ダレイオス3世を追う
ガウガメラの戦いで、ダレイオス3世を降したアレクサンドロス大王。
しかしダレイオス3世は逃げ続けます。
彼を捕まえないと、いつまで経ってもペルシア帝国を完全に手中に収められません。
ダレイオス3世の逃げ足は速く、メディアに入り、パルティアに入っても、未だにダレイオス3世は捕まりませんでした。
しかしこうやって逃げ続けるダレイオスに、もはや王の威厳は無く。
最終的には逃亡生活に嫌気がさした、側近であるベッソスに暗殺されてしまいました。
このベッソスは、ガウガメラの戦いでペルシア軍の左翼を率いていた将軍です。
彼は王としての器が無いダレイオス3世を弑し、自らをペルシア帝国の後継者、アルタクセルクセス王と自称しました。
ダレイオス3世の遺体を見つけたアレクサンドロス大王は、ペルセポリスに遺体を送って丁重に葬り、壮大な葬儀を行いました。
なぜ敵であったダレイオス3世の葬儀を行うか疑問に思う人もいるでしょう。
これは権力者の葬儀というのは、とても重要な儀式であるということに由来します。
古来より、洋の東西を問わず、権力者の祭祀を取り扱ったものは、有力な後継者候補と見られる傾向があります。
ちなみに、アレクサンドロスが死んだときも、マケドニアに運ばれていたアレクサンドロスの遺体が、プトレマイオス朝エジプトを開いたプトレマイオスに強奪され、盛大な葬儀が行われています。
だから、死体を強奪してまで葬儀をしたいのです。
ちなみにそのプトレマイオスの子孫が、あの美女で有名なクレオパトラです。
アレクサンドロスは、「王を殺すなんて、ベッソスはなんて酷い簒奪者だ! 私がダレイオス3世の仇を取る!」と訴えました。
これを受け、ペルシア帝国前王のダレイオス3世の葬儀を取り扱ったことから、裏切り者のベッソスよりも、アレクサンドロスの方がペルシア帝国の正統な後継者とみられるようになります。
アレクサンドロスは軍事や都市建設だけでなく、政治も上手かったのですね。さすがはアリストテレスの弟子だけはあります。
ダレイオス3世の仇を取る
というわけで、ダレイオスの仇を取るため、こんどは逃げ続けるベッソスの後を追うこととなります。
アレクサンドロスは逃げ続ける反逆者ベッソスを、東へ東へと追い続けますが、最終的にベッソスは味方のスピタミネスに裏切られて捕まりました。
自分も裏切られたんですね。
捕まったベッソスは拷問を受けた後、ダレイオス3世が殺された場所にて、磔にして公開処刑されました。
アレクサンドロスは、ベッソスを裏切ったスピタミネスを信頼して先に進みます。
そのまま進むと、遊牧騎馬民族が超強かったので、「ここまでにするか」と「最果てのアレクサンドリア」という都市を建設している最中に、今度はスピタミネスが反乱を起こしたとの報が入ってきました。
このスピタミネス、遊牧民族と同盟を組んでゲリラ的に攻撃を仕掛けてきたので厄介でした。
天才のアレクサンドロスが居れば戦わずに逃げる、居なければ戦うという戦法を取ったので、超ウザかったようです。
しかしアレクサンドロスはこれに激怒し、物量作戦でスピタミネスの味方を虐殺して回ったので、スピタミネスは結局また味方に裏切られて殺されました。
マケドニアの兵士たちの不満
この頃、マケドニア軍内部では不和が起きていました。
中央アジアに来た頃、側近のクレイトスをバクトリアの総督に任命して、祝いの席が設けられていたときに、不満が噴出します。
ちなみにこのクレイトスは、グラニコス川の戦いで敵将校の腕を切り飛ばして、アレクサンドロスを守った人です。
クレイトスは面と向かって物を言うタイプで、酒も入っていたため軍の不満を代表して諫言し、アレクサンドロスとの言い争いがヒートアップしました。
さて、マケドニア軍の不満とは、アレクサンドロス大王のペルシアかぶれです。
例えば、ペルシアは臣下は王に拝礼する時、土下座のようなポーズを取っていました。
しかし、ギリシア世界では、例え王が相手であろうとも、自由人たる人間はそんなことはしないのです。
この辺、アジアとヨーロッパの文化的な違いみたいなのがありそうですね。
でもアレクサンドロスは、自身が王ではなく神の子だと自称しているので、「別に俺に土下座しても良いじゃん」とか思ってたそうです。
そんな感じで、クレイトスと「最近お前調子乗ってんじゃねーの?」とケンカになったのです。
アレクサンドロスだここまで偉くなった今、こんな諫言をできるのは古くからの側近の将校ぐらいだから大切なんですけどね。
アレクサンドロスが、「私はペルシアを征服するという、父のフィリッポス2世が成しえなかった偉大なことを成し遂げた!」と言い。
クレイトスは、「先王が軍の改革を行ったから、これだけの偉業を成し遂げられたのだ!」とケンカになります。
この時、アレクサンドロスは若干28歳。
酔って激情を抑えきれなくなったアレクサンドロスは、親友の胸に槍を投げてしまいました。
クレイトスが死んで酔いを醒ましたアレクサンドロスは、三日三晩部屋に閉じこもって哭き続けたそうです。
あと、パルメニオン将軍の息子がアレクサンドロスを暗殺するという話があったので、そいつを殺して、ついでにパルメニオンも暗殺していたりします。
それでも、まだまだアレクサンドロスの東征は止まりませんでした。
中央アジアを征服すると、今度はインドに入ります。
インド遠征
ここで目ぼしい戦いは、ヒュダスペス河畔の戦いですね。
インドの小国の王たちは、「噂のスゲーやつがインドに来るらしいぞ、ヤベーから降伏しようぜ」と降伏していったのですが、それと敵対する部族の王は、「あいつと一緒に降伏してしまうぐらいなら、戦うしかねーじゃん」と戦争になりました。
というわけでインドのポロス軍と戦闘になりますが、ヒュダスペス川の向こうに敵が陣を構えており、容易に渡れませんでした。
青:アレクサンドロス軍 赤ポロス軍
まっすぐ渡ると、渡河している最中に攻撃されて手も足も出ないですからね。
というわけでアレクサンドロスは、何度も軍を渡河させようとするフリを行います。
しかし結局何回やっても渡河せずに終わり、ポロス軍は「あいつら、どうせ川を渡らないんじゃねーの?」という雰囲気にさせます。
そして嵐がやって来るのが分かっていたのですが、「嵐が過ぎ去ったら渡る」という噂も流していたそうです。
こうしてポロス軍は一安心。
ところがビックリ。あらしのよるにアレクサンドロスの主力部隊が、離れた地点でこっそりとヒュダスペス川を渡っていたのです。
ポロスも警戒はしていたようで、渡河しているのを察知してすぐに息子に渡河を妨害させましたが、息子は戦死。
川を渡られたら戦うしかありません。こうして起こったのがヒュダスペス河畔の戦いです。
ヒュダスペス河畔の戦い
青:アレクサンドロス軍 赤:ポロス軍
これが布陣図です。
戦象という珍しい兵科が居ますね。ガウガメラの戦いでは、象兵を使っていたのはペルシア軍という素人でしたが、こちらは地元原産です。
さて、戦闘はまず騎兵同士がぶつかりました。
アレクサンドロスは、自軍騎兵の一部を歩兵の後方に置き、その姿を隠します。
アレクサンドロスの騎兵は、これまでの戦場によって精鋭部隊であり、スキタイ騎兵も加わって強かったので、すぐにポロス軍左翼騎兵は押され始めました。
ここで手の空いたポロス軍右翼の騎兵が、ポロス軍左翼騎兵を助けに行きます。
しかし、ここでアレクサンドロス軍の後ろに隠れていた騎兵が、ポロス軍の右翼騎兵を追撃。
包囲して殲滅されました。
さて、歩兵での戦闘が始まります。今回の目玉はなんといっても戦象。
やはり「でかい=強い」なので、さすがのファランクスも足止めさせるぐらいしかできません。
そこでアレクサンドロスは、軽装歩兵に象の目を狙わせました。
足元はファランクスの長槍でチクチクされるわ、目は投げ槍で狙われるわで、戦象はパニックを起こして暴れまわります。
象が暴れて制御不能になり、敵味方関係なく損害を受けましたが、より損害を受けたのは戦象に近いポロス軍でした。
というわけでポロス軍の左翼から段々と潰していき、この戦いも勝ちました。
地味に斜線陣使って各個撃破してる所も熟練さを感じさせます。
ポロスは最後まで象の上で奮戦しましたが、あえなく捕まえられ、アレクサンドロスの前に引きずり出されます。
ここでアレクサンドロスが、「どんな扱いを受けたいか?」とポロスに尋ねました。
するとポロスは、「王として」と毅然として答えます。
アレクサンドロスは、「やるじゃん」と思ってポロスを友人として扱い、仲間にしました。
ちなみにこの辺りでアレクサンドロスの愛馬、ブーケファロスが死んだようで、愛馬にちなんでアレクサンドリア・ブーケファリアという町をつくりました。
戦争して、政治して、町をつくって、こんな大仕事をこなしていたアレクサンドロスですが、彼はこの時まだ30歳でした。
ローマのカエサルも、30歳くらいの時に、「アレクサンドロス大王と同じ歳になったのに、私はまだ何も達成していない」と嘆いたのは有名ですよね。
ちなみに愛馬ブーケファロスは、大体アレクサンドロスと同じぐらいの歳だから享年30歳ぐらいで、このヒュダスペス河畔の戦いで戦死したのか寿命かは定かでは無いですけど、多分寿命だと思います。
アレクサンドロスはさらにインドの奥地へと征服しようとしましたが、兵士たちは、「俺たちゃもう一度、故郷や家族に会いてえ!」と進軍を拒否されました。
アレクサンドロスは不満でしたが、部下がついてこないなら仕方ありません。帰還することとなりました。
ゲドロシア砂漠
しかし帰りの道もスリル満点でした。
アレクサンドロスは、アケメネス朝ペルシアの大帝国を築いた初代国王キュロス2世が王弾に失敗した、ゲドロシア砂漠を横断して帰ろうとします。
でもキュロス2世をも拒んだ砂漠は、さすがにヤバかったです。
80日間の横断の間、水も十分に取れず、砂漠を乗り切った頃には、アレクサンドロスの軍は4分の1になっていました。
いくら精強な兵士でも、自然には勝てなかったのですね。
この砂漠を行進している時、兵士が一杯の水を見つけ、アレクサンドロスの元に持って来ました。
するとアレクサンドロスは、その水を払いのけ、地面に落として、「私は皆と共に、渇きに苦しむこととする」と言ったそうですね。
スーサ帰還
砂漠を抜けて、ほうほうの体でスーサに帰還したアレクサンドロス。
彼はスーサに帰るまでに、支配地域に任命しておいた、あちこちの総督や軍事政府が横暴していたのを見つけ、処刑していったりします。
彼らは、「ヨーロッパの田舎から戦に強い化け物が来たけど、もっと東に行ったぞ! あんな命知らず、そのうち死ぬだろ!」と思ってアレクサンドロスが帰ってくるとは思わなかったそうですね。
スーサに帰ると、アレクサンドロスはダレイオス3世の娘のスタテイラ2世と、アルタクセルクセス3世の娘のパリュサティス2世を嫁にしました。
ペルシアの王族の娘と結婚して、ペルシア帝国の正統な後継者であるということを権威付けしようとしたんでしょうね。
ついでにアジアとヨーロッパの民族・文明を融和させるため、部下のマケドニア兵士とペルシア女性との集団結婚式を行いました。
ただ、この政策はあんまり上手く行かなかったみたいで、そのほとんどがマケドナイ兵士の現地妻的な感じにとどまりました。
ここまでイケイケだったアレクサンドロスですが、ここから不幸が続いて襲い掛かってきます。
まず、アレクサンドロスの築いた帝国の宰相にまでなっていた、男色相手と噂されるヘファイスティオンが亡くなっています。
アレクサンドロスはこれに嘆き悲しみ、バビロンで盛大な葬儀を行いました。
そして翌年、ようやくヘファイスティオンを失った心の傷も癒えて来て、今度はアラビアにでも攻め込もうとしていた所、アレクサンドロス自身が倒れます。
これは病気説が濃厚ですが、毒殺説もあるみたいです。
アレクサンドロスは10日間熱にうなされた末、「最強の者が帝国を継承せよ」と遺言して亡くなりました。
紀元前323年、享年32歳の若さでした。
死後
彼の遺体は腐敗防止のために蜂蜜漬けにされ、黄金の棺桶に入れられてバビロンからマケドニアに運ばれていましたが、運んでいる途中で葬儀をするためにプトレマイオスに遺体を奪われたのは前述の通りです。
権力の承継には、権力者の祭祀を行うのが重要だったんですね。
アレクサンドロスの死後、後継者争いのディアドコイ戦争が勃発し、アレクサンドロスの築いた広大な帝国は、一気にバラバラとなりました。
その戦争の過程で、アレクサンドロスの母オリュンピアス、妻ロクサネ、息子アレクサンドロス4世、バルシネとの子供ヘラクレス、兄弟のクレオパトラ、キュナーネ、兄のフィリッポス3世。
アレクサンドロスの血族は、みんな権力争いに巻き込まれ、殺されてしまいました。バラバラとなった帝国を継いだのは、血の繋がりの無い人ばかりです。
でも、アレクサンドロス自身が、「最強の者が帝国を継承せよ」と言ったのだから、仕方ありませんよね。
まあこれも、死にかけなのにそんなこと言えるわけがない。これはディアドコイ(後継者)たちが自分の都合の良いようにつくった作り話だっていう説もあるんですけどね。
アレクサンドロスの即位時点でのマケドニアの領土が赤、最終的な支配地域が緑です。アレクサンドロス大王は、これをほとんど20代で征服しました。
彼がもっと長生きしていたら、歴史も変わっていたことでしょう。