフリカへと攻め込みました。
ここでイサンドルワナから敗走してきた生存者がロルクズ・ドリフトの拠点に到着、イサンドルワナのイギリス軍全滅とズールー軍襲来の報を知らせます。
ここでロルクズ・ドリフトでは逃げるか守るかで将校たちの間で会議が行われましたが、この野戦病院では負傷者約30名を収容しているため、守ることにしました。
なぜ逃げたらダメなのか?
それは負傷者を付き添って逃亡すると、速度が遅くなるため、素早く移動するズールー族の戦士たち(インピ)に追いつかれてしまうからです。つまり、撤退するには負傷者を見捨てなければなかったからです。
このロルクズ・ドリフトでの先任将校、つまり指揮官は、舟橋を修理するためにやってきていた、戦闘経験が無い工兵隊中尉ジョン・チャード。
彼は拠点に向かって来ているズールー軍を迎え撃つため、早急に防御陣地を構築しはじめました。総司令官チェルムスフォード卿がイサンドルワナのキャンプ地では構築していなかったやつです。
チャード中尉はトウモロコシ粉の入った袋を建物の周りに積ませ、さらに建物には銃眼が開けられ、扉はバリケードで封鎖されました。
こうして大英帝国軍がロルクズ・ドリフトに簡易防御陣地を構築し1月22~23日にズールー軍を迎え撃った戦いが、ロルクズ・ドリフト防衛戦です
戦力
大英帝国軍 約400
ズールー軍 約4000
戦闘
大英帝国軍は野戦病院に入っていた戦傷者たちも、寝たきりの者以外は銃を手に取って防衛に参加しました。
ズールー軍は拠点南東からバッファロー川を渡り、ロルクズ・ドリフトに到着。
ここでズールー軍と初期に交戦を行ったナタール植民地騎兵は、ズールー軍の戦士たちと少し交戦を行った後にすぐ逃亡してしまいます。
なぜすぐに逃亡してしまったのか?
このナタール植民地騎兵は、イサンドルワナから落ち延びてきた兵士たちで再編成されており、ズールー軍にトラウマを持っていたからです。
ナタール植民地騎兵が逃げ出すと、ロルクズ・ドリフト内の建物を守っていた植民地現地兵であるナタール・カービン銃中隊も逃亡。
残ったのは、大英帝国軍正規兵約150だけになりました。
戦力2
大英帝国軍 約150
ズールー軍 約4000
戦闘2
400人もいれば砦を守れると思っていたジョン・チャード工兵中尉の当ては、外れてしまいます。
そこでチャード中尉は、ズールー軍の攻撃が激しくなってきた時に病院側陣地を放棄するため、陣地中央に予備陣地を築かせました。
予備陣地とは、第一線の陣地が突破された時のために用意しておく、予備の陣地です。守る範囲を狭めることで防衛力を増すことができるんですね。
この陣地中央にはビスケット箱が積まれ、簡易的な陣地となりました
ビスケット箱でも陣地になるということです。たとえ簡易的な陣地であろうとも、つくらないよりはつくった方が良いということですね。
午後4時半、ロルクズ・ドリフトに到着したズールー軍は病院と倉庫がある陣地南を攻撃、さらにそのまま陣地北西へと回り込み始めました。
ズールー族の戦士たちはイギリス軍陣地に張り付き、すぐに銃剣での白兵戦闘が行われるようになります。
最初は陣地として高く積まれたトウモロコシ粉の入った袋により、ズールー軍は陣地を突破することができませんでしたが、ズールー族の戦士たちは前の戦士の死体をよじ登ってイギリス軍の陣地内に侵入してきます。
午後6時、チャード中尉は病院を放棄して予備陣地に後退することを決定。
この時、病院の正面はズールー軍によって取り囲まれており、病院に配置されていた兵士たちは、重傷者を予備陣地から運ぶため、つるはしで壁に穴を開けて後退しました。
ここで病院が炎上。
東の建物に配置されていた部隊も後退を始め、残るは予備陣地だけとなってしまいました。
こうして夜間続けて戦闘が行われましたが、両軍は病院の藁ぶき屋根が燃える光で明かりを取ることができ、両軍の激戦が行われましたが、大英帝国軍は予備陣地の防御に成功します。
朝に再びズールー軍が現れましたが、ここでチェルムスフォード卿の救援先遣隊が到着、ズールー軍は引き返しました。
損害
大英帝国軍 戦死17、負傷15
ズールー軍 戦死351、負傷約500
その後
この拠点防衛成功によりイギリスは、攻め込んだズールー王国に逆に侵攻されてしまうという事態を免れることができ。最高褒章であるヴィクトリア十字章が守備兵11人に授与されました。
これは1度の戦闘としては異例の多さですが、イサンドルワナの戦いで負け、ロルクズ・ドリフトでも防衛に失敗していれば、イギリスの面目は丸つぶれでした。それを防ぐことができたのですから、ヴィクトリア十字章の大盤振る舞いも頷けますね。
もちろん工兵中尉チャードもヴィクトリア十字章を受け、祖国イギリスに帰還した際には英雄として迎えられ、ヴィクトリア女王との食事会にも呼ばれることとなりました。
こうして大英帝国のズールー王国への第一次侵攻は阻止されることとなり、ズールー王セテワヨは大英帝国側に和平を申し込みましたが、これは断られました。それはなぜか?
アフリカの部族に負けたままでは、数多くの植民地を持つ「陽の沈まない国」と呼ばれる大英帝国にとって、他の植民地に示しがつかないからです。
さらに圧倒的な科学力の差を持つ近代軍を持ってして敗北したことにより総指揮官チェルムスフォード男爵中将としても、負けたままではいられません。
こうして大英帝国は軍をさらに増強し、大砲と機関銃を装備した軍隊を揃え、再びズールー王国に侵攻するのでした。