相次ぐ反乱
父のフィリッポス2世が暗殺され、マケドニアの王(バシレウス)となった若きアレクサンドロス。
アレクサンドロスとその母オリュンピアスは、国内の政敵を次々と処刑して葬り去っていきます。
この粛清のお陰で、マケドニア国内での権力の掌握は成功しました。
しかし、マケドニアの版図を拡大した偉大なる王フィリッポス2世の死に乗じて、あちこちで反乱が起きました。
今でこそアレクサンドロスは最強の戦術家と誰もが知っていますが、この時点ではカイロネイアの戦いでちょっとラッキーパンチ打ったぐらいの青二才だと思われていたからでしょう。
先王であるフィリッポス2世は、弱小国だったマケドニアを、一代でギリシアの覇権国家に仕立て上げた怪物でした。
まさかそのフィリッポス2世の子が、その偉大なる父をも凌ぐ化け物だとは、この時点では誰もが思っていなかったのです。
というわけでこれはチャンスとばかりに、トラキアやイリュリアが蜂起しますが、アレクサンドロスによってすぐに鎮圧されます。
さらにギリシアの諸ポリス(都市国家)もこれを好機と判断し、マケドニアに反旗を翻します。
まさに弱肉強食の世界でした。
しかしアレクサンドロスは、軍を即座に動かして南下。テーバイを見せしめとして廃墟と化し、その住人を見せしめとして奴隷にして売り飛ばしました。
他のギリシアの諸ポリスは、「こいつを怒らせるとヤベエ」と、アレクサンドロスを父同様、コリントス同盟の盟主と認め、アレクサンドロスもこれを許しました。
ディオゲネスとの邂逅
この頃、アレクサンドロスはコリントスに訪れた時に、「樽のディオゲネス」とか「狂ったソクラテス」とか異名を持つディオゲネスと会っています。
彼は樽の中に住んでいた哲学者で、その奇行ゆえに有名でした。
アレクサンドロスはコリントスに来た際、「向こうから挨拶にでも来るだろう」とか調子に乗って思ってたのですが、来ませんでした。
それもまあ無理の無い事で、他の有名な哲学者や政治家は、アレクサンドロスに寄って来てましたからね。
というわけで、いつまでたっても会いに来ないディオゲネスにしびれを切らしたアレクサンドロスは、わざわざ自らディオゲネスを尋ねました。
ディオゲネスの所へ行くと、彼はいつも通り日向ぼっこをしていました。
そこにアレクサンドロスが近寄り、「何か欲しいものはあるか?」と尋ねると、ディオゲネスは、「陽の光が当たらないから、そこをどいておくれ」と答えました。
これにはアレクサンドロスも苦笑い。帰る途中、お付きの者たちに、「私がもしアレクサンドロスでは無かったら、ディオゲネスでありたい」と漏らしたそうです。
東征
さて、国内を掌握し、ギリシアの盟主としても認められ、次にやることは父の悲願でもあった、ペルシア遠征でした。
アレクサンドロスはペルシア遠征の準備をし始めます。
この時、アレクサンドロスは自分の資産を、周りの者たちに気前よく配りました。
そこで臣下に、「王よ、これではあなたの元に何も残らないでは無いですか」と尋ねられると、アレクサンドロスは、「私には希望が残る」と答えました。
紀元前334年、アレクサンドロスは先王からの重臣であるアンティパトロスにマケドニアを任せ、東征に旅立ちます。ここから、アレクサンドロスが故郷マケドニアに帰ることはありませんでした。
アレクサンドロスはヨーロッパからアジアへ渡る際、船から槍を投げ、「あの槍の刺さった土地は、神から与えられし領土だ!」と叫びます。
さて、このアレクサンドロス側の動きは、ペルシア側に察知されていました。
そこでペルシア側で軍議が行われます。
ここでメムノンという、ギリシア人でありながらペルシアに味方している傭兵が、「焦土作戦をしましょう」と提案します。
実はアレクサンドロスの東征軍は、資金や補給の面で火の車であり、略奪や徴発で現地調達できなければ、軍を維持できなかったのです。
というわけで、メムノンの言う通り焦土作戦をされたらヤバかったのです。
しかしペルシア人将校は、「我が国を焦土と化すなど、とんでもない! 戦闘を長引かせ、給料をたくさんもらうつもりだろう?!」と却下されました。
そして、「ギリシアみたいな小さい領域の覇権国家がなんぼのもんじゃい! アジアの大帝国であるペルシアの精鋭で捻りつぶしてやるわ!」とペルシア軍をグラニコス川で展開し、アレクサンドロスの軍を待ち受けました。
こうして行われたのが、グラニコス川の戦いです。
グラニコス川の戦い
青:アレクサンドロス軍 赤:ペルシア軍
これが布陣図です。
ペルシア軍はなぜか騎兵を前面に出していますが、歩兵が前面に出てたという説もあります。
ここでアレクサンドロス率いる騎兵部隊が先行して川を渡り、そのまま敵陣に突入。
その勢いで、アレクサンドロス自らが敵将のミトリダテスを投げ槍で討ち取りました。
この時、アレクサンドロスに対してペルシア軍将校の斧が背後から迫りますが、側近のクレイトスが敵将校の腕を切り飛ばし、アレクサンドロスを助けました。
他のマケドニア軍も川を渡り、ペルシア騎兵と交戦し始めます。
アレクサンドロス率いる騎兵隊は敵右翼に回って、自軍と挟撃を行って、そのまま勝ちました。
ゴルディアスの結び目
アレクサンドロスはペルシア軍を蹴散らしながら、小アジアを進撃。
途中に立ち寄ったフリギアの都で、有名なゴルディアスの結び目を解いています。
柱と牛車が、紐ですごいしっかり結ばれていて、「この結び目を解けた者は、アジアの王となるであろう」との言い伝えがあった結び目でした。
この結び目、超すごい知恵の輪みたいな感じで、数百年間だれも解けなかったのです。
アレクサンドロスもここに来たついでに、「いっちょ、やってやるか!」と結び目を解き始めました。
しかし、さすがのアレクサンドロスでもゴルディアスの結び目は手ごわく、中々結び目を解けません。
アレクサンドロスは結び目に挑戦している内に段々とイライラしてきて、剣を抜き、「えいや!」と結び目を一刀両断しました。
すると結び目はスルリと解け、周りの者たちは、「見ろ、王が結び目を解いたぞ!」と大喜びしました。
そんなことをしながら、アレクサンドロスは小アジアを征圧。
しかし、ペルシアの王ダレイオス3世がこれに焦ります。
彼は大軍を集め、自ら兵を率いてアレクサンドロスを待ち受けました。
これを知ったアレクサンドロスは、敵は大軍なので補給が続かないと見抜き、あえて決戦を避けました。
するとダレイオス三世がしびれを切らし、大軍である利点を生かせる有利な平原から進軍し、山と地中海に挟まれた狭い平野に誘い込まれます。
こうして行われたのが、イッソスの戦いです。
イッソスの戦い
青:アレクサンドロス軍 赤:ペルシア軍
これが布陣図です。狭い地域に誘い込まれたダレイオス3世は、せっかくの大軍を活かしきれていません。
この戦いでは、いつも通りアレクサンドロスが右翼を率い、相手の左翼を突破させます。
しかし、ペルシアの方も右翼に騎兵を集めており、パルメニオン将軍率いるアレクサンドロス軍の左翼が破られれば、ぐるっと回って包囲され、いつもやっている鉄床戦術を逆に敵からお見舞いされる可能性もありました。
つまり、アレクサンドロスの右翼かペルシアの右翼、どちらが先に相手の左翼を潰せるかが勝負の分かれ目だったわけです。
この勝負に勝ったのは、もちろんアレクサンドロスの方でした。
彼は敵左翼を敗走させた後、ダレイオス3世に向かって突撃、肉薄します。
ダレイオス3世は自軍左翼が崩れたのを見て、逃走しました。
王が逃げたのを見て、ペルシア軍は総崩れになります。
古代の戦闘では、総大将が戦場から居なくなると士気が崩壊し、大抵負けます。
この戦いで、ペルシア軍は大量の財宝を残していきました。
今まではアレクサンドロスの東征は赤字で、財政的にヤバかったのですが、この財宝で財政的に黒字化します。
さらに、ダレイオス3世は母や妻、娘などの家族を戦場に連れてきており、その家族を残して逃げて行ったため、捕虜にすることができました。
この時、ダレイオス3世の母がアレクサンドロスと対面した際、間違えてアレクサンドロスではなく、親友で幕僚のヘファイスティオンに跪いてしまいます。
しかしアレクサンドロスは笑ってこれを許し、ダレイオス3世の家族を丁重にもてなしました。
ちなみにアレクサンドロスと、このヘファイスティオンは男色関係にあったという説もあります。
ダレイオス3世はこのイッソスの戦いの後、「お金あげるから家族を返してくれ、あと土地もあげるから和睦しよう」と提案してきましたが、アレクサンドロスは、「今のアジア王は私である、アジアの領土については私だけが決められる」とこれを拒否しました。
このイッソスの戦いでの勝利によって、アレクサンドロスの有名はアジア中に響き渡るのでした。