リーグニッツの戦い【七年戦争戦史】

背景

クーネルスドルフの戦いやフィンク将軍の敗北によって、大幅に兵士を失っていた絶体絶命のフリードリヒ大王。

フリードリヒ大王

 

彼はシュレジエンに居るオーストリア軍を攻めるつもりでしたが、ダウン元帥率いるオーストリア軍の方が先にシュレジエンに着くとの情報を得て、予定を変更してザクセンの首都ドレスデンに向かいました。

ダウン元帥

 

ザクセンは七年戦争直後に大王が電撃的に侵攻して落としていましたが、クーネルスドルフの戦いの後オーストリアに取り返され、再びプロイセンの敵となっていました。

プロイセン軍は1760年7月13日にドレスデンに到着、砲撃を行いましたが、効果は薄く、しかもダウン元帥のオーストリア軍がシュレジエンからザクセンを救出しにやってきたので、フリードリヒ大王は退却。

しかし、この退却中にプロイセン軍はオーストリア軍に不意打ちを喰らいます。

 

この時、信頼していたアンハルト=ベルンベルク公の連隊が潰走。大王はこれに怒り、兵たちの副武装である短剣と、連隊の将校と下士官の帽子の飾りを取り上げました。これは彼らのプロイセン軍人としての誇りをいたく傷つけました。

 

さて、大王は平野で決戦を挑むため、ドレスデン近郊でダウン元帥を挑発します。

しかし、ダウンはいつも通り、この挑発を無視します。

 

この時、ダウン元帥がフリードリヒ大王を牽制している間に、ラウドン率いるオーストリア軍がシュレジエン地方の中心都市ブレスラウを取るために進軍していました。

しかもロシア軍の方でも指揮官サルトゥイコフが25000の兵を送り、オーデル川を渡河してオーストリア軍と合流しようと画策します。

ラウドン

 

そこでフリードリヒ大王は合流をさせずに各個撃破するためにドレスデンから出発、このプロイセン軍にダウンのオーストリア軍が付かず離れず、距離を取りながら後をつけます。

ダウンのオーストリア軍はラウドンと合流。

 

大王はここでは戦う気は無く、決戦を避けるつもりでしたが、ダウンはいつもとは違い積極的で、別にやってくるラシーの軍と合わせてプロイセン軍を包囲し、降伏させる計画を立てます。

戦力

プロイセン軍 30000 大砲 74門

 

オーストリア軍

ラウドン 25000

ダウン、ラシー軍 66000

(ロシア軍 24000も向かってきている)

戦闘

しかしオーストリア軍が攻撃する計画は、オーストリア軍内部の内通者によりプロイセン軍に伝えられ、プロイセン軍は夜の内に東へと移動することとしました。

ここで東からプロイセン軍の方に向かって進んでいたラウドンの軍と遭遇。遭遇戦が始まります。

 

午前2時半、プロイセン軍ユサールの偵察部隊によって発見されたラウドンの軍の情報は、すぐに大王に伝えられます。

両軍ともこの遭遇には驚きました。フリードリヒ大王としては、まさか東の方からオーストリア軍が出てくるとは思っていなかったし、ラウドンの方としては、プロイセン軍は動かずにまだリーグニッツに居ると思っていたからです。

 

プロイセン軍としては、東からオーストリア軍が来ていて、西からも来ないとは限りません。挟み撃ちされれば大変なことになります。

というわけで西の方にも軍を割き、ツィーテン将軍の指揮下に置きました。この時、東の方に置いた兵よりも西の方に置いた兵の方が多かったです。ダウン元帥の軍がオーストリア軍の本隊ですからね。

しかしダウンの方の先遣隊がプロイセン軍が既に移動して居なくなっている情報がラウドンまで上がってくるのが遅かったり、出発してからも午前2時出発で暗く、川を渡河するのにも手間取っており、いまだにリーグニッツにすら到着していませんでした。

 

さて、プロイセン軍と遭遇したラウドンは、敵の戦列が整う前に騎兵隊を用い、プロイセン軍攻撃を試みますが、プロイセン軍はさすが規律正しく素早く戦列を整え、大砲を配置して反撃。プロイセン軍の砲撃と歩兵の斉射によって押し返されました。

次にラウドンは敵最左翼を騎兵で攻撃しようとしましたが、アンハルト=ベルンベルク公の連隊が果敢に前に出て騎兵を追い返します。少し前に罰として短剣や帽子の飾りを取り上げられた、あの部隊でした。汚名を返上するため、今回は必死に戦います。

名誉回復のために奮戦するアンハルト=ベルンベルク公の連隊

 

さらにラウドン軍左翼にある村に入ったオーストリア軍でしたが、ここから砲撃されると大変なことになると考えたメレンドルフ大佐が歩兵と砲兵を連れてここを襲撃、オーストリア軍をこの村から追い出すことに成功しました。プロイセン軍はここで多数の大砲を鹵獲します。

この辺りでラシーの軍が到着しましたが、ツィーテン将軍率いるプロイセン軍の西側に対する牽制や、川の存在、さらにその辺りが深い沼地であったことなどにより、攻撃することができませんでした。後からダウンの軍が遅れてきましたが、時すでに遅し。

ダウン元帥はラウドン軍の敗北を聞いて、撤退を始めます。

プロイセン軍は西から来ているダウン元帥とラシーのオーストリア軍本隊を警戒し、ラウドンの軍を追撃することはありませんでした。

 

損害

プロイセン軍 3500

オーストリア軍 9000 大砲 80門

 

その後

ダウン元帥率いるオーストリア軍はシュレジエンの南へと撤退。

こうしてフリードリヒ大王は、ロシア軍とオーストリア軍の合流を避けることが出来ました。

 

プロイセン軍では、この戦いの貢献者であるアンハルト=ベルンベルク公の連隊の名誉が、フリードリヒ大王によって回復され、短剣と帽子の飾りを再び装備することが許されたのです。

名誉回復したアンハルト=ベルンベルク公の連隊

 

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