背景
ハプスブルク家の相続の時、女性であることから、「ハプスブル家を女が相続するとは何事か」と、プロイセンからちょっかいを掛けられ、シュレジエン地方を奪われた、オーストリアの女帝マリア・テレジア。
彼女はシュレジエン地方を、プロイセン王のフリードリヒ2世から奪い返すために、士官学校の設立等の陸軍改革を筆頭に、様々な改革を行います。
さらにプロイセンを倒すため、ハプスブルク家の「女帝」マリア・テレジアは200年来犬猿の仲だったフランスの王家、ブルボン家とも和解し、これにロシアの女帝エリアヴェータが加わりプロイセン包囲網が築かれます。
こうして新興国プロイセンはフランス、オーストリア、ロシアの3大列強に囲まれ、周りを敵だらけになったプロイセンが対処できるのは、内線作戦を取り、自国に侵入してくる敵軍を各個撃破することだけ。
プロイセンの運命は風前の灯火のはずでした。
しかしオーストリアの女帝マリア・テレジアは自国の侵攻軍を自身の夫、神聖ローマ皇帝フランツ1世の弟、カール公子に任せてしまいます。
実はこのカール、お世辞にも軍事的才能があるとは言えず、昔マリア・テレジアがハプスブルク家を相続した時に、プロイセンを皮切りに他国が続々と介入して来たオーストリア継承戦争の時も軍事的な失敗を犯していました。
しかし、今回も女帝マリア・テレジアの手によって、カールはオーストリア軍の司令官の任に就きます。
ただし今回は優秀な指揮官であるダウン元帥を補佐につけていましたし、プロイセンは外交戦略上すでに敗北必至なので、それでも大丈夫かと誰もが思っていました。
その予想通り、フリードリヒ大王がロスバッハの戦いを行っている最中、カール率いるオーストリア軍はシュレジエン地方の中心都市であるブレスラウの攻略に成功。オーストリア軍はシュレジエン地方の支配を固めます。
しかしロスバッハの戦いで、フリードリヒ大王はおよそ2倍の戦力差にも関わらず、フランス・神聖ローマ帝国連合軍を損害比10倍以上で撃破。(数字だけ見ると信じられない・・・)
ブレスラウでオーストリア軍が打ち破って逃げ伸びてきたプロイセン軍の敗残兵をまとめて、ブレスラウに向かってきました。
これを知ったオーストリア軍はプロイセン軍を迎え撃つことにします。
こうして1757年12月5日、プロイセン軍とオーストリア軍の間に起こった戦いがロイテンの戦いです。
戦力差
プロイセン軍 33000
大砲 250門
オーストリア軍 66000
大砲 250門
戦闘
初期の小競り合い
(黄色部分は緑部分より高地です)
プロイセン軍とオーストリア軍の前哨との間に小競り合いがあったものの、オーストリア軍前哨はすぐに撤退。
将軍たちと戦略を練るフリードリヒ大王
ここでフリードリヒ大王は作戦を練ります。
戦力差は2倍、真正面から戦っても勝つのは難しいでしょう。
しかし、フリードリヒ大王はシュレジエン地方をオーストリアから奪ってから、毎年シュレジエンで軍事訓練を行い、地形を全て把握していました。
まさにホームグラウンドだったわけです。(力づくで奪った地方だけど、シュレジエンはプロテスタント系の住民が多く、住民としてはカトリックのハプスブルク家よりもプロイセンの方が良かった)
そこでフリードリヒ大王は思いつきました。
オーストリア軍の布陣と平行に、軍の機動を隠せるような丘陵が続いていたのです。
フリードリヒ大王はこれを利用して、オースリア軍に斜行して近づき、敵の左翼側面を突こうと試みました。
縦隊と横隊
ランチェスターの法則でご存知の方も多いかもしれませんが、縦隊(青)と横隊(赤)の戦闘では、圧倒的に横隊が有利です。
特に戦列歩兵による横隊の展開が重要となる、この時代の戦闘ではなおさらです。
戦闘正面に出せる火力が全然違うので、縦隊の後ろが何も働かない間に、続々と横隊にやられてしまいます。
つまり戦列の横っ腹を準備万端の横隊に突かれると、それだけで試合終了レベルのハンディキャップがあるわけですね。
フリードリヒ大王は丘陵に隠れてこっそりと敵軍左翼に近づき、有利な状況を作り出そうとしていたのでした。
こうして側面をとった後、青が左を向いたら青が有利になってますよね。
斜行
ロイテンの戦いが行われた12月5日の早朝、辺りには霧が立ち込めていました。
フリードリヒ大王がこの機会を逃すわけがありません。
午前4時に、プロイセン軍はオーストリア軍左翼に向け、行軍を開始。
しかしフリードリヒ大王は、ただ隠れてオーストリア軍左翼に回り込もうとしていただけではありませんでした。
フリードリヒ大王はオーストリア軍右翼に対し、騎兵と少しの歩兵の部隊を陽動として出しました。
すると、オーストリア軍は「右翼に回り込まれてしまう!」と、実際にはプロイセン軍が左翼にも回り込んでいるにも関わらず、逆の判断をして、予備の部隊を全て自軍右翼に回してしまいます。
こうしてオーストリア軍の戦力は右翼に集中し、さらに右翼の戦列が伸びたため、左翼で戦闘が起こった際の復帰が遅れる原因ともなりました。
しかし、これは少し仕方のないことでもあります。
なぜなら、このロイテンの戦いは、プロイセン軍がロスバッハの戦いで素早い機動を見せ、大勝利した直後の戦いだったからです。
(ちなみにプロイセン軍は厳しい訓練の結果、他国の軍の2倍の速度で行軍できる)
(さらにプロイセン軍は厳しい訓練の結果、他国の2倍の速度で射撃できる)
しかもプロイセン軍の陽動部隊は、さらに北へ北へと進み、敵軍が右翼に回り込もうとしていると信じ切っているオーストリア軍の右翼戦列をさらに伸ばしました。
指揮官であるカール公子どダウン元帥も、右翼に向かいました。
これが後に判断を遅らせる原因ともなってしまいます。
そしてプロイセン軍にとってラッキーなことに、敵軍が左翼から来るわけがないと考え、オーストリア軍左翼の指揮官は前哨を置いていませんでした。
これがプロイセン軍が左翼への斜行を成功させた理由の1つでもあります。
ちなみにこのオーストリア軍左翼の指揮官は、後にこの敗戦の責任を取らされています。オーストリア軍の司令官であるカール公子は皇帝の弟で偉すぎる人なので、責任取らせられないですから良いスケープゴートになりましたね。
そして、オーストリア軍が気づいたときには、すでにプロイセン軍は左翼への横隊を展開し終えていました。
この時、左翼指揮官は司令官カール公子に援軍を頼みましたが、カールはプロイセン軍は右翼から来ると信じ込んでいたため、援軍を送るのは左翼が壊滅して手遅れになってからになってしまいました。
オーストリア軍左翼指揮官は騎兵を使い、プロイセン軍を追い払おうとしましたが、横隊を展開し、さらに砲兵と歩兵による連携を取るプロイセン軍には焼け石に水でした。
こういう場面で役立ったのが騎馬砲兵です。
プロイセン軍の機動が他国の2倍のスピードなのは前述しましたが、砲兵の足が遅いのは皆さんもご存知の通りです。
フリードリヒ大王も数々の戦場を指揮してきて、必要な場所に砲兵が配置できずに悔しい思いをした場面も多々ありました。
こうして、砲兵に機動力を加えようとして編成されたのが騎馬砲兵です。
フリードリヒ大王以前にも30年戦争のスウェーデンや、18世紀初頭のロシア軍など騎馬砲兵を使っていた例はありますが、本格的に騎馬砲兵を使い始め(そして成功を収めた)のはフリードリヒ大王が初めてです。
騎馬砲兵とは、従来足が遅かった砲兵に騎馬させて、さらに大砲をたくさんの馬に牽かせることによって騎兵並みの機動力を加えたユニットです。
機動力と打撃力が加わって、まさに「ぼくのかんがえた最強のユニット」ですが、砲兵だけでも育成コストがかかる上に、それをまたコストが高い騎兵の側面を持たせるという、かなりお高いユニットとなりました。
しかしこの時代の主戦術である戦列歩兵はその戦術上密集しており、適切な場所に機動力を持って配置できる騎馬砲兵は、フリードリヒ大王のような戦術家が運用するとすさまじい戦果を挙げることができました。
さて、本邦でのロイテンの戦いの説明では、「フリードリヒ大王が斜行し、敵側面を突いて勝利した」で終わらせるのが通例です。(なぜフリードリヒ大王の人気の割には七年戦争の日本語文献が少ないのか疑問に思う)
しかし、オーストリア軍の名誉にかけて言いますと、彼らは側面を突かれてそのまま敗走したわけではありませんでした。
まず、プロイセン軍に側面を突かれたと、ようやく気付いたカール公子とダウン元帥は、オーストリア軍を全体的に反時計回りに回転させ、プロイセン軍と正面から対陣しようと試みました。
しかし、この時オーストリア軍の戦列は10キロにまで伸び切っており、北に伸び切っていた戦列をプロイセン軍の正面に持ってくるのだけでもかなりの時間がかかり、その間にオーストリア軍の左翼は大変な攻撃に曝されていました。
ここでオーストリア軍は、指揮所が設けてあったロイテン村に立てこもり、戦況を立て直そうと試みます。これが「ロイテンの戦い」と呼ばれる所以ですね。
このロイテン村、村と聞いて私たち日本人は「それほど大したことはないだろう」と思いがちですが、さすが海外の村で、石造りでできた建物がたくさんあり、即席の要塞と化しました。日本の村だと木造建築なので、先入観で簡単に攻略できそうなんですけどね。
このロイテン村を攻略するため、かなりのプロイセン軍が犠牲となりました。
フリードリヒ大王はプロイセン軍左翼の予備歩兵を大量に突入させ、ロイテン村に侵入することに成功します。
ロイテン村の教会の壁を崩して突入するプロイセン擲弾兵
村の中にプロイセン軍が入っても、オーストリア軍はロイテン村の教会等に立てこもり、徹底抗戦を試みます。
しかしその教会は壁が崩され、プロイセン軍の擲弾兵によって乗り込まれて制圧されることとなります。
オーストリア軍の指揮所が設けてあった教会に突入するプロイセン軍擲弾兵
ちなみに擲弾兵は歩兵のエリート部隊であり、擲弾兵の帽子は縦に長いのですぐに分かる。そもそも擲弾兵は手榴弾のようなものを投げる部隊であり、横に長いと投げる時に邪魔になるから帽子が縦に長くなったのだ。でも戦列歩兵戦術が流行ってくると近づいて擲弾を投げる前にやられてしまうので、エリートという側面だけが残った。
プロイセン軍がロイテン村に突入してから1時間後、オーストリア軍はロイテン村から撤退し、村の周りにあった風車の辺りに陣取り、さらに抗戦を試みます。
この頃には、ようやく北に伸びていたオーストリア軍が戦闘に復帰し始めていました。
プロイセン軍が上手いこと敵側面を突けたといっても、元々の戦力差は2倍。
さらにロイテン村という即席の要塞で戦列を立て直す時間を稼げたため、ここでプロイセン軍は押され始めます。
特に北から戻って来たオーストリア軍歩兵はプロイセン軍左翼に集中したため、フリードリヒ大王は左翼に全予備歩兵を投入するほど追いつめられていました。
しかし、オーストリア軍は急いでやって来たため混乱し、戦列を伸ばすことができずギュウギュウに密集していました。
そこで役立ったのが砲兵です。
丘の上に陣取った左翼の砲兵が密集状態のオーストリア軍に向け、大砲をドッカンドッカン撃ちまくったのです。
密集状態での砲撃はとてもヤバイです。ゴリゴリ戦力を削られますし、特に隣の仲間の手足が吹き飛ばされて士気が下がります。
本邦で有名な斜行戦術よりも、この砲撃が戦闘の趨勢を決めたと信じてる人も居るぐらいです。
そこでオーストリア軍も右翼の騎兵を投入し、プロイセン軍の左翼を急襲して、この悪い流れを変えようと試みました。
しかし、その試みは左翼に置かれていたプロイセン軍の騎兵によって防がれ、さらにオーストリア軍右翼騎兵はプロイセン軍に包囲されてしまいます。
オーストリア軍右翼騎兵指揮官は、大砲で頭を吹き飛ばされて亡くなり、指揮官を失ったオーストリア軍右翼騎兵は混乱を来して自軍歩兵戦列に飛び込み、さらに戦闘に混乱を招きました。
こうしてオーストリア軍は敗走することとなります。
その後
プロイセン軍はオーストリア軍を追撃しようとしましたが、雪が降ってきたため、フリードリヒ大王は追撃の中止を命令しました。
この時プロイセン軍は勝利のため神に感謝する賛美歌を歌ったそうですが、戦闘に勝って賛美歌を歌うのは、仏教・神道の影響が濃い日本からすると、少し妙に感じますよね。まあ本当のことかどうか分かりませんが。
その後近くの町に入ったフリードリヒ大王は、そこで一夜を過ごそうと城を見つけて入ったら、逃げ伸びたオーストリア軍将校がたくさんいたので、
「こんばんは! 俺がここに居てビックリしたかな? 部屋は空いてる?」と元気よく尋ねたそうです。
ここでオーストリア軍将校が勇気を出してサーベルでフリードリヒ大王を斬ってたら歴史が変わってたでしょうね。
損害
プロイセン軍 6344
内訳
- 死者 1141
- 負傷者 5118
- 捕虜 85
オーストリア軍 22000
内訳
- 死者 3000
- 負傷者 7000
- 捕虜 12000
- 大砲 116
その後
フリードリヒ大王はシュレジエン地方の中心都市ブレスラウを攻略し、再び戦略的にも、経済的にも重要なシュレジエン地方をオーストリアから奪還しました。
この勝利によってフリードリヒ大王はオーストリアの「女帝」マリア・テレジアと和睦が結べるだろうと考えていました。
しかし、マリア・テレジアは「あくまでもシュレジエンを奪還しない限り、戦争は終わらない」と頑なな態度を取りました。
そしてここに至ってようやく軍事的才能の無い義弟のカール公子を指揮官から更迭し、ダウン元帥を総司令官としてフリードリヒ大王を撃滅する不退転の覚悟を示したのでした
カール公子はこの後、オーストリア領ネーデルラントの総督となり、こっちの内政の方では上手くやったそうです。
マリア・テレジアの夫である神聖ローマ皇帝フランツ1世も領地経営上手くて、死後にかなりの財産を残しましたから、兄弟揃って内政は上手かったようですね。しかし残念ながら軍事的才能は無かったと。
ダウン元帥はこの後、フリードリヒ大王との決戦を避け、小国のプロイセンに徹底的に消耗戦を強いる作戦を取り、大王を苦しめました。
そもそも大国3国と新興国の戦いなのですから、無理に決戦を挑んで各個撃破される必要は無いんですね。
しかしこういう決戦を避ける作戦というのは、やられるとかなりウザくて結構効果があるんですが、かっこ悪いからか、かなり批判を浴びてしまいます。
ローマとカルタゴの第二次ポエニ戦争でも、戦術家ハンニバルとの決戦を避け、持久戦を取っていたら「のろまのファビウス」とか言われてたローマの指揮官も居ますし・・・。(ファビウスはその後「ローマの盾」と手のひらを返されました)
というわけでダウン元帥も御多分に洩れず、厳しい評価がされていますが、フリードリヒ大王に決戦を挑んで大敗するぐらいなら、じっくり締め付けて行って消耗を強いる作戦が悪かったとは一概には言えません。
しかし時間を稼いだところで、ロシアの女帝エリザヴェータが死亡して、ピョートル3世が盤面を全部ひっくり返してしまったという奇跡を呼び込んでしまうのも歴史の面白い所です。
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