経緯
女子マリア・テレジアのハプスブルク家家督相続
オーストリアのハプスブルク家の家長で、神聖ローマ皇帝であるカール6世が死んだ時、皇帝の子供には男子がおらずに女子のマリア・テレジアしか居ませんでした。
そのため、マリア・テレジアはわずか23歳で父カール6世の後を継いでハプスブルク家を相続したのですが、オーストリアの周りの国は男子が相続人では無い事を良い事に、この問題に付け込んで利益を得ようと野心を持ちながら状況を見守っています。
野心溢れるプロイセン王フリードリヒ2世
そこで最初に動いたのは、オーストリアの北に位置するプロイセンの王フリードリヒ2世。
彼は当時としては異例の冬季に軍を動かし、オーストリアの領土であったシュレジエンを瞬く間に奪取。
そしてオーストリアに対して厚かましくも、「守ってやるから、代わりにこの土地を寄越せ」と要求しました。
シュレジエンは南のオーストリア側は山地でオーストリアは兵を送って守りにくく、北のプロイセン側は平地なので補給もしやすいため、プロイセンにとって攻めも守るも容易な地形です。
さらにシュレジエンは豊かな土地であり、農業するもよし、鉄や石炭も豊富に採れる、まさにプロイセン側としては喉から手が出るほど欲しい場所だったのでした。
そしてフリードリヒ2世はブランデンブルク選帝侯でもあったため、神聖ローマ皇帝を選出するための投票権を持っていました。
だからフリードリヒ2世は、シュレジエンを割譲すればオーストリアのマリア・テレジアの夫であるフランツ・シュテファンを神聖ローマ皇帝に投票することも条件として提示します。
この頃の神聖ローマ皇帝は、ほぼオーストリアのハプスブルク家が独占していましたが、それでも神聖ローマ帝国(今のドイツ)の有力諸侯たちである選帝侯の投票を形式上でも経なければなりません。
ちなみに神聖ローマ皇帝は女性ではなれなかったため、マリア・テレジアと結婚してハプスブルク家にムコ入りしたフランツ・シュテファンを推す流れになっていたのでした。
というわけでオーストリア宮廷の貴族たちは、「この提案を受けるべきでは無いのか?」と弱腰に思い始めます。
マリア・テレジアの強硬策
しかしマリア・テレジアは、プロイセン王フリードリヒ2世の厚かましさに激怒。
ナイペルク伯を指揮官として、シュレジエンを奪い返すために約2万の兵を送り込みました。
ちなみにこのナイペルク伯は、後の時代にナポレオンの妻であるマリー・ルイーズを寝取るナイペルク伯の祖父に当たります。
このナイペルク伯の軍は、プロイセンの軍との後方連絡線に入り、補給を断つことに成功。
プロイセンのフリードリヒ2世は孤立してしまったため、決戦を挑まざるを得なくなりました。
ここでプロイセン軍に捕まったオーストリア軍の捕虜が、フリードリヒ2世にナイペルク伯の軍がモルヴィッツ村に居ることを漏らします。
その時は吹雪が吹いていたため、ナイペルク伯の軍はモルヴィッツ村周辺で休んでいたのです。
フリードリヒ2世は天候はちょうど吹雪でもあるしこれは幸いと、オーストリア軍に気づかれることなくモルヴィッツ村周辺まで軍を動かすことができました。
そして前日とは打って変わって吹雪がやんだ朝霧の中、プロイセン軍はモルヴィッツ村に居るオーストリア軍に対して戦いを挑んだのです。
戦力
プロイセン軍 21600(歩兵16800 騎兵4000)
オーストリア軍 19000(歩兵10000 騎兵8000)
戦闘
フリードリヒ2世の失策
完全に奇襲を行うことが出来るアドバンテージを取ったフリードリヒ2世でしたが、初陣で経験の浅かった彼はすぐに奇襲をかけるわけでもなく、戦列を2列に整えるという敵に体勢を整える猶予を与えてしまいます。
一方モルヴィッツ村のナイペルク伯は突然現れたプロイセン軍にびっくり。
ほとんどの兵士は眠っていたし、陣はプロイセン軍がやってくる方向とは真反対である北西の方向を向いていたからです。
というわけで急遽兵士たちを叩き起こし、戦列を整えさせました。
幸いフリードリヒ2世が猶予を与えたため、最低限反撃できる体勢は整えられました。
こうして午後1時に両軍の戦列が完成し、戦闘が始まります。
オーストリア左翼騎兵部隊の活躍
まず動いたのはオーストリア軍左翼の騎兵部隊でした。
オーストリア軍左翼5000の騎兵部隊は、プロイセン軍右翼に居た騎兵を簡単に粉砕します。
というのもオーストリア軍は、オスマン帝国との戦いで鍛えられた優秀な騎兵をたくさん保有していたからです。
こうしてプロイセン軍の右翼はガラ空きの状態となってしまいます。
フリードリヒ2世は騎兵を再編成してなんとか立て直そうと奔走しますが、無駄でした。
ここでプロイセン軍左翼から駆け付けてきたシュヴェリーン元帥が、フリードリヒ2世に対し避難することを進言します。
フリードリヒ2世はシュヴェリーン元帥のこの提案に躊躇いましたが、諸将の説得により結局は避難することを了承。戦場から逃亡して、各地でオーストリア軍に身柄を狙われながらも無事逃げきることが出来ました。
フリードリヒ2世の避難後
さて、フリードリヒ2世が居なくなったため、プロイセン全軍の指揮権はシュヴェリーン元帥に委譲されました。
ぶっちゃけこの時点のフリードリヒ2世なんかよりも、シュヴェリーン元帥の方が信頼感があります。
というのも後にフリードリヒ2世は「大王」と呼ばれるほど、素晴らしい指揮官になるのですが、今この段階では初陣でしたし、そもそも若いころは軍人というより芸術家・学術家気質でナヨナヨしていたため、「兵隊王」と呼ばれた父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世に虐待されていた程だったからです。
さて、混乱状態にあったプロイセン軍右翼でしたが、「兵隊王」にスパルタ式に鍛えられたプロイセン軍は、自然と右翼から襲撃してくる敵オーストリア軍騎兵に対し、絶え間ない射撃を行って多数の被害を与えました。やっぱり訓練って大事。
そのため、オーストリアの騎兵部隊も敵歩兵を崩す所までは中々できません。
危機をなんとか回避して一息ついたプロイセン軍の将校が、シュヴェリーン元帥に「どちらに撤退すれば良いでしょうか?」と聞いたとき、シュヴェリーン元帥は「敵の屍を越えて」と答えました。
オーストリア軍の騎兵が突撃に失敗したのを見て、シュヴェリーン元帥はプロイセン軍に全軍前進を指示。
兵隊王の元でガチガチに教練を受けたプロイセン軍の歩兵は、1分間に4~5回射撃すると言う、新兵ばかりのオーストリア軍よりも2倍以上の速度で射撃が可能であり、さらに鉄の規律を持ったプロイセン軍はこの戦いでの戦いっぷりより、「プロイセン軍は常に射撃する」「動く壁のようだ」とも言われたほどでした。
こんなプロイセン軍にオーストリア軍が勝てるはずもなく、序盤の騎兵部隊の優位にも関わらずに歩兵の火力差で敗退することとなるのでした。
損害
プロイセン軍 4850
オーストリア軍 4550
その後
フリードリヒ2世が得た教訓
モルヴィッツの戦いで初陣を飾ったフリードリヒ2世は、この戦いを通して数々の教訓を学び、「モルヴィッツの戦いは、私にとって学校のようなものだった」と言わせた程でした。
その学んだ教訓の1つが、「戦闘の勝敗がつくまでは戦場を離れない」というものでしたが、このフリードリヒ2世の誓いは、後に起こる七年戦争の初めの方のロボジッツの戦いで再び破られることとなります。
またこの戦いでの勝敗は兵士の質によって決まりました。だからフリードリヒ2世は、訓練の大切さが身に染みて分かったわけですね。フリードリヒ2世を虐待していた父の兵隊王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世でしたが、彼の鍛えた兵のお陰で勝ったわけです。
後はオーストリア軍が使用していた軽騎兵の有用性を実感したフリードリヒ2世は、軽騎兵を大幅に増やしました。
絶体絶命に陥ったオーストリア
この戦いはどちらが勝ってもおかしくない状況だったため、圧勝ではなく辛勝といった所でしたが、このプロイセンの勝利によって各国はオーストリアの弱みに付け込もうと、フランス、バイエルン、スペイン、ザクセン、プロイセン各国でマリア・テレジアが治めるオーストリア包囲網を形成しました。
結局豊かな土地であるシュレジエンは実質的にプロイセンに奪われ、さらにシュレジエンではプロテスタントが多かったため、シュレジエンの民や貴族たちからも歓迎されて迎えられました。
オーストリアのハプスブルク家は熱心なカトリックですから、元々あまり良く思われてなかったのです。