コリンの戦い【七年戦争戦史】

背景

フリードリヒ大王率いるプロイセン軍は、プラハの戦いでブロウネ元帥とカール公子率いるオーストリア軍に勝利し、プラハに逃げ込んだカール公子率いるオーストリア軍が居るプラハを包囲していました。

フリードリヒ大王

 

しかし、ここでダウン元帥率いるオーストリア軍の援軍が向かってきて、プラハの戦いで落ち延びた敗残兵を吸収しつつ、プラハ近郊の丘に陣取り、プロイセン軍に圧力をかけました。

ダウン元帥

 

ここでダウン元帥は、すぐにはプラハに向かわず、じっくりとガチガチに陣を固めます。

プロイセン軍がプラハを包囲している軍を分け、包囲しつつもこちらに向かってくるなら送り込まれた少数の兵を各個撃破できますし、応じる様子が無いのなら、プラハに出向いて包囲しているプロイセン軍を籠城しているオーストリア軍と共に挟撃できるから、焦る必要などは無かったのです。

それに、ここでダウン元帥が負けてしまうと、オーストリアの首都ウィーンまでの通路がガラ空きとなり、ウィーンに直接乗り込まれる恐れもあったからです。

だからダウン元帥はじっくりと陣を固めていたのです。まあダウン元帥は元々守るのが得意なタイプなのもあるんですけどね。

 

ダウン元帥がプラハ救援に向かっているとの情報を得たプロイセン軍は、軍を分けてベーヴェルン率いるプロイセン軍をダウン元帥の下に派遣します。

この時点でプラハの包囲をしているプロイセン軍よりも、プラハに籠城しているオーストリア軍の方が兵数が多いという奇妙な状況に陥っていましたが、プラハ内の指揮官カール公子は頑なにプラハの町から出てきませんでした。

まあ戦の下手なカール公子と、今でも名が残る戦術家のフリードリヒ大王の戦いなら兵力差3倍でも負けそうだから、妥当な判断じゃないでしょうか。そもそもカール公子任命しなきゃこんな状況になってないでしょうけど、この頃オーストリアでは偉い貴族が軍を率いなけばならないとかいう面倒な因習も影響してたみたいです。しかし、そのせいでカール公子は後世に至るまで無能の烙印を押されることになります。

カール・アレクサンダー・フォン・ロートリンゲン(軍事はさっぱりだったが、兄フランツ1世同様内政は上手かった)

 

ベーヴェルンを送り込んだ後、フリードリヒ大王はダウン元帥を迎撃するため、プラハに最低限の包囲軍を残し、36000の兵を率いてプラハを出発します。カール公子は完全に舐められていますね。

 

さて、偵察してダウン元帥の布陣を把握したフリードリヒ大王。

今回の彼のプランはオーストリア軍右翼に戦力を集中させ、包囲することでした

オーストリア軍が陣取る丘と平行に、ボヘミアを東西に走る道があるので、ここを進み、右にターンして敵右翼を撃破しようということですね。

この計画にベーヴェルンとツィーテンは反対しましたが、「あのオーストリア軍に負けるわけがないだろう」と大王は余裕しゃくしゃくで押し切りました。七年戦争が始まってからプロイセン軍は無敗で、慢心していた部分もあったのかもしれません。そもそも敵正面を横切るとか正気の沙汰じゃないですし。

しかし、ダウン元帥はカール公子とは違って甘くはありませんでした。

 

戦力

プロイセン軍 34000

オーストリア軍 54000

 

戦闘

プロイセン軍が事前の計画通り道沿いに東へと進んでいくと、オーストリア軍の砲撃や、道沿いに散発的に襲ってくるオーストリア軍のクロアチア軽歩兵にちょっかいをかけられ、大王は初期の計画である敵右翼攻撃をあきらめ、早めに右に曲がって敵正面攻撃に踏み切りました。

この時モーリッツが必死に当初の計画通りの敵右翼攻撃を主張しましたが、聞きいられず、モーリッツもしぶしぶ従うことになります。

 

さて、正面からの戦闘となれば、いくら精強なプロイセン軍が相手とは言え、強力な陣地が構築されており、数的優位があり、高地を取っているオーストリア軍の方が有利に決まっています。

ですからプロイセン軍がやってきた時、オーストリア軍は待っていましたとばかりに、丘の上から砲撃をお見舞いし、重大な損害を与えました。

 

プロイセン軍は砲撃によってまとまりを失い、フリードリヒ大王の得意な局所的優位をつくることも出来ず、元々兵力で勝るオーストリア軍に押されて、怯みます。

大王はこの時、進軍に躊躇するマンシュタイン麾下の歩兵部隊に対し、「おい畜生ども、永遠にでも生きるつもりか?」と言う有名な言葉をかけました。

しかし精神論で戦争に勝てるわけも無く、プロイセン軍はオーストリア軍に元来た道にまで追い詰められ、退却します。

この時、ザイトリッツ大佐がオーストリア軍の追撃を、胸甲騎兵の先頭に立って突撃し、上手く阻止しました。

 

そしてプロイセン軍の撤退が完了。

ダウン元帥は逃げたプロイセン軍を深く追うことはありませんでした。

 

損害

プロイセン軍 14000

オーストリア軍 8100

 

その後

フリードリヒ大王は七年戦争初めての敗北を喫し、プラハでの包囲を解き、フランスとロシアの介入前にオーストリアの首都ウィーンを襲撃することをあきらめざるを得ず、ボヘミアを去りました。

このオーストリア軍の勝利を聞いた、プロイセン包囲網の同盟国は、「大王をもってしても、無敵ではないのだ!」とプロイセンに向けての進軍を勢いづかせます。

こうしてプロイセンは最悪の状況に陥っていましたが、ベテラン兵が多数死亡して軍が壊滅状態、四面楚歌の状態からおよそ5か月後、歴史的なロスバッハの戦いという大勝を収めることになるのです。

 

ダウン元帥はこの後プラハを解放し、オーストリアの宮廷はこのハプスブルクの大勝利に沸き立ちます。

そしてダウン元帥にマリア・テレジア軍事勲章が贈られました。

ちなみに、この時なんの役にも立ってないカール公子もマリア・テレジア軍事勲章を賜っています。

 

一方フリードリヒ大王はベテラン兵を多数失い、戦略的にも戦術的にも失敗を犯した、この戦いに酷く落ち込みます。

コリンの戦いの後、落ち込むフリードリヒ大王

 

しかし、この戦いの2日後、一人の男がこの戦いでの功績を認められ、プール・ル・メリット勲章を賜り、少将へと昇進しました。

それが天才的な騎兵指揮官ザイトリッツです。

ザイトリッツ

 

彼はツィーテン中将に、この昇進を祝福された時、「閣下、私にこれ以上の仕事を求めるのであれば、もう待てないところでありました。私はもう36歳なのです」と答えました。

彼はこの言葉通り、フリードリヒ大王の右腕となって、この後の数多のプロイセン軍の戦いを勝利へと導くことになるのでした。

 

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