生まれ
アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタインは、1583年に、ボヘミアのプロテスタント系の貧乏貴族の家に生まれました。城と7つの村を所有する程度の家柄だったみたいですね。
ヴァレンシュタインの母親は10歳の時、父親は12歳の時に死んでしまいました。そのため、彼は叔父の所に厄介になります。こういうの肩身狭いですよね。
大きくなると、アルトドルフ大学、ボローニャ大学、バドヴァ大学などで学びます。
ヴァレンシュタインはドイツ語、チェコ語、ラテン語、イタリア語を流暢に話すことが出来、スペイン語とフランス語もそれなりに話せたみたいです。
ただし、とても喧嘩っぱやい性格だったようで、よく刑務所に入ってたようですね。
彼は色んな所に行く間に、プロテスタントからカトリックに改宗していました。
玉の輿
1609年、ヴァレンシュタインはモラヴィアに広大な領地を持つ、大金持ちの未亡人と結婚しました。奥さんは3歳年上だったみたいです。
そして5年後にその大金持ちの妻が亡くなり、子供もいなかったため、ヴァレンシュタインが全ての財産を相続しました。
ヴァレンシュタインはこの資金を使って、高利貸しをしたり、領地で殖産興業などをして、とても大儲けしました。
プラハ窓外投擲事件
さて、ヴァレンシュタインはボヘミアの貴族ですが、そのボヘミア王にハプスブルク家のフェルディナントが即位します。
新しいボヘミア王のフェルディナントは、ハプスブルク家なのでカトリックです。しかもフェルディナントは熱心なカトリック信者でした。
だから「領地であるボヘミアもカトリックにするぞ!」と意気込み、ボヘミアのプロテスタントを弾圧しようとします。
これにマジギレしたのは、ボヘミアのプロテスタント系貴族たちです。
彼らは、「そんなやつは王と認めん!」とかなり抵抗をします。
そして王の使者が、プラハ城の3階の窓から投げ落とされました。これがプラハ窓外投擲事件です。
そして、ボヘミアの貴族たちは、「新しい王はフェルディナントではなく、プロテスタントであるプファルツ選帝侯フリードリヒ5世だ!」とよそから王を引っ張ってきます。
プロテスタントにボヘミア王位を横取りされたフェルディナントは激怒。軍隊を派遣します。
これが当時のドイツの人口を3分の1にしたとされる、30年戦争の始まりです。(3分の1減っただけという説もある)
戦争が起こって戦場になった上に、傭兵があちこちで略奪しまくりますからね。
30年戦争
この30年戦争ですが、ものすごーくざっくり言うと、カトリック対プロテスタントの宗教戦争です。
ただし、色んな国が自国の権益のために介入してきたりするので、だんだんゴチャゴチャした感じの戦争になります。
例えば、フランスなどはカトリックのくせに、プロテスタント側についています。
フランスは、スペインのハプスブルグ家とオーストリアのハプスブルク家に囲まれています。そしてフランスのブルボン家と、オーストリアやスペインのハプスブルク家とは犬猿の仲です。
そのため、ドイツが内輪揉めして、ハプスブルク家の国力を落としてくれた方が嬉しいのですね。
つまり宗教より、国家の利益の方を取ったわけですね。
成り上がり
さて、ボヘミアの貴族のヴァレンシュタインですが、彼はカトリックであるハプスブルクのフェルディナント2世の側につきます。
あ、ちなみにこの時はもうフェルディナントは神聖ローマ皇帝になって、フェルディナント2世になっていました。
ヴァレンシュタインは軍事的才能を発揮して、ボヘミアの反乱の鎮圧に貢献。潰したプロテスタントの貴族の土地をゲットして、ボヘミアでの有力貴族にのし上がりました。
皇帝からの信頼を得たヴァレンシュタインは、皇帝の側近の娘を2番目の嫁として貰い、皇帝との太いパイプをつくりました。
ヴァレンシュタインはその政治的才能によって領地経営で得た莫大な資金をもって、カトリックである皇帝とプロテスタントとの戦いを資金面でも、軍事面でも援助、ついにはフリートラント侯にまで上り詰めます。
ヴァレンシュタインの領地経営は物凄く上手く、かなり細かいところまで政治を行い、彼の領地はとても繁栄したようです。
軍税制度の導入
弾圧されっぱなしだったプロテスタント側ですが、これで終わりません。
1625年、デンマーク王のクリスチャン4世が30年戦争に介入してきます。
ここでヴァレンシュタインが、皇帝フェルディナント2世に魅力的な提案をします。
「私がプロテスタント共を掃討してやりますよ。」
でも、「皇帝が軍資金は出せない」と言うと。
ヴァレンシュタインは、「大丈夫です、私が軍も金も自前で調達します」と豪語しました。
プロテスタント側にはデンマーク軍だけではなく、イギリスに資金援助された、マンスフェルトやクリスティアンなどの傭兵団も居たので、どうやって太刀打ちするのか謎でしたが、皇帝は、「まあこいつがやるって言ってんだから、やらせときゃいっか」と思ってオーケーを出しました。
皇帝は金も軍も出さないんだから、損はしませんからね。
皇帝に許可をもらったヴァレンシュタインは、皇帝軍総司令官となり、3万人の傭兵を集めてプロテスタントを迎撃しにいきました。
しかし。いくら有力貴族になったからって、そんな大軍維持する金はポケットから出せるわけがありません。
そこで彼は略奪を行いました。それも従来取られていたような略奪方法ではなく、合法的な略奪です。
ヴァレンシュタインは、略奪免除税なるものを考案し、駐屯地の先の政府から取り立てました。
略奪されたくなかったら、カネ出せや。ってことですね。
この制度の上手い所は、民衆は政府に対して税金を払い、軍はそこから金を受け取ることです。
従来は傭兵が直接略奪していたりして恨まれたり、略奪したらちょっと手が滑って領民を殺しちゃったりしていたのですが、この軍税制度のおかげで、安定的な収入が得られることになって、それまでとは違って大規模な傭兵を維持することができました。
さらに民が税金を払う先は政府なので、傭兵が恨まれません。
さて、敵のプロテスタントの軍ですが、デンマーク軍と傭兵団の主導権争いが起こったため、ついに仲たがいして別れて行動していました。
そこを皇帝軍が各個撃破します。。
傭兵隊長マンスフェルト
ちなみに、ここでヴァレンシュタインが潰した傭兵隊長のマンスフェルトは、「甲冑をまとった乞食」と言われた人でした。
当時、傭兵は金を貰って戦争をし、副業に略奪をするのが普通でしたが、マンスフェルトは、「略奪を本業にして、傭兵を副業にしたら良いんじゃね?」とコペルニクス的転回をした人物です。
マンスフェルトは敵味方関係なく、駐屯した所では略奪をしまくったので、とても恐れられました。
でもマンスフェルトも、デッサウの戦いでヴァレンシュタインに倒され、その後逃げてる所で病死しました。
ヴァレンシュタインはこのマンスフェルトを倒した後、将軍ティリー伯と合流。デンマーク王と戦ってクリスチャン4世を追い返しています。
ヴァレンシュタインはこの頃、天文学で有名なケプラーを雇っていました。
ヴァレンシュタインは占星術に目が無く、ケプラーをお抱えの占星術師として迎えたようですね。でもこの時代、占星術が流行っていたので、ヴァレンシュタインだけがハマっていたわけではありません。
ヴァレンシュタインは一連の功績により、メクレンブルク公の爵位もゲットしました。
順調に出世してますね。
諸侯たちの嫉妬
しかし、地方の弱小貧乏貴族からの成り上がり者に対するドイツ諸侯のやっかみは、それはもう凄まじいものでした。
さて、デンマーク王はヴォルガストの戦いで皇帝軍に敗北。この頃にはヴァレンシュタインの軍勢は10万以上にも膨らんでいたそうです。
新しい合法的な略奪手段である、軍税制度のお陰ですね。
デンマーク王はデンマークへ逃げ帰り、1629年にリューベックの和約を結んで、デンマーク軍をドイツから追い出すことに成功しました。
ここで皇帝フェルディナント2世は、プロテスタントをボコボコにしたので、調子に乗って復旧令を出します。
これは『プロテスタント側は、昔カトリックが持っていた土地を明け渡せ』という内容です。
あきらかにプロテスタントが抵抗しそうな内容ですが、プロテスタントだけではなく、カトリック諸侯からも非難の声が上がりました。カトリック側はプロテスタントの土地がもらえるのに、なんで反発するのでしょう?
考えてみてください。皇帝はハプスブルク家でカトリックです。この勅令は皇帝の権力の拡大にすごく有利なのです。
皇帝お抱えのヴァレンシュタインという軍事力に、復旧令まで認められたら、皇帝はドイツで絶対王政を確立してしまうでしょう。
そうしたら、カトリックの諸侯でも強大になった皇帝に押さえつけられて、影響力が無くなります。そんなことは、カトリックの諸侯としても、なんとか避けたいのです。もう宗教とか関係無く。政治争いですね。
だから選帝侯会議で、復旧令の撤回と、ヴァレンシュタインの皇帝軍総司令官罷免が求められ、「もし従わないと、皇帝の息子のフェルディナントをローマ王に選出しないぞ」と脅しました。
ローマ王は、次期神聖ローマ帝国皇帝の予備選挙みたいな感じです。ローマ王が次の皇帝になります。
だから、息子のフェルディナントがローマ王に選出されない、というのは困ります。
そこで皇帝は復旧令は通したかったので、「ヴァレンシュタインを皇帝軍総司令官から罷免して、メクレンブルク公位も取り上げるから、許して」と譲歩します。
ヴァレンシュタインの犠牲によって、カトリック諸侯はいくらか溜飲を下げました。
しかし、結局皇帝の息子のフェルディナントはローマ王に選出されませんでした。
そしてヴァレンシュタインは軍務を引退しました。
北方の獅子王の登場
しかしここで、スウェーデンの『北方の獅子王』ことグスタフ2世アドルフが、プロテスタントを支援すると言って30年戦争に介入してきました! 格ゲーの乱入者みたいにどんどん介入して来ますね。
獅子王のグスタフ・アドルフはマウリッツの築いた三兵戦術の基礎を、実践した人として有名ですね。
三兵戦術は歩兵・騎兵・砲兵を組み合わせて有機的に活用する戦術です。
当時流行っていた、最強戦術であるテルシオに対抗するために生み出された戦術でした。
この新戦術により、ヴァレンシュタインの後を継いだ皇帝軍総司令官ティリー伯は、グスタフ・アドルフに連戦連敗しました。
特に帝国軍のテルシオが、グスタフ・アドルフの三兵戦術によって、ブライテンフェルトの戦いで破られたのは有名ですね。
最終的にティリー伯はレヒ川の戦いで負傷し、死亡してしまいます。
グスタフ・アドルフは超強かったのでカトリックの諸侯は戦々恐々とします。こんな強い奴を止められるのはアイツしか居ねえ・・・。
そう、ヴァレンシュタインです。
ヴァレンシュタイン再び
皇帝はヴァレンシュタインに、「お願い、総司令官になってグスタフ・アドルフをやっつけて!」と頼みますが、ヴァレンシュタインは渋ります。
そりゃさっき罷免されたばかりですしね。
ここで皇帝は「なんでもするから!」とかなりの譲歩をして、ようやくヴァレンシュタインは「しゃーねーな」と立ち上がりました。
ヴァレンシュタインは数週間で兵士を訓練し北上、グスタフ・アドルフを迎え撃ちました。
さすがの獅子王も名将ヴァレンシュタイン相手では、今までのようにはいきませんでした。ここで戦線は膠着します。
これを見て、日和見を決め込んでいたドイツ諸侯は、皇帝軍支持に傾いていきます。
そこでヴァレンシュタインは、戦線が膠着している間に、軍を分けてザクセンに攻め込み、この流れを決定的にしようと思いました。
しかしヴァレンシュタインが軍を分けたのを見たグスタフ・アドルフは、これを好機と判断し、決戦を挑むため強行してきます。
ここでヴァレンシュタインは分けた軍を呼び戻し、グスタフ・アドルフを迎え撃ちます。これがリュッツェンの戦いですね。
名将同士の戦いで、両軍とも善戦しましたが、大砲の数が3倍多い分、獅子王の側が有利でした。
ヴァレンシュタインは追撃されないように慎重にリュッツェンから退却しました。このことからリュッツェンの戦いはプロテスタントの勝利と言われます。
しかし、なんと『北方の獅子王』グスタフ・アドルフは、この戦いで戦死していたのです! 戦場の霧によって知らず知らずのうちに敵中に突出していた所を、小銃で撃たれてしまったのですね。
狡兎死して走狗煮らる
さて、最強の脅威であるグスタフ・アドルフは死にました。
未だに戦争は続いていましたが、皇帝の意に反してヴァレンシュタインが勝手にプロテスタントと和睦しようとし始めます。
皇帝は、「もう脅威だったグスタフ・アドルフも死んだし、勝手に動き始めたし、こいつも邪魔だな」と思って、ヴァレンシュタインを皇帝軍の将校に暗殺させます。
グスタフ・アドルフを倒すためにヴァレンシュタインを起用したのですから、敵がいなくなると、強すぎる味方は逆に危ないですよね。
有能すぎる人材は上の者の地位まで脅かしますからね、潰せるうちに潰しとくことが多いです。
まあヴァレンシュタインは強すぎたので、色んな国から「寝返らないか?」と言われていたので、皇帝としては殺しておいた方が安心だったのでしょう。敵を倒してしまうと自分の身が危なくなるとか、皮肉ですよね。
グスタフ・アドルフは敵であると同時に、ヴァレンシュタインが皇帝に生かされている理由にもなっていましたから。
存在価値が薄くなったら、粛清されるんですね。
その後
ヴァレンシュタインの莫大な財産は没収され、暗殺者にはたくさんの賞金が配られたようです。まあそれでもヴァレンシュタインの財産全体からすれば雀の涙でしょうけど。
そして新しい皇帝軍の総司令官には、皇帝の息子のフェルディナントが就任しましたとさ。
どさくさに紛れて息子を司令官にするとか皇帝もやりますね。
しかし彼がフェルディナント3世として神聖ローマ皇帝に即位した後、30年戦争に負けて「神聖ローマ帝国の死亡診断書」と呼ばれるヴェストファーレン条約を結んだため、皇帝の中央集権化の試みに失敗してしまうのでした。
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