クーネルスドルフの戦い【ブランデンブルクの奇跡】

背景

オーストリア継承戦争で、プロイセンを率いるフリードリヒ大王にシュレジエン地方を奪われたマリア・テレジア。

マリア・テレジア

 

彼女は奪われたシュレジエンを奪還するため、200年来敵対していたフランスのブルボン家と和解し、これにロシアが加わってプロイセンの包囲網ができあがりました。

 

プロイセンは周りを列強に囲まれ、絶体絶命のピンチ。

しかしプロイセンの兵士は精強で、訓練が過酷な分、他国よりも射撃速度が速く、行進も素早く、さらにフリードリヒ大王の戦術も伴って、七年戦争最初の内は圧倒的不利な状況も跳ね返して善戦していました。

しかしロシア軍とのツォルンドルフの戦い、ホッホキルヒの戦いで兵を失い、特にホッホキルヒの戦いでは、ダウンが追撃を行わなかったからなんとか冬の間に軍の再編を行えたものの、プロイセンの未来には暗雲が立ち込めていました。

ホッホキルヒの戦い

 

大王はシュレジエンにて、オーストリア軍の主軍を引き付けていましたが、その間にもロシア軍がポーランド西部に進出して来て、カイの戦いでプロイセン防衛軍を撃破。

ロシア軍指揮官サルトゥイコフは、そのままプロイセン第2の都市であるフランクフルト・アン・デア・オーダーを占領するために西へと進みました。

これに焦ったフリードリヒ大王は、ザクセンから出発し、敗残兵を吸収しながら引き返しましたが、そこには既にロシア軍がフランクフルト東のクーネルスドルフにて陣地構築を完了していました。

 

さて一方ロシア軍の指揮官サルトゥイコフは、これだけ有利な立場に立ったのだから、オーストリア軍は全軍をあげて援軍にやってくると思っていました。

しかしやって来たオーストリア軍の援軍はラウドン率いる23000のみ。

ラウドン

 

ちなみにオーストリア軍総指揮官ダウン元帥は、アンドレアス・ハディク率いる軍も援軍として出していましたが、彼はラウドン率いるオーストリア軍とロシア軍を合流させるために、プロイセン軍を引き付けていたので遅れていました。

 

さて、ロシア・オーストリア連合軍の陣地では、フランクフルトからクーネルスドルフまで走る強固な野戦陣地が築かれていました。

逆茂木や凸角堡、傾斜壁まで準備されるほど万全だったようです。

斥候からフリードリヒ大王の接近を聞かされたサルトゥイコフは、フランクフルトから物資を全て略奪しました。

 

大王は北の方で舟橋をかけ、夜間にオーデル川を渡河。

連合軍の陣地から見て、プロイセン軍は北東側に居ました。

 

フリードリヒ大王は、森林警備官とフランクフルトの元官吏を伴い、偵察を行います。

そして、地元の農民に地形について、詳細に聞き込みをしました。

そこで大王は思いつきます。

 

クーネルスドルフの周りには深い森が広がっていました。

ここで、ロイテンの戦いの時のように、北からの陽動を出し、そちらからの攻撃と見せかけ、本隊は迂回して東から攻撃しようと。

この時、連合軍では大王は西から攻撃してくると考えて、西の方を向いていたので、東から攻撃して混乱させてやろうという魂胆もありました。

しかし、ロシア軍指揮官サルトゥイコフは11日午後、フリードリヒ大王は西から来るのではないと気づき、軍を東に向けて反転させます。

 

戦力

プロイセン軍 50000

ロシア・オーストリア連合軍 64000

 

戦闘

プロイセン軍は1759年8月12日午前3時、行動を開始。

行軍している途中で、フリードリヒ大王は敵軍が西から東、つまりこちら側へと軍を向きなおしたのに気づきました。

さらに、クーネルスドルフの辺りに、事前の偵察では気づかなかった小さな池がいくつかあったため、作戦を変更して池の手前で戦力を集中し、敵左翼を攻撃することとします。

この作戦の変更による配置変更には時間がかかり、その間にサルトゥイコフは自軍左翼に向けて戦力を集中する猶予が生まれました。

しかもプロイセン軍が行進している森は思っていたよりもかなり深く、ところどころ沼地があったりして兵士の体力を奪い、大砲の運搬を困難にし、しかも当日はかなり暑く、強行軍でこの戦場に来た兵士たちの体力を奪いました。

しかし、なんとかプロイセン軍は所定の位置に着き、攻撃が開始します。

プロイセン軍の歩兵と胸甲騎兵が砲兵の支援を受けつつ前進を開始、敵左翼が陣取る丘の上に対して猛攻をかけます。

サルトゥイコフは擲弾兵を援軍として送るも、プロイセン軍は多大な損害を出しつつも北の丘の奪取に成功。そこにあったロシア軍の大砲を鹵獲して、逃げるロシア軍に向けて撃ち始めました。

この時、南へと潰走するロシア軍に向けて大規模な騎兵による追撃が行えていれば、一気に戦局を覆すことができたかもしれませんが、プロイセン軍騎兵の大部分は歩兵の後方に居たため、追撃に投入するには間に合いませんでした。

 

さて、その間にヨハン・ヤーコブ・フォン・ヴンシュ率いる4000のプロイセン軍がフランクフルトを占領しました。

この時点で、ロシア・オーストリア連合軍は東西を挟まれる形となっていました。圧倒的に連合軍が不利な状況です。

しかし、プロイセン軍の方も先ほどの戦闘で消耗し、さらに強行軍で押して来たため、兵士の疲労がピークに達していました。

だからプロイセン軍の指揮官たち、特にハインリヒ王子は、大王に攻撃の中止を提案します。

 

しかし、フリードリヒ大王は欲張って、さらなる勝利、完全勝利を望みます。

プロイセン軍が攻撃を止めずに、さらにこちらに進んで来る様子なのを見たサルトゥイコフは予備兵力を使って陣を増強。

プロイセン軍は攻勢をかけ、いったんは敵軍を突破できそうになりましたが、凄まじいロシア軍の砲撃によって失敗します。というのも地形の影響で戦列を拡げられず、プロイセン軍は火力が集中できなかったからです。

ザイトリッツ将軍はこの時点で諸将を代表し、大王に対して明日まで攻撃を中止するか、撤退を進言しましたが、大王はそれを受け入れずに攻撃を命令します。

ザイトリッツ将軍率いる騎兵部隊は、大王の命令通り陣地を固めた敵軍に対し突撃を試みましたが、点在する池や沼によって騎兵が一体とならずに細分化されたため、突進力が乗らず、また大砲によって大損害を被って壊滅しました。

ザイトリッツ自身も、敵のブドウ弾により重傷を負い、ヴュルテンベルク公オイゲンに指揮が引き継がれます。

 

そもそも騎士の時代の重騎兵でもない限り、騎兵は敵軍の弱点を上手くつく運用が必要なのであり、ザイトリッツのような天才的な騎兵指揮官でも、十分に陣地が構築された敵軍に対しては騎兵ではどうにもならなかったのです。

日本でも長篠の戦いで、武田騎馬隊と野戦築城した織田信長が戦って信長が勝ってますしね。

 

こうして騎兵の突撃も失敗し、プロイセン軍騎兵は連合軍の騎兵に側面を突かれて敗走しました。

 

しかしフリードリヒ大王は、この期に及んでも攻撃を敢行し続けます。

この戦いで負けたら終わりだという認識だったのかもしれませんし(実際そうだったのですが)、それにプロイセン軍の兵士ならイケると思っていたのもあったのかもしれません。

でもこの頃のプロイセン軍兵士は戦争開始当初の訓練万全のベテラン兵たちは、ほとんど戦死しており、新兵ばかりで練度が低かったのです。だからフリードリヒ大王がベテラン兵のように指揮しようとしても、練度の差で自分の思うように動かない、ということもあったのかもしれません。

とにかく、フリードリヒ大王はこの戦闘での勝利にこだわり続けました。

 

しかしいつの間にかプロイセン軍は敗勢濃厚になっており、大王自身の馬が2匹射殺され、ポケットの中に入れていた金の嗅ぎ煙草入れが敵の銃弾を跳ね返して命が助かったほど敵軍が間近に迫っていました。悪運強いなあ。

 

戦闘では両軍とも疲弊しきっていましたが、連合軍にはオーストリア軍の予備の兵士たちが残っていました。

この気力十分のラウドン率いる騎兵がプロイセン軍を左翼から攻撃し、プロイセン軍の戦線は遂に崩壊。新兵ばかりの兵士たちは我先にと逃げ出します。

 

フリードリヒ大王すでに負けたのを認めることが出来ず、戦線から逃げ出す兵士たちに対し軍旗を振りかざしながら、「私の子供たちよ、私の下に集え! さあ!」と必死に逃走する兵士たちを食い止めようとしました。

しかし、大王の必死の呼び掛け空しく、プロイセン軍兵士たちは大王を無視して逃げます。

 

ここに来てロシア軍指揮官サルトゥイコフはダメ押しにコサック騎兵と、カルムイク騎兵を投入。

周りにプロイセン軍兵士たちが居なくなり、ついにフリードリヒ大王自身も小さい丘の上で、コサック騎兵に包囲されてしまいます。

この時、騎兵大尉ヨアヒム・ベルンハルト・フォン・プリットヴィッツが血路を開き、ユサールに護衛されながら、なんとか大王は退却することができました。

プリットヴィッツに救出されるフリードリヒ大王

 

損害

プロイセン軍 20000 大砲 172門

 

連合軍

ロシア軍 13500

オーストリア軍 2300

 

ブランデンブルクの奇跡

大敗を喫したフリードリヒ大王の手元には、わずか3000の兵しか居ませんでした。このような寡兵で、敵に追撃をかけられれば負けるに違いなく、さらにプロイセンの首都ベルリンまで80キロ、ガラ空き状態でそちらに行かれるという可能性もありました。

大王はこれに絶望し、こんな手紙を書いています。

大王の手紙

今朝の11時、私は敵軍に攻撃を仕掛けた。…(中略)…私の兵士たちは驚くべき働きをして見せたが、その代償はあまりにも大きかった。我が兵は混乱しきっていた。

私は3度も彼らを再編した。最後には私は捕縛の危険に晒され、逃走するほかなかった。銃弾が私の上着を掠め、私の2頭の馬は射殺されてしまった。

私が生き残ったことは不運でしか無い…(中略)…我々の敗北は甚大である。48,000名のうち留まったのはたった3000名でしかない。

 

こうして私が手紙を書いている間にも、皆は次々に逃げて行く。私は既にこの陸軍の司令官ではない。

ベルリンの皆の安全について考えるのは良い活動だ…(中略)…私が死んで行くのは悲惨な失態だ。戦いの結果は戦闘そのものよりもさらに悪くなるだろう。

 

私にこれ以上の手段はなく、そして正直に言って、全ては失われたのだと思う。私は生きて祖国の滅亡を見たくはない。さようなら、永遠に!

https://ja.wikipedia.org/wiki/ブランデンブルクの奇跡

 

実際、騎馬砲兵は全滅、60%の騎兵が死傷、大砲172門を失い、8人の大佐が死亡、頼れる騎兵指揮官ザイトリッツ将軍も重傷であり、

イッツェンプリッツ中将、アントン公子、クリッツィング少将もこの戦いでの負傷がもとで戦死します。

こんな絶体絶命の状況の中、敵が攻勢をかけてくればプロイセンは滅亡必至の状態でした。

 

しかし、この大勝利にも関わらずロシア軍、オーストリア軍ともにベルリンには進軍せず、フリードリヒ大王を攻撃することもせずに、無為に時を過ごし、大王は数日して集まって来た敗残兵を取りまとめてプロイセン軍の再編に成功します。

このブランデンブルクの奇跡により、大王は首の皮一枚でプロイセン王国滅亡の危機を脱することができたのでした。

 

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