ロボジッツの戦い

背景

オーストリアの「女帝」マリア・テレジアがハプスブルク家を相続した時、「女性がハプスブルク家を相続するなどとんでもない」と他国からの介入によって始まったオーストリア継承戦争。彼女はこの戦争で豊かなシュレジエン地方をフリードリヒ大王率いるプロイセンに奪われてしまいました。

マリア・テレジア

 

しかしマリア・テレジアはオーストリア継承戦争の後も、外交などを駆使してフランス、ロシアを同盟に引き入れてプロイセンを孤立させ、ダウン元帥に軍の改革を行わせるなど、シュレジエンの奪還に執念を燃やします。

シュレジエンをオーストリアから奪ったプロイセンのフリードリヒ大王も、彼女がシュレジエンを取り戻さない限り、プロイセンに対する敵対行動を止めないと分かっていました。

なので1756年8月の終わり、プロイセンのフリードリヒ大王は、予防戦争と称してザクセンに電撃的に侵攻します。ドイツはいっつも電撃作戦してんな。

こうしてヨーロッパでの七年戦争の火ぶたが切られたのでした。

 

全くの不意を突かれたザクセン軍とオーストリア軍はなすすべも無く、プロイセン軍はほぼ無抵抗でドレスデンを占領。

孤立したザクセン軍はプロイセン軍に対し、ピルナで強固な防御陣地を組みました。

プロイセン軍はピルナを包囲しましたが、余りにも防御に徹しられたため、すぐには落とせそうではありません。

 

さて、そんな孤立したザクセン軍を救う任務にあたったのは、オーストリア軍の指揮官マクシミリアン・ウリセス・ブロウネ。

彼はベーメンを守りつつ、ザクセン軍をも救援しなければならないという、難しい状況に置かれていました。

 

一方ザクセン軍をピルナで包囲していた大王は、「こりゃ時間がかかるな」と悟り、包囲軍を幾らか残し、プロイセン軍を分け、向かってくるオーストリア軍を撃破しようと動きます。

 

オーストリア軍は、もうすぐプロイセン軍がやってくるという情報を聞き、山地の谷間の出口であるロボジッツに布陣。

オーストリア軍の方が先にこの地方に居たので、高地に布陣し谷間を通るプロイセン軍を攻撃するなど、迎え撃つ布陣は様々に考えられましたが、中央を薄くして、その中央の後方の窪んだ道に伏兵として歩兵と胸甲騎兵を配置しました。左翼は川を天然の障害として、川の後方に配置しました。

赤:プロイセン軍 青:オーストリア軍

 

戦力

プロイセン軍 28000 大砲 100門

オーストリア軍 33000 大砲 98門

 

実際には戦力差は同程度でしたが、フリードリヒ大王はオーストリア軍を過大評価していました。しかし戦闘が行われていた午前中は霧が出ていたため、100メートル先の視野も取れず、敵の布陣、兵力などは視認できませんでした。

 

戦闘

プロイセン軍は、散発的な戦闘をしながらロボシュ山とヴォフチュイン山の谷間を行軍し続け、午前7時半までには平野の出口に戦列を形成しました。

 

オーストリア軍は前述の通り、中央に少数の騎兵と擲弾兵を配置。プロイセン軍がそこを攻撃すると、その後ろに伏せられていた歩兵や胸甲騎兵によって攻撃されるという寸法でした。

さらに、その南にも兵が配置されています。

 

プロイセン軍左翼ではロボシュ山で激しい戦闘が始まりました。

しかしプロイセン軍右翼では、オーストリア軍の抵抗らしい抵抗も無く、ホモルカ高地という重要なポイントを占領。

プロイセン軍はここに大砲を置き、真ん中の平野に強烈な砲撃を加えることができるようになります。

 

さて、午前中は霧が出ており、両軍ともに相手がどのぐらいの戦力を持っているのか把握していませんでした。しかし、こういう視界が取れない場面では、得てして防御側の方が有利です。

プロイセン軍が谷間から平野に出てきたことを知ったオーストリア軍は、視界が取れないまま、プロイセン軍が居るであろう場所に砲撃をはじめました。

 

この頃フリードリヒ大王は、霧で視界が取れないため、「なぜオーストリア軍は防衛側なのに高地を取っていないのか? 中央での歩兵の戦闘が起こっていないのか? もしかしたら、目の前にいるオーストリア軍は本軍ではなく、我々の足止めをしているだけなのではないか? もう本軍は川の東に渡り終えているのではないか?」と疑心暗鬼に陥っていました。

そのため、両軍とも中央戦列を押し出すことなどはせず、砲撃戦に徹します。

 

午前11時、大王はプロイセン軍の騎兵を、偵察のため敵陣に乗り込ませることにしました。

この騎兵は竜騎兵の援護を受けながら、ホモルカ高地から中央に突撃。

すると中央後方の伏兵の存在と、川の向こうに主力のオーストリア軍左翼が居るのを発見します。

しかし、発見したということは攻撃されるほど近づいたということで、オーストリア軍左翼の歩兵や砲兵による集中砲火を浴びました。

するとプロイセン軍のゲスラー将軍が、味方がボロボロにやられているのを見て、自分の麾下の騎兵を投入して突撃させます。ゲスラー将軍はこの戦いの直前、フリードリヒ大王に叱られており、名誉挽回したかったそうです。

しかし、この考えなしの突撃が上手く行くことは無く、プロイセン軍騎兵はボロボロになって帰ってきます。

この時フリードリヒ大王は、「なんてこった! 私の騎兵は何をしている! 誰も二度目の突撃など命令していないぞ!」と叫んだそうです。ワーテルローの戦いでネイが騎兵突撃をした時も、ナポレオンが同じようなことを言ったという逸話がありますね。

 

正午に霧が晴れ、オーストリア軍指揮官ブロウネは、自軍右翼ロボシュ山が占領されそうなのを確認します。プロイセンのフリードリヒ大王も、敵の布陣を視認することができました。

 

ブロウネはあまり戦闘に参加しきれていないオーストリア軍左翼から兵を引き抜き、中央を突破しようと試みましたが、プロイセン軍がホモルカ高地から激しい砲撃を加えたため断念。

しかしこの時点でプロイセン軍の砲兵の弾薬が尽き始めました。

 

午後1時の時点で、フリードリヒ大王は「この戦いは負けだ」と確信します。

そしてオーストリア継承戦争でのモルヴィッツの戦いの時のように、諸将に後を任せ、戦場を去りました。

 

オーストリア軍のブロウネは、自軍右翼の歩兵をロボシュ山での戦いに投入。

しかしプロイセン軍のベーヴェルンも中央歩兵から兵を引き抜き、続々とロボシュ山に投入し、激戦となります。

この時、ベーヴェルンが部下に「弾薬がありません!」と言われた時に、「なに?! お前たちは銃剣を持っているではないか! それで畜生どもを突き刺せ!」と答えたそうです。

 

このロボシュ山の戦いは激しく、両軍とも弾薬が尽きるまで戦闘を行いましたが、最終的にプロイセン軍が戦闘に勝利し、ロボシュ山からオーストリア軍を追い出しました。

オーストリア軍はロボジッツの町に逃げ込みましたが、プロイセン軍から町に向け、バンバン砲撃を浴びせられます。

そしてプロイセン軍はロボジッツの町に押し入り、街中に火をつけて回りました。

ロボジッツの町に押し入ろうとするプロイセン軍と、それに抵抗するオーストリア軍。町の人はいい迷惑である

 

これにはたまらずオーストリア軍はロボジッツの町から撤退。

ブロウネはオーストリア軍を集め、東側に渡河しました。

しかし、プロイセン軍は渡河してまではオーストリア軍を追いかけませんでした。

そして日の入りとともに戦闘が終わったのです。

 

損害

プロイセン軍 2900

オーストリア軍 3200

 

その後

ブロウネ率いるオーストリア軍は北上して撤退します。

フリードリヒ大王は、オーストリア軍は他の援軍と合流して大きな規模になると思ったため、それ以上の深追いはせず、ザクセンに戻りました。

その後、ザクセン軍は降伏。プロイセン軍の麾下に入ります。

 

しかしプロイセン軍は勝利にも関わらず、オーストリア軍をじかに相手にし、「もはや敵はオーストリア継承戦争の時のような、俺たちの知っている弱兵のオーストリア軍ではない」と言い知れない不安を持つことになるのでした。

 

七年戦争 目次

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