背景
ロスバッハの戦い、ロイテンの戦いで勝利を収め、イギリスから多額の財政支援を引き出したフリードリヒ大王。
彼は東からオーストリア軍に合流しようとやってくるロシア軍をツォルンドルフの戦いで撃破し、残ったロシア軍の警戒のため、ツォンドルフ村近くのポンメルンに半数の兵を残し、ザクセンを攻めているダウン元帥の下へ向かいました。
ロシア軍が退却し、オーストリア軍と合流できないと知ったダウン元帥は、プロイセンの首都ベルリンを攻め込むリスクを取るよりは、このままザクセンの都ドレスデンを攻撃し続けようとしていたのです。
プロイセン軍はオーストリア軍を挑発しながら睨み合いを続けましたが、ダウン元帥率いるオーストリア軍は、逃げるわけでもなく、かといって攻撃するわけでもなく、プロイセン軍と一定の距離を取り続けました。
ダウン元帥は、自分が絶対に勝てると確信するまでは、手を出さなかったのです。
10月10日、ダウン元帥がザクセンのホッホキルヒ村の東の丘に陣取っていた時、プロイセン軍は大胆にも近くのホッホキルヒ村に陣を敷きました。
そこでバウツェンからの食糧の補給を待ち、そして東へ移動するつもりだったのです。
この時、北部のワイセンベルクにはレッツォウ将軍率いる9000のプロイセン軍別動隊が置かれています。
プロイセン軍ではこの危険な布陣に将軍たちが反対しました。特にヤーコブ・フォン・カイトは、「オーストリア軍が我々の陣を見て攻撃しないならば、絞首刑に値する」と反対意見を述べましたが、大王は、「ならば、奴らが絞首台より我々を恐れることを期待するとしよう」と取り合いませんでした。
これまでもダウン元帥は、何度挑発をしかけても攻撃してこなかったので、大王はダウン元帥をナメきっており、まさか攻撃してくるとは夢にも思わなかったのです。
ダウン元帥も、いつも通りリスクを取らずに攻撃は行わないつもりでした。
しかしオーストリア軍の諸将に防御的すぎる姿勢を突き上げられ、攻撃を行うことになります。そこで数日にわたって地形と計画を念入りに検討。
最終的に、戦いの前の日に、フランツ・モーリッツ・フォン・レイシーの作戦が採用され、実行に移されるのでした。
オーストリア軍は森林を伐採し、プロイセン軍への道をつくりました。
これはプロイセン軍も承知していて、フリードリヒ大王も知っていましたが、大王はこの伐採した木を陣地構築に使うのだろうと思い、実際にオーストリア軍もそのように偽装していので、気に留めていませんでした。
こうして準備が整い、1758年10月14日に起こったのが、ホッホキルヒの戦いです。
戦力
プロイセン軍 3万
オーストリア軍 8万
戦闘
オーストリア軍は夜の内に陣を出発し、息をひそめて攻撃の時間を待っていました。
10月14日午前5時、教会の鐘の音が鳴ると同時に、潜んでいたオーストリア軍が突撃を開始。
攻撃された時、プロイセン軍のほとんどが眠っていました。
さらに悪いことに、辺りには早朝の霧が漂っていて、何が起こっているか分かりにくかったのです。
オーストリア軍は、すぐに南に配置してあったプロイセン軍の大砲を鹵獲し、プロイセン軍の陣地に向けて撃ち込んだりしました。
さて、この騒ぎに起きたフリードリヒ大王ですが、彼はホッホキルヒ村から離れた村に居たため、この銃撃の音が奇襲なのかどうか判断がつきませんでした。
というのも、オーストリア軍のクロアチア軽歩兵が毎朝嫌がらせにきてたので、今回もその戦闘の音かもしれないと思っていたのです。
しかし、ホッホキルヒ村に攻撃が加えられていると聞いた大王は、反撃を決意。
すぐにホッホキルヒ村に何大隊か送り込みます。
ホッホキルヒ村では、教会を即席の要塞と化し、プロイセン軍による必死の抵抗が行われておりましたが、オーストリア軍に制圧されかかっていました。
しかし、ツィーテン将軍率いる騎兵隊の働きや、フリードリヒ大王の送った援軍により、一時的に村を取り戻すことができました。
ただ、凄惨な戦闘が行われていたことには変わりなく、このホッホキルヒ村での戦いであまりにも死者が出たため、戦いの後に「血の通り」と呼ばれることになる通りも出てきた程でした。
さて、プロイセン軍が寝静まっていた所をオーストリア軍が奇襲したにもかかわらず、素早く反撃体制を整えたプロイセン軍は互角の勝負をしていました。
大王自身もホッホキルヒ村に向かおうとしましたが、乗っている馬がオーストリアの歩兵による銃撃によって倒れ、ユサールによって救出されています。
朝の午前8時までに霧は晴れ、陽は上がり、兵士たちはようやく敵味方の区別がつくようになってきました。
大王は別動隊であるレッツォウ将軍に、本隊と合流することを指示。レッツォウの軍と合流してから本格的な反抗をしようと考えました。
そしてプロイセン軍にホッホキルヒ村からの撤退を指示、北西の方に新しい陣を敷くことを決め、10時までにはレッツォウの軍と合流することができ、撤退は完了しました。
この時、徹夜で警戒を怠らなかったツィーテン将軍とザイトリッツ将軍の騎兵の殿部隊がプロイセン軍の撤退を補助しました。
オーストリア軍は追撃を加える絶好のチャンスでしたが、奇襲に成功したにも関わらず深入りするのを恐れ、さらに別動隊のレッツォウの軍との合流を許してしまい、千載一遇のチャンスをふいにして、元居たホッホキルヒ村東の丘の陣地に戻りました。
損害
プロイセン軍 9000 大砲 100門
オーストリア軍 6500
特にプロイセン軍は大砲を捨てて陣地から撤退したため、貴重な大砲と物資を失うことになってしまいました。
さらにプロイセン軍側は5人の将軍を失ってます。
結果
オーストリアの「女帝」マリア・テレジアの誕生日にシェーンブルン宮殿に集まっていたオーストリアの貴族、皇族たちは、この奇襲の成功の報を聞いて大喜びしました。
逆に、諸将の警告にも関わらずホッホキルヒ村での無様な失敗をしてしまい、さらに最愛の姉ヴィルヘルミーネの死の報を聞いたフリードリヒ大王は、1週間ほどテントの中で悶々として過ごしました。
しかし、せっかくの奇襲成功にも関わらずオーストリア軍の追撃は失敗してしまったため、プロイセン軍は冬の間に軍を再建する時間を稼ぐことができました。
その後、プロイセン軍はシュレジエンに戻り、ダウンはまたザクセンのドレスデンを包囲しはじめましたが、軍を立て直したフリードリヒ大王がドレスデンに進出してきたため、ダウン元帥率いるオーストリア軍は撤退することとなります。