続く東征
イッソスの戦いでダレイオス3世を打ち破り、ペルシアの財宝を手にして軍の財政状況も改善したアレクサンドロスは、アジアをどんどんと進撃していきます。
シリアに入ったアレクサンドロスは、抵抗らしい抵抗を受けることなく、どんどんと都市を無血開城させていきました。
というのも、アレクサンドロスがダレイオス3世を破ったことが広まっていて、超強いことが分かっていた話ですし、この辺りの地域は反ペルシアの機運が高かったことから、すんなりと通れたのです。
アレクサンドロスは、降伏した都市には寛容でした。
彼は降伏を申し出た都市には、ギリシア風の自治と民主主義を与えたぐらいです。
しかし、自身に歯向かった都市には容赦ありませんでした。
例えば、フェニキアのティールという都市がアレクサンドロスに従わず、抵抗した時などは、戦闘員をぶち殺して回り、非戦闘員は全員奴隷にしたりします。
「従うなら許す、逆らうなら殺すか奴隷にする」
これが東征の際の、アレクサンドロスの一貫した方針でした。
この方針のお陰で、「アレクサンドロスにはどうせ勝てないし、降伏しよう」という流れが加速します。
だからアレクサンドロスは素早く、一代でありえないほど領土を拡げられたのです。
エジプトのファラオとなる
アレクサンドロスはガザを落とした後、エジプトに侵入。
ここでアレクサンドロスは、ペルシア帝国からの解放者として歓迎されます。
アレクサンドロスはエジプトの民からアメン神の子とされ、ファラオに即位。
アメン神は神々の長として、ギリシアでのゼウス神と同一視されていたことから、アレクサンドロスは自分のことを「ゼウス=アメンの子」と自称しはじめます。
母親からも「ゼウスの子」と呼ばれて育てられたわけですし、神の長の子として権威付けしたわけですね。
エジプトでアレクサンドロスは兵士をゆっくり休ませながら、趣味の都市建設を始めます。
彼はナイル川河口の三角州の肥沃な土地に、アレキサンドリアという都市を開きました。
アレキサンドリアは、その名の通り、「アレクサンドロスの町」という意味です。
エジプトのアレクサンドリアは有名ですが、実はここ以外にも、色んな場所でアレキサンドリアという名前の町をつくっています。
同じアレキサンドリアという町だけでも20ぐらいつくったそうですね。
このエジプトのアレクサンドリアは、この後プトレマイオス朝エジプトの首都として繁栄し、「世界七不思議」であるアレキサンドリアの大灯台や、古代最大の学術の殿堂、アレキサンドリアの大図書館があることで有名になります。
メガロポリスの戦い
一方のギリシア本土では、アレクサンドロスの東征軍からもたらされた富や、貿易の活性化により、繁栄を謳歌していました。
しかし、ギリシアの中でも、これに不服な者が居ました。
スパルタです。
スパルタは、アレクサンドロスの下、強大化するマケドニアに脅威を抱きました。
そこでスパルタはペルシアと接触、ペルシア側もアレクサンドロスを脅威に思っていたため、両者の思惑が一致して、ペルシアはスパルタに資金援助を行います。
そしてペルシアの潤沢な資金と、最強の戦士であるスパルタが立ち上がってマケドニアに反旗を翻しました。これがメガロポリスの戦いです。
しかし、これはアレクサンドロスにマケドニアを任されていた、アンティパトロスによって鎮圧されました。
この戦いでギリシア内でのスパルタの発言権は完全に抑えられ、アレクサンドロスは後顧の憂い無く進軍することができるようになりました。
再びアジアへ
完全にホームグラウンドと化したエジプトで十分な休息を取ったアレクサンドロスの東征軍は、ペルシア帝国を打ち破るべく、再びアジアに侵入。
アレクサンドロスがフェニキアに滞在している時、ダレイオス3世から再度和睦を乞われます。
「ユーフラテス以西の領土をあげるから和睦しよう。ペルシア帝国と共に世界を支配しようではないか」といった内容でした。
アレクサンドロスはこの提案には悩んで会議を開き、ここでパルメニオン将軍が、「私がアレクサンドロスなら受けますな」と発言しました。
アレクサンドロスはそれに、「私がパルメニオンなら、そうするだろうな」と答えたそうです。
結局アレクサンドロスはこの申し出を「アジアに王は一人だけだ」と断ります。
こうして提案を蹴られたペルシアは、軍を勧めるアレクサンドロス軍を迎え撃とうと大軍を集めます。
ペルシア軍は帝国全土から軍勢をかき集めて、アレクサンドロスを討つため、イッソスの戦いでの反省を生かし、今回は数的優位が生かせる平野で決戦を挑みました。
そして、決戦兵器であるチャリオットが生かせるよう、地面を平地にならしていた李、草木を切り倒したりして事前の準備を怠りませんでした。
戦いの前夜、パルメニオン将軍は、アレクサンドロスに夜襲を提案します。
しかしアレクサンドロスは、「私は勝利を盗まない」と言って、兵士をグッスリと休ませました。
これに対し、ペルシア軍は数で劣るアレクサンドロス軍が夜襲に来ると思い、夜通し緊張を強いられました。
こうして紀元前331年に起こったのが、ガウガメラの戦いです。
ガウガメラの戦い
青:アレクサンドロス軍 赤:ペルシア軍(十字のような記号はチャリオット)
これが布陣図です。アレクサンドロス軍の方は、右翼をアレクサンドロス、左翼をパルメニオン将軍が率いています。
ペルシア軍はアレクサンドロスの軍より、横に1.5キロメートルぐらい長かったそうです。
敵が横に長いということは、包囲されやすいということです。
そのためにアレクサンドロスは後ろに予備を控えさせておきましたが、いずれにしろ数に劣るため包囲されるのは時間の問題でした。
では、どうするか?
包囲させてやればいいのです。
というわけで、アレクサンドロス軍はこんな感じに曲がりました。
こんなことをされれば、誰だって包囲したくなります。
そこでアレクサンドロスは、もっと奇妙なことをし始めます。
自軍右翼に向かって走り始めたのです。
これを放っておくと迂回されたりしたら大変なので、ペルシア軍は騎兵を回り込ませ、騎兵同士の戦闘が始まりました。
ここでペルシア軍がダメ押しのチャリオット投入。
このチャリオットは、車輪の部分に回転する刃がついていて、戦線を崩壊させる役割もありました。
ちなみにガウガメラの戦いでは、ペルシア側に戦象も居たらしいですが、役には立ちませんでした。
チャリオットに対しては、アレクサンドロスは事前に対策を立てていたようで、軽装歩兵が投げ槍を投げて倒していました。
そして打ち漏らしたチャリオットは下図のように倒しました。
馬の性質的に、前に穴が開いてるとそこに入ってしまい、そこで槍が構えられていたりすると足を止めてしまうそうです。
というわけで討ち漏らしたチャリオットは上図のように、第1戦列が横に避けて開いた穴に誘導し、止まった所をブスッと刺して倒したみたいです。
チャリオットが居なくなってアレクサンドロスは右翼の騎兵同士での戦いを押していました。
この時、パルメニオン将軍率いる自軍左翼が包囲され、崩壊寸前でしたが、必死に耐えていました。
さて、上図を見ると分かるように、右翼に空間が空いているのが分かりますね。
これこそがアレクサンドロスが狙った軍の裂け目でした。
アレクサンドロスは騎兵隊を急旋回させると、自身が先頭を走り、手が空いている兵士全員でダレイオス3世目掛けて突撃しました。
この時、自軍右翼側の敵騎兵は、アレクサンドロスの騎兵隊に随伴していた軽歩兵によって追撃を食い止められます。
騎兵の動きに随伴するには、重装歩兵よりも軽歩兵の方が良いですからね。アレクサンドロスは、ファランクスで鉄床戦術するという最強の戦術をワンパターンでやるような王では無かったのです。
この大きく開いた裂け目から、アレクサンドロス軍が兵士を殺しながら、どんどんと近づいてくるのに恐怖を感じたダレイオス3世は逃走します。
アレクサンドロスはダレイオス3世を追撃しようとしました。
ここでダレイオス3世を倒さないと、また軍を集めて戦わなければならないため、いたちごっこなわけです。
しかし、ここでパルメニオン将軍からの救援の要請が来ました。
左翼ではパルメニオン将軍が包囲され、とても酷い状況に陥っていました。
ここでアレクサンドロスは決断を迫られます。
ダレイオス3世を見逃してパルメニオンを助けるか、パルメニオンを見捨ててダレイオス3世を追撃するか。
アレクサンドロスは、パルメニオン将軍を助ける方を選びました。
パルメニオンを助け、アレクサンドロスは、このガウガメラの戦いでの勝利を手にします。
しかし、その後追撃をかけたものの、ダレイオス3世は逃してしまいます。
アレクサンドロスはペルシアの主要都市バビロンに入城し、自らを大王と称しました。
しかしこれで終わりではなく、逃げ続けるダレイオス3世を捕まえる必要がありました。
ダレイオスが逃げ続ける限り、軍を集めて何度でも再起をかけられるから厄介です。
ペルセポリスを破壊
その後、アレクサンドロスはアケメネス朝ペルシアの都、ペルセポリスに入城。
彼は昔ペルシアがギリシアに侵略してきた時、ペルシアのクセルクセス王がアテネのアクロポリスを破壊した腹いせに、ここで徹底的な略奪と破壊を行いました。
以来、今日に至るまでペルセポリスは廃墟と化し、今ではその廃墟が世界遺産となっています。