プラハの戦い【七年戦争戦史】

背景

ロボジッツの戦いでオーストリア軍に勝利したプロイセンのフリードリヒ大王。

ロボジッツの戦い

 

彼はザクセン軍を降伏させ、吸収して傘下に置いた後、冬を越してオーストリア軍に積極的な攻勢をかけることにしました。

プロイセン軍は4つに分けられ、分進合撃してボヘミアの首都プラハに集まり、攻撃を試みます。

兵を分けて行動するため、どうしても各個撃破される恐れがありましたが、この計画は成功し、プロイセン軍はプラハ近郊で合流することが出来ました。

 

一方オーストリア軍の指揮官マクシミリアン・ウリセス・ブロウネ元帥は、このプロイセン軍の機動に対し、プラハに戦力を集中していました。

ブロウネ元帥は町の東に陣を敷き、そこに神聖ローマ皇帝の弟で、オーストリアの「女帝」マリア・テレジアの義弟、カール・アレクサンダー・フォン・ロートリンゲン率いる援軍が到着。

ここでブロウネ元帥からカール公子にオーストリア軍の指揮権が移ります。

カール・アレクサンダー・フォン・ロートリンゲン

 

このカール公子、軍事的な才能は無かったものの、「女帝」マリア・テレジアによって採用された典型的な縁故採用でした。

ブロウネ元帥はプロイセン軍に対しての攻撃を提案しましたが、カール公子はこれを拒否。ライヘェンベルクの戦いで負け、プラハに退いてくることが分かっていたケーニヒスエックの軍や、ダウン元帥の援軍を待つつもりでした。

 

戦力

プロイセン軍 67000 大砲 82門

オーストリア軍 60000 大砲 59門

 

戦闘

プロイセン軍を率いるフリードリヒ大王は、オーストリアのダウン元帥の援軍が到着する前に、さっさと攻撃を仕掛けようとしました。

そこでシュヴェリーン元帥とヴィンターフェルト将軍に敵右翼を偵察させます。

偵察の結果、草原が広がっていて、ここを素早く移動してオーストリア軍右翼を突破し、敵後方に回れると判断し、出発しました。

 

しかし事前の偵察とは違い、そこは草原などでは無く、干上がった釣り堀の跡地で沼地であり、素早い機動などできるはずもありませんでした。

オーストリア軍が敵を攻撃する準備を整えられていれば、プロイセン軍は大損害を受けていたでしょう。しかし、オーストリア軍も展開が遅れ、絶好の攻撃の機会を逃しました。

 

ここでようやくブロウネ元帥とカール公子は、プロイセン軍がオーストリア軍右翼を回り込み、攻撃しようとする意図に気づき、慌てて軍を展開し直します。

左翼を率いるシュヴェリーン元帥は、オーストリア軍の再展開が終わる前に、敵が陣取る丘の上に対して攻撃を敢行しました。

しかし沼地によりプロイセン軍砲兵の展開が遅れ、歩兵での攻撃は多数の損害を出し、失敗。

さらに騎兵同士の戦闘が始まるも、突破することはできませんでした。

 

ここでヴィンターフェルト将軍がオーストリア軍歩兵に撃たれ、落馬。救出されて前線を離れます。

一方シュヴェリーン元帥は、プロイセン軍左翼の攻撃が上手く行っておらず、逆にオーストリア軍に押されているのを見て、最前線にて軍旗を振ってプロイセン軍を鼓舞していましたが、そこに敵砲兵の散弾が直撃。戦死します。

シュヴェリーン元帥の戦死

 

指揮官の戦死を間近に見たプロイセン軍左翼の士気は崩壊。

戦列は崩壊し、兵士たちは逃げ出します。

 

ちょうどこの間に、沼地に足を取られて遅れていたプロイセン軍砲兵の展開が、完了。しかし時すでに遅く、オーストリア軍右翼率いるブロウネ元帥は、このプロイセン軍の混乱に乗じて反撃を行い、プロイセン軍を押しまくります。

しかしここでブロウネ元帥率いるオーストリア軍右翼が攻め込んだため、北側に面していたオーストリア軍の左翼との間に間隙が生じました。

そして、この時にオーストリア軍右翼を指揮していたブロウネ元帥もプロイセン軍の大砲に撃たれ、瀕死の状態でプラハに運び込まれます。

 

このオーストリア軍のスキに乗じ、プロイセン軍がオーストリア軍の間隙から浸透。カール公子は左翼で戦っていたクロアチア歩兵を幾らか引き抜いて新しい戦列を構築しようとします。

濠を渡って攻撃を指示するハインリヒ

 

さらにプロイセン軍左翼ではツィーテン将軍が敵側面から突撃をかけ、オーストリア軍の騎兵部隊を打ち破ることに成功。

このオーストリア軍に出来た間隙によるプロイセン軍の浸透と、オーストリア軍右翼騎兵の敗退により、オーストリア軍はプラハに向けて撤退をはじめます。

この時、カール公子はオーストリア軍騎兵と共に真っ先に撤退しましたが、ブロウネ元帥が砲弾に倒れ、カール公子も撤退したため、オーストリア軍の指揮を執る者が居なくなりました。

 

しかしオーストリア軍は騎兵に守られながら、なんとかプラハに無事撤退。

フリードリヒ大王はカイト元帥に、モルダウ川を越えてオーストリア軍の撤退を阻止するように命じましたが、この試みは失敗しました。

 

損害

プロイセン軍 14000

オーストリア軍 13400

 

その後

プロイセン軍は勝利したとはいえ、優秀な指揮官であるシュヴェリーン元帥を失い、ヴィンターフェルト将軍は重傷を負い、さらにプロイセン軍の精強なベテラン兵たちを多数失いました。

フリードリヒ大王はこの戦いで兵士を失ったため、無理に攻城戦を行わず、プラハを包囲するに留めました。というのも、オーストリア軍の4万人の兵士と、7万5千人の市民により、備蓄食糧がすぐに無くなると踏んでのことでした。

 

しかし、この後ダウン元帥率いるオーストリア軍がプラハを救援しに駆けつけ、かの有名なコリンの戦いが開かれ、フリードリヒ大王は敗北を喫することになるのです。

 

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