ブルケルスドルフの戦い【七年戦争戦史】

背景

トルガウの戦いでは、フリードリヒ大王率いるプロイセン軍が勝利したものの、プロイセン軍とオーストリア軍、両軍とも痛み分けの形となり、決定的な形とはならずに膠着状態に陥っていました。

冬の間に軍を再編したフリードリヒ大王は、オーストリア軍との決戦を避け、ロシア軍との合流を妨害するにとどめます。

 

1761年にはグレートブリテン(イギリス)の政治家、大ピットが失脚し、代わりに実権を握ったピュート伯爵がプロイセンへの財政支援を打ち切りました。

これによりプロイセンは長年の戦争で、他の列強と比べて比較的小国のため、枯渇した兵士となる人材の面でも、財政の面でも窮地に立たされましたが、主な敵であるオーストリアでも継戦能力が限界に近づいており、決め手に欠けていました。

 

そんな時、1762年1月5日にフリードリヒ大王の敵対者、ロシアの女帝エリザヴェータが死亡。ピョートル3世が帝位を継ぎます。

ピョートル3世

 

このピョートル3世は元々ドイツ出身でドイツ育ち、ロシア語もマトモに喋れなかったものの、ロマノフ家の血が入っているというだけで棚から牡丹餅でロシアの皇太子となっていた人物で、フリードリヒ大王の崇拝者でした。

そんな彼は即位後すぐに、昨日まで敵だったプロイセンと即時講和してロシア軍を退かせ、占領していた東プロイセンからも撤退。さらにプロイセンと攻守同盟を結び、プロイセンの敵から一転して味方に変わります。

そしてこの同盟に基づき、ロシア軍はプロイセン軍に援軍として駆けつけます。

 

しかし今まで損害を被りながらも、もう少しでプロイセンを倒し大きな権益を引き出せるという所で、こんな馬鹿げたことをしでかしたピョートル3世は、妻のエカチェリーナにクーデターを起こされ失脚。暗殺されてしまいます。

エカチェリーナ2世

 

こうして妻エカチェリーナがロシア皇帝エカチェリーナ2世として即位。ロシア軍の指揮官であるチェルヌイショフ伯爵に、今すぐプロイセンの援軍を打ち切り、ポーランドへと引き返すように命じます。

チェルヌイショフ伯爵からこれを聞いたフリードリヒ大王は、ダウン元帥率いるオーストリア軍を攻撃するところでした。大王は慌てて、「戦闘には参加しなくても良いので、3日だけはここにいて欲しい」と頼みます。

ロシア軍に軍を置いておいてもらい、敵であるオーストリア軍に圧力をかけるためですね。

ロシア軍の方も、「まあ3日だけなら良いか」と戦闘には参加しないことを条件に、滞在することを了承しました。

 

戦力

プロイセン軍 55000

オーストリア軍 75000

 

戦闘

戦闘が行われた場所は、山がちで、かつ深い森が多い地形でした。

オーストリア軍はここで、逆茂木や柵などで陣地を構築して守りを固めています。

しかしロシア軍を警戒するために兵を割かなければならず、左翼に戦力を集中せざるを得ませんでした。

青:プロイセン軍 赤:オーストリア軍 緑:ロシア軍

 

プロイセン軍は日の出前に行軍を開始、手薄なオーストリア軍右翼を攻撃します。

しかしここで別の任務についていたブレンターノ将軍の援軍が到着し、プロイセン軍は一旦は押し返されますが、谷間から敵陣地を迂回して徐々に敵陣地に浸透していきました。

 

次にブルケルスドルフ付近の中央部で戦闘が開始します。

ここではプロイセン軍による凄まじい砲撃で、襲撃しにきたオーストリア軍騎兵を追い払った後、大砲による支援砲撃をかけながら、歩兵に手薄な敵右翼側から迂回させて敵陣地を攻撃します。

 

さらにプロイセン軍右翼の方でも前進し、全体的に圧力をかけられ、オーストリア軍は撤退。プロイセン軍がこの戦いに勝利しました。

損害

プロイセン軍 1600

オーストリア軍 2500

 

七年戦争の終結

この戦いが終わった後、ロシア軍は女帝エカチェリーナの命令通り帰りました。

この七年戦争をしていた各国は長年続いた戦争により、もう戦争を続けるだけの体力も無く、かと言って敵を倒しきれるだけの戦力もありませんでした、

 

というわけでこれ以上戦争を続けられなくなった各国の交渉が始まり、翌年の1763年2月15日にフヴェルトゥスブルク条約が結ばれ、七年戦争は終結することとなります。

この条約により、オーストリアの女帝マリア・テレジアは、オーストリア継承戦争の時に分捕られたシュレジエン地方の奪還をあきらめ、プロイセンによる領有が確定することとなります。

 

こうしてプロイセンはヨーロッパの3大列強であった、オーストリア、フランス、ロシア、さらに神聖ローマ帝国やスウェーデンを相手にして戦い抜き、イギリスの財政支援を打ち切られるという最悪の状況に陥ったにも関わらず、勝利を収めることとなるのです。

プロイセンはこの七年戦争により、一躍ヨーロッパの列強へと躍り出ることとなり、各国はこぞってプロイセンの軍制を手本として軍の改革に乗り出します。

そして、この絶対的に不利、戦略的に絶望的な状況から勝ち残ったプロイセン国王フリードリヒ2世は、大王と呼ばれ、後世に至るまで語り継がれる名将となったのでした。

フリードリヒ大王

 

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